第一章  八月二十六日午後十時三十二分 愛人

        ♪あなたが好きだからそれでいいのよ たとえ一緒に街を歩けなくても    

     この部屋にいつも帰ってくれたら  わたしは待つ身の 女でいいの   

      ♪尽くして 泣きぬれて そして愛されて 時がふたりを離さぬように    

     見つめて 寄り添って そして抱きしめて    

     このままあなたの胸で暮らしたい♪  


梅雨が終わって、夏がやってきた。一九九九年の夏は天候も不順、人心も落ち着かない、悪いことが連続して起こりそうな不吉な兆しに満ち満ちた夏だった。実際、何回か長い雨が続き、川が氾濫し、いろいろなところで川沿いの家が何軒も流された。横浜も息苦しく蒸し暑い日がつづいた。そして、晩夏である。八月二十六日も朝から雨だった。木曜日、夕方だった。明智小太郎は自分の部屋に閉じこもって昼過ぎからずっと辞書と首っ引きで英文資料の翻訳の下原稿を作っていた。序章では、自分を中華街の駐車場の深夜料金係と名乗ったが、実際のところはそういうわけでもなかった。多角経営といってもいいかもしれない。いちおう、崩れてしまっているが、大学卒のインテリである。日常的に金がなく、というよりお金が足りなくて困っていた。要するに、金になる仕事であればなんでもやるというのが彼のポリシーだった。で、そのうちのひとつが売れない雑文書きだった。金になればなんでもやる、能力と時間の許す限りで対応する。そして、その時の彼の一番の問題は[secretion→分泌物]と[lymphatic vessel→リンパ管]と[metabolic→新陳代謝の]だった…。頭を抱えて、言葉の意味をつなげて文章にしてキーボードに打ち込む、その作業を何時間もつづけている最中に、テーブルの上のファックス電話がジリジリと鳴った。そして、しばらくするとカタカタと白い紙を吐き出し始めた。これはもう二十世紀のどんづまり近くの、いまから十五、六年前の物語なのだが、このころまでは、出版社の編集仕事の中にはかなりの割合でアナログな部分が残っていた。原稿はまだ、半分くらいのライターたちが原稿を手書きで書いていて、あるいはワープロで書いたものをプリントアウトして、それをFAXで送って、編集がそれをチェックするというやり方でものごとが進行していた。もうずいぶん前にこういうことのためにファックスが使われることもなくなり、全部の人が、文書をメールで送るようになった。いまやパソコンで原稿書きしないと、誰も相手にしてくれない時代になってしまった。かし、このころはまだ出来あがった原稿をファックスで送って、それを編集者が受け取って読み、いけてるかどうかを判断する、という形で仕事が進んでいた。そして、電話でオッケーをもらって、編集部にフロッピーを持って訪ねていき、入稿作業に付きあって、あとから編集者の愚痴や不満を聞いてあげながら一杯おごってもらうという形で仕事が進んでいた。データの保存はCDがやっと一般化してきたころだった。思えば、フロッピーとかMOなんていうのも、いまや完全な死語になってしまった。いまの時代はパソコンでさえも、三、四年経つと、壊れたときにメーカーに電話すると修理するより、買い換える方が安いですよ、といわれるのである。彼はこういうものの消費と進化のスピードにどうしても馴染めなかった。変化が早すぎると思っていた。意思の疎通をファックスでやっていた時代には、まだものごとに手作りの感覚が残っていて、汗を流しながら仕事をしているという感じがあった。昨今、雑誌がどんどんダメになっているという。いまのそういう雑誌の衰退的な状況はどうでもいいことだが、そもそも基本的にアナログなものをデジタルな器具・機能をフル活用して作ろうとするところにものごとの成立の仕方として無理があるのではないか。あのころはまだ編集者と執筆者が互いに息遣いが聞こえるような距離で仕事ができた最後の時代だったのかもしれない。そんなわけで、この話もそういう時代の物語である。この日も彼あてに週刊ポンプからファックスが送られてきたのだ。この時間にファックスを送ってくるのは週刊ポンプの橘川真理子に決まっていた。週刊ポンプはそのころ、彼が毎週やっつけ仕事で雑文を書きちらしていたサラリーマン向けの週刊誌で、彼女はその、彼が原稿書きを請け負っている頁の担当編集者だった。やりかけていた英語の医学論文の下訳の原稿書きを中断してファックスを読んだ。テーマの所にハートのマークをまぶした、いつも橘川真理子が送りつけてくる文面である。週刊誌の連載頁というとだいぶ聞こえがよく大作家みたいだが、彼の書いている頁はまあ、自慢するようなものでもない、これ、ぼくが書いているんですと、人には言えないような内容のものだった。ファックスには美しい女文字でこう書かれていた。 

お疲れさまです。アケチさんの[地獄の人生絶望相談]、大好評です。  今週は質問の数を一問増やしたいと思います。 問題を考えたので原稿を月末までに書いてやって下さい。どの質問もいつもの絶望的な調子で解答してやって下さい。一度、編集長がどこかで会いたいといっています。それも調整してやって下さい。この件につきましてはあらためてご連絡いたします。 さて、相談の質問は以下の二つです。   

[1]オヤジが酒に酔うと理由もなくボクやオフクロを殴ります。ボクはどうしたらいいですか。 [2]失業しそうです。割り増しの退職金をもらって会社を辞めるか、それともいまのところにしがみついているか、迷っています。ボクはどうしたらいいですか。  

それから、もう一つの企画の[サセコちゃん]の方も3人分お願いします。こちらも締め切りは月末ですから、できるだけ早く、原稿書いて送って下さい。行方不明になったり、連絡が取れなくなっちゃったりしないでくださいね。  くれぐもよろしく。  以上、ご連絡差し上げました。よろしくどうぞ。                             週刊ポンプ  橘川真理子

 週刊ポンプは大手出版社である某、※学館が発行している、編集方針に[金もない、地位もない、名誉もない。週刊ポンプは貧民の皆さんの見方です]の人生三無主義を提唱・標榜し、あるのは若さと格差だけというプアな男たちを読者対象にするウィークリィ・ヤングマガジンだった。彼はその雑誌の定例企画のなかの人生相談の頁で冗談で、世捨て人・婆捨山棄太郎を名乗っていた。婆捨山棄太郎はつまり、世捨て評論家である。そして世のなかの不景気をいいことに《あの世は天国、この世は地獄、世捨て人・婆捨山棄太郎の絶望人生相談》をキャッチフレーズに[こちら地獄の3丁目、絶望人生相談所へようこそ]というタイトルを掲げ、好き勝手なことを書きちらしていたのだ。じつは、この[世捨て人・婆捨山棄太郎の地獄の絶望人生相談]のコンセプトは彼が自分からやりたいといい出して始まったことではなかった。この仕事を彼に回してくれたのは学生時代の同窓生で、※学館に勤める柚木圭一が、自分がこの雑誌の編集長に昇格したのを記念して思いついた企画で、そもそもは彼が一人で勝手に面白がってやっていたことだった。柚木は最初、思いつきでこの頁を作り、そういう架空のペンネームをつくって半分遊びで自分で好き勝手なことを書きちらしていたのだが、途中から忙しくなってきてしまい、だんだんそのページが重荷になってきてやる気をなくしていたところだったのである。そこへ、彼がそれまで勤めていた会社を辞めて、フラフラと遊びにいったのだ。その時、柚木が「お前、これ、オレのかわりにこのあとをつづけてやってくんない?」といって押しつけてきた仕事がこの頁だった。彼は別に仕事が欲しくて柚木を訪ねたわけではなかったが、それが同情してでもなんでも仕事をくれて、原稿料もくれるというのであれば有り難くないわけがなかった。ちゃんとやればお金をもらえるのである。どんなに気に入らない仕事でもどんなにくだらない仕事でも、金になればまた別である。彼も最初、こんなばかげた仕事、どうでもいいやと思っていたが、やり始めると、一問、二問、質問に答える形で三百字くらいの原稿を作り上げて、それをファックスすると自分の銀行口座に毎週、三万円、四万円の原稿料が振り込まれるのである。その金が入ってくるようになったとたんに、ありがたさが身に沁みて、その仕事はたちまち彼の大事な作業のひとつになっていった。週刊誌だから、月に四回、原稿料が振り込まれる。ここでちょっと、彼のこのころの収入と支出の構造を書いておかなければならない。そうしないと、このときに彼がやっていた一つ一つの仕事の重要さがわかってもらえないだろう。まず、このころの彼の収入は、「週刊ポンプ」から請け負う雑文の原稿書きが週六万円から八万くらいで、ひと月は四週間だから掛ける四で、二十四万円から三十二万円、ここから一割くらい税金を取られる。それから、医学雑誌の外国の論文の翻訳というか、下訳作りがこれが大体四百字原稿二十枚くらいなのだが、これが毎月の仕事で、七万円くらい。これは源泉は引かれていなくて、編集部は原稿料ではなく、雑費というかアルバイト代で処理していた。これがいちおう、昔の因縁系の仕事である。これは虎ノ門にある共同医学出版というところからもらっている仕事だった。そして、このほかに、横浜系とでも書けばいいだろうか。元町の、前出の不動産屋兼地元住民の私設相談係りである樫山清三から回ってくる雑用処理係の仕事があった。それはあらゆる便利屋仕事、白タク運転手から引っ越しの手伝い、遺品整理、私立探偵まがいの尾行や聞き込み調査など、どの仕事も不定期で、安定収入というわけではなかったが、それでも大体、毎月十万円から十五万円くらいの稼ぎになった。それと、中華街の駐車場の徹夜の料金係というか、ようするに真夜中の見張りみたいなものなのだが、週に一度ずつ、夜十時からあくる朝の七時まで、九時間の徹夜仕事で、いちおう、本当はずっと起きていなければいけないことになっていたが、じつは事務所の料金箱の脇にあるソファで横になっていてもかまわないというゆるい仕事で一晩で一万円がもらえた。こっちの仕事は、中華街の西門の脇にある、前出したが喫茶店『月町』のママの竹美ちゃん、ちゃん付けで呼んでいるが、もう七十すぎのおばあさんだった─に口を利いてもらって、ありついた仕事だった。こんなふうに細かい仕事をあれこれ集めて、コマネズミのようにうごきまわって働いていたのは、そうしなければ、必要なだけの金を稼げないからだった。一時にまとまった金を稼ぎだす方法を思いつかなかった。それでも、それやこれやを合計すると毎月最低でも四十万円、調子のいいときには五十万円くらい稼いでいたのだから、自分でもよくやっているのではないかと思っていた。ところがである。生活はひとり暮らしであるにかかわらず、四十万以上の稼ぎがあるというのに全然楽にならなかった。というのは、彼の毎月の支出に別れた女房のところにいるふたりの娘たちのための養育費に毎月二十五万円という、非情な支出があるのだった。それで、この分を収入から引くと、いっきょに彼は毎月、生活費を二十万円くらいしか使えない低所得者、貧乏暮らしになってしまうのだった。しかも、娘たちはふたりとも大学に通っていて、その学費が毎年、合わせて二百万近く掛かるのである。離婚したときの約束で、この費用は半分は彼が受け持たなければならないという話になっていた。これはもし、手元にそれだけのお金がなかったら、貯金を崩して対応するしかなかった。この金を払わずにいると、夢のなかにふたりの娘が登場して、ふたりで涙を流して、お金がない、お金がないといって泣きじゃくるのである。これは彼には耐えられなかった。どうしてこんなことになってしまったのかの説明はおいおいしていくことにしよう。とにかく、彼としては、情けない話だが、いくら稼いでも稼ぎすぎということはなかった。娘たちが大学を卒業して社会人として自立するその日まで、彼には彼女たちの〝幻の父親〟としての義務が、それは主に金銭的なものだったのだが、ついて回っていたのである。かくて、明智家の家計(家計といっても、実質は彼ひとりと犬が一匹だけだったが)は、雑文書きの仕事がなくなっても、横浜の住民たちのための便利屋仕事がなくなっても困るという、二重構造の収入の桎梏に支えられて生活していたのだった。彼は、なんとかしてもう少し稼ぎを増やしたかったのだが、このときの現実としては、かなり働きづめで働いても、そもそも、いずれは野垂れ死にするだろうという覚悟もあったのであらためて貯金を始めるなどということも考えず、わりあい、宵越しの金は持たねえみたいな感じで、お金がないくせに高い和牛の霜降り肉などを買ってきてひとりで焼いて食べたりして、それなりに気ままに暮らしていた。そんな彼がどうして[野垂れ死に]なんていうことを考えたか、それには深いわけがあった。横浜も町の繁栄の象徴的な場所である中華街をはずれて、五分も歩くと日ノ出町にたどり着く。その町はあのころは、何十軒という、一泊二千円で泊まれる簡易宿泊所があり、それは、港湾で働く労働者たちの宿舎、いわゆるドヤなのだが、その役目を果たしていた。彼は、千代崎に自分の住処があるから、日ノ出町の広さ二畳のホテル暮らしということもなかったのだが、家を失い、それでも横浜以外に行くべき場所がなければ、そのとき、いくら稼いでいるかにもよるが、ここで生活せざるを得なくなるかも知れない。日課のジョギングの最中、できるだけ日ノ出町に足を踏み入れないようにしていた。横浜にも、山手や元町のようにエキゾチックな町ばかりではなく、都市の恥部のような、街中に饐えた空気が立ちこめているような場所もあったのである。話をもどすが、そんなわけで、当時、お金が出ていくばかりで、貯金がどんどん減っていっていて不安を募らせていた彼のフトコロ事情には、婆捨山棄太郎の原稿料は干天の慈雨、涙が出るほどありがたい金だった。明智は若くして名をあげ将来を嘱望されながら、女の色香に惑わされて迷路のようなところに迷い込んで、ついには会社勤めもやめてしまった人間だった。この仕事を彼にやらせてくれた柚木は学生時代、いっしょに女遊びにうつつを抜かした仲間だった。そして、柚木は明智のことを、女にもてすぎて色恋でしくじって人生の安定飛行から大きく軌道をはずしすねて世を捨ててしまったしょうがないヤツと考えていた。柚木はいまから七年ほど前、彼が日銭仕事から足を洗って住まいも横浜から池袋のはずれに移したあと、何年かして会社を定年退職した直後に六十一歳でガンで死んでしまった。柚木は柚木なりに彼の人生の行方を心配して、生きていくための仕事を回してくれたのだろう。明智が会社をやめてしまっとき、柚木は彼に「なにがあったか知らないが、自分から世の中に背中を向けてどうする」といって、自分の雑誌のなかに彼の仕事を作ってくれた。あのころ、彼には自分から世の中を拒んだという意識はなく、むしろ、反対に世の中から見捨てられたと考えていたのだが、それでもオレがこんな逆境に負けるものかとは思っていた。というのは、もうダメだとか思い始めると、覿面に貯金通帳の金額の減少に加速がかかるのだ。それでイヤでも、絶対に負けねえぞとでも考えないと、生きていけなかったのである。勝つ、負けるといって誰と勝負しているというわけでもなかったのだが、絶対にへこたれないぞと思っていたし、これからの俺は俺の好きなように自分の人生を生きてやるんだと思っていた。そして、この婆捨山棄太郎の名前で原稿を書いているときは思いつくかぎりの絶望的な口調で人生の宿命や人間の運命を語ればそれでいい、と思っていた。最終的には、自分のやっていることが多少つじつまが合わなくても、原稿料さえきちんともらえれば、そういうことはどうでもよかった。世の中全部のことがお金だなどとは思わなかったが、サラリーマンを辞めて身にしみて感じたのは、金儲けってホントになんでこんなに難しいんだろうということだった。だから、そういう意味ではけっこう元気にがんばって働いて生きていた。それで、質問の答えは例えば、[1]の父親の家庭内暴力については、こんなふうに書いた。 悪いけど、それはキミがそのオヤジを殺すしかないかもしんないね、父親の殺し方については、岩波文庫の『オイデプス』でも読んで研究してよ。ジョージ・シュタイナーは1984年の著書『アンティゴネーの変貌』のなかで《父親殺しはすべての文化の始まりである》っていってるんだ。これは1989年にみすず書房から日本語訳が出てて、俺はその翻訳で読んだんだけれどね。日本語版の354ページの初めのあたりにそう書いてある。俺はいままでやっちゃいけないと思われてたことを馬鹿正直にそのまま掟として守り続けて、なにも起こらずに日常の牢獄に閉じこめられたまま死んでいくくらいなら、俺がもし若くて、20歳くらいだったら自分ができること、自分がやっちゃいけないんだと思いこんでいたことをなにかやろうとするね。手近なところで、オヤジでもオフクロでも殺して見ろよ。人間は人でも殺さなきゃ、世の中を捨てるなんて偉大な発想は採れないもんだ。常識を否定しろよ、そして、暴力と権力を肯定するんだ。そうでもしなきゃ自分がそもそも救いようがない存在だってことが了解できない。人間てのはホントに馬鹿だからな。 こんな調子だった。彼がこんなふうに勢いをつけてメチャクチャ書くと、橘川真理子は心得たもので、文章の終わりにちょっと級数を落とした大きさの字体で [編集部註・これは冗談です。この原稿を本気にしてお父さんやお母さんを殺さないでくださいね] などという言い訳のようなオチャラケを書き添えるのである。それにしても、十年前にオチャラケで書いていた尊属殺人がいまや、日常的な出来事になってしまい、新聞やテレビをにぎわす親殺しや子殺しがゴロゴロ連発、蔓延しているのだから恐れ入る。若い女性がドンドン全裸で殺されるのも気にかかる。いずれにしてもこの原稿は勢い最優先である。で、返す刀で彼女は武智に向かって「大変けっこうです。こういういい原稿をどんどん書いてください」というファックスを送ってよこすのだ。いいだろう、こんな原稿だったらいくらでも書いてやるよ。こういう過激な、調子だけの原稿を一本書くのに時間は十五分くらいしかかからなかった。彼が勢いにまかせて書きちらした原稿を、編集部は適当に手直しして掲載するのだ。週刊誌だからこういうのが月四回、これも大切な毎月の定期的な収入源だった。それが有り難いことにこの週は一問多かった。それから、同じような仕事なのだが、もう一つ、雑ネタばかりを集めた頁のメインディッシュみたいなショートコラムがあった。これが彼らというか、彼ひとりの話なのだが、[サセコちゃん原稿]と呼んでいる四百字原稿用紙一枚ほどの単文である。正式には[街角で出会ったサセコちゃんのこっそり告白]というタイトルの定例ページのハコ原稿だ。こっちの方は[街角レポーター・赤血凶太郎]のペンネームで原稿を作っていた。これは街角で出逢った若い娘に性体験の人数とか、好きな体位とか、まあ、思いつくようなあらゆるエッチでくだらないことを直接インタビューして聞いた、という設定で原稿を書くのだ。それはたとえばこんな調子だった。  

いままで大体、35人くらいの男とセックスしたと思うんだけど、結局、あたしの場合、あれが大きくないとダメなんだよ、ウン。大きければ大きいほどいいっていうカンジかな、あたしの場合。ウーン、今までで一番大きいのっていうと、長さ20センチで直径 5センチっていうのがあったネ。ちょうど太さは缶コーヒーくらいでサ。さわってるうちにどんどん大きくなって来ちゃって、小型のペットボトルくらいのサイズになっちゃって。ちょっと待ってよ、アンタっていうカンジ。それでもどういうものかと思って、大きな口あけて尺八してるうちにあたしも気分乗って来ちゃってサ、もう大変。馬乗りになっちゃった。腰を振るとあたしの中で、ごつごつ軟骨にぶつかるみたいなカンジで、腰が抜けそうになったわヨ、終わったときはもうぐったり、声も出なかった。出血したわョ。でも、それがあたしが経験した最高のセックスだった。■原宿の交差点で遭遇、調査したハウスマヌカンの晴美ちゃん(仮名・24歳)の告白でした。 

 大体、この原稿はいつもこんなカンジ。もちろん、原稿の元ネタは原宿で知り合いになった女から取材した話なんかじゃなかった。これは誰にも内緒だったが、この文章はじつは彼が住んでいたマンションのごみ捨て場でひろった古いエロ雑誌、『リアルタイムズ増刊・ぷれい白書VOL・1』版元は雄出版、1992年 6月号の 138ページ、[アクメ・女子大生/OL/女子高校生・調査]という企画からのパクリだった。盗作と言えばその通りなのだが、数字や場所やなんかに多少の脚色を施し、言葉の表現をブラッシュ・アップして、構文をひっくり返したり、言葉を言い換えたりして原形をとどめないところまで破壊して、それを作りかえてあった。できあがったのは別の文章である。むしろ、彼は自分が作り直した文章の方がいけると思っていた。彼はこの『リアルタイムズ増刊・ぷれい白書』という雑誌のことを、どこのどういう人が作っているのかとか、そういうことをなにか知っていたわけではなかった。この雑誌は表紙に堂々と、【飽くなき性愛を追求する実践者の情報誌】というスローガンを謳っている雑誌で編集方針は[女の下半身徹底研究]、この号の巻頭特集は[若妻をヒイヒイいわせる方法]、第二特集が[テニスギャルの喜ばせ方]。ちなみにその第二特集を原文のまま引用すると、タイトルは《運動してムレムレになったオ○ンコは、今が食べ時!》で、 テニスギャルは非常に性に対して貪欲である。だから、たとえ行為が終わってお風呂に入っているときでも油断は禁物。常に責め続けることが肝心なのだ。そんなわけだから、水中用バイブ、こいつを使ってお風呂のなかでもヒイヒイいわせる。  などという説明が、若い女の子がどこかの旅館のお風呂場で、カメラに向かって大きなお尻を突き出した写真といっしょに載っていた。以下、ズラリとその本のなかのどの場所でもそういうようなことばかりがある種の情熱とともにぎっちり並べられて詰め込まれていた。彼はこの雑誌が徹底的に下品で下劣なところが非常に気に入っていた。まったくなんていう白書だろうとは思ったが、こういう雑誌を一生懸命に作って金を儲けようとする無上の根性と情熱は尊敬に値すると思っていた。そして、この「白書」は性的想像力の貧困な彼の原稿書きのための大切な秘密兵器、スケベ系の原稿書きのネタ本としてもう100万円以上の稼ぎを彼にもたらしてくれていた。これがこの雑誌の定例ページの人気企画[街角で出会ったサセコちゃんのこっそり告白]の正体だった。原稿料はこっちの方が高くて、一問3万5千円だった。こういう原稿もだいたい一本十五分で書きあげた。彼のところにこの原稿書きが回ってきたのは、ひとつは誰もやりたがる人がいなかったということがあるのかもしれなかった。みんな、いやがるのである。彼にしたってこんな原稿ばかり書きちらしているのは、たしかにバカバカしかった。しかし、人気はあった。読者からのハガキの《今週の面白かった読み物ベスト10》の常連だった。この原稿を書いていることは自分から自慢できることでもなかったし、自慢するつもりもなかったが、とにかく、理屈をいってないで、こうやって拾える仕事は毎月、できるだけ拾っていくつもりでやっていないと、取り引き銀行の口座の残高が歯止めを失ったようにどんどん減っていって、彼を焦らせ、気分的に追いつめられて、たまらない気持ちにさせたのである。立ち入った事情だが、彼は事情があって妻と離婚したのだが、離婚の条件の慰謝料代わりに世田谷の家族で暮らしていた3LDKのマンションを彼女に渡した。そして、前段でもちょっと説明したが、そのほかにこれはもうほとんど強制されてのんだ条件だったのだが、子供たちの養育費を毎月出すようにいわれた。それでなければ、山手のマンションを娘たちによこせといわれた。彼には子供たちの養育費を毎月、その金額送金することで、父親としての義務を果たしているような、充実感のようなものが何となくあったのだが、それが毎月のことだったから大変だった。歯止めなく、なだれるように自分の貯金が減りつづけていくのはいたたまれなかった。だから、柚木がくれた仕事は本当に彼には死ぬほど有り難かったのである。それで、この雑誌の担当編集者の橘川真理子はこの年の春、国際基督教大学を卒業したばかりだというシックなフレアスカートの似合う、かわいい若い娘だったが、彼はこのとき、じつはまだ彼女には一度しか会ったことがなかった。それまで、この頁は柚木が片手間に直接担当していたのだったが、春先に人気企画につき連載に新しく担当者を付けるということで、柚木に呼ばれて、新入社員の彼女に編集部で紹介され、会社の喫茶室で一度だけいっしょにお茶を飲んだ。その時の会話である。橘川真理子が「あたし、夏のボーナスをもらったらハワイ旅行に行きたいんです」というので、彼が調子に乗って「ハワイは実はすごいところなんだヨ。150年前までハワイを支配していたカメハメハ王朝は別名、ハメハメアッハン王朝っていうくらいで、女王様を中心に、男も女もハメハメばかりしていたんだヨ。食べ物はジャングルに行けば、果物はバナナやパパイヤの取り放題だし食べられる野草もそのへんにいくらでも生えているし、海は魚だらけで、食うに困るということがないでしょ、食欲の次は性欲だって相場が決まっていてサ、もう毎日、やることといったらセックスばっかりで、オレも150年前のハワイだったらいきたかったネ」というようなことをいったら、橘川真理子は〈この人って、変な人〉というような不機嫌な顔をしてそのまま黙りこくってしまった。あとから考えて、この話はちょっと二十歳を過ぎたばかりの女の子には刺激が強すぎたのかも知れないと思った。それでも、明智は別に大ウソをついたわけではないのだ。彼は自分が口から出任せのウソ八百を大学出たての若い娘に対してエッチなノリで並べ立てたひどいヤツみたいに思われたくなくて、しばらくしてから、法政大学出版会から一九九三年十月に刊行されていたアメリカの構造主義歴史人類学者マーシャル・サーリンズの著書である「歴史の島々」の28ページ、 伝統的ハワイ社会の文脈では、性への関心に階級や性別の境はなかった。男も女も、首長も平民も、それに夢中だった。略奪婚には妻の略奪もあれば夫の略奪もあり、ハイポガミー婚もあればハイパーガミー婚もあり、同性愛もあれば異性愛もあった。有名な支配首長たちは両刀使いであったが、性に心を奪われている結果として、一部の若い男女には処女・童貞が要求される一方、その他には自由奔放が許されていた。社会学的には、性愛は家族とその分業の形態(ないし形態の無さ)を決定する原理であった。権力や財産を得るための大切な手段であった。位階やタブーもそれにより得たり失ったりした。実際、性愛を賭ける異性間の運任せの勝負事が流行っていた。子どもたち、少なくともエリートの子どもたちは、性愛の技巧に馴染んでいた。女の子たちは陰門をアモアモする、つまりまばたきしたり、他の《股を喜ばせる技術》を教えられた。  文中のハイパーガミー婚は身分の高い女と身分の低い男の結婚を、ハイポガミー婚というのは身分の高い女と身分の高い男の結婚を意味するのだが、そこに引用した事実を確認し、上記に抜粋したような文章が書かれている箇所に赤線を引いて、ポストイットを貼って郵便で送ってあげた。彼としてはオジチャンがその場の勢いで口から出任せのデタラメをいったわけではない、ちゃんと文献的な根拠はあるということを知ってもらいたくて、つれづれに書きしたためた手紙もいっしょに同封したのだが、その手紙には、  

先日は初対面の方に話の流れとはいえ、失礼なことを申し上げすみませんでした。お送りいたしましたとおり、サーリンズらの調査によればヨーロッパ文明との遭遇以前のポリネシア文化は、性行為を宗教儀式の中心に置く土俗的な信仰が中心の「発情→恋愛国家」だったようです。私見では、これは古代の日本社会の歌垣、中世の夜這い、中国の少数民族に残る一妻多夫制の習慣などおおらかな性意識と関連があるアジアの有史以前から続く風習、つまりモンゴロイドたちの生活習慣と脈絡があるのではないかと、思うのです。たぶんハワイ諸島に定住した原住民はポリネシアン・モンゴロイドとも呼ぶべき南太平洋を北上して島にたどり着いた人々だったに違いありません。しかし、いずれにしても、そのことのいい方はセクハラ的だったと反省しています。無神経でした。許してくださいね。ハワイはとてもステキなところです。もしいらっしゃるのでしたら、レストランなどを経営する知人もおりますので、ご紹介します。とにかく、頑張って勉強して、いい編集者になっていい仕事をしてください。  

というようなことを書いた。そもそも週刊ポンプという雑誌自体が若い娘にとっては日常的にセクハラ的な存在なのであり、そこの編集部がセクハラでないわけがないのだが、それでも娘心はまた別の手当が必要なのである。しかし、この手紙のおかげでそれからというもの、橘川真理子はひたすら彼を尊敬してくれるようになっていて〈この人はいまはこんな与太な原稿を書いているけど、ホントは人類学の素養とかもあるちゃんとしたインテリなんだ〉と思ってくれるようになった。柚木から、彼の若いころ、〝D2の虎〟と呼ばれていた、本当に元気だった昔のことを聞いたのかもしれない。このことがあってから、あとはファックスで連絡を取り合って、書いた原稿をメールで送ればことが足りるようになったのである。一見したところの橘川真理子はけっこう趣味のいい、上品そうな良家の子女という雰囲気の娘で、親御さんに丁寧に育てられたのに違いなかった。妙齢の娘が、武蔵野の面影を色濃く残す深大寺のそばの森のなかにある偏差値67の大学でキリスト教の教えに帰依しながら敬虔な四年間を過ごした。偏差値67というのは明智や柚木が卒業した早稲田大学の文学部と同じくらいのけっこうな難関である。彼女はここで中世ヨーロッパ史のスコラ哲学について学んだあと、出版の世界に志を立て、何百倍という新卒就職試験の難関を突破して一流の出版社に編集者として採用された。聞けば、彼女の卒業論文は「ヨーロッパ十一世紀ルネサンスにおけるギリシャ哲学の復活」という表題の、アリストテレスの哲学とスコラ哲学の思想構造の類似性を研究したものだったという。彼女はその論文に担当の教授から[特優]をもらい、論文のできを絶賛されて「大学院に残らないか」と強く勧誘されたのを丁重に断って、出版界へ身を投じたのである。そして、晴れて*学館に入社した暁に、新米編集者として一番最初に担当させられた記念すべきページが、[地獄人生の絶望相談]や[サセコのこっそり告白]だったのである。もしかしたら「ヨーロッパ十一世紀ルネサンスにおけるギリシャ哲学の復活」と[地獄人生の絶望相談]&[サセコのこっそり告白]とはいわゆる常識の世界からの隔たり方が極端に過激で異端的であるところに共通項があったのかもしれない。彼はあの時、彼女が置かれた立場を思い出して、これは悪い冗談か、そうでなかったら会社が入社試験で彼女を採用したことを後悔していて、彼女がこういう扱いに腹を立てて、嫌気がさして一刻も早く会社を辞めてくれないものかと、わざとつらく当たっているのかもしれないと思ったりした。もちろん、彼女はこのほかにたとえば、流行作家の連載小説の原稿取りとか、新しくオープンしたレストランの食べ歩きのレポートとかも担当していて、明智が書いているハコ原稿の編集なんかは片手間で、ついでの編集作業に過ぎなかった。しかし、ついでの仕事として割り切ってはいたにしても、彼の書く原稿も彼女の担当仕事の一部であることにちがいはなかった。それにしても、あのころの橘川真理子は[地獄の人生絶望相談]や「わたしが馬乗りになると、彼のアレはたちまち…」などと書き散らしてばかりいた[サセコのこっそり告白]のような頁を編集企画として本当はどう考えていたのだろうか。そもそも『週刊ポンプ』はカラーのグラビアページの新車の紹介コーナーにまで、こっちを向いてにっこり笑っているムチムチの肉付きをした水着の女をそばに立たせて写真をとらないと気が済まないようなやたらにセクシーな雑誌作りをしていた。それでも当時、あの不景気のなかで部数を延ばしていたのだからたいしたものだった。しかし、橘川真理子は誰にもいわず、こっそり、心ひそかに〈なんてバカバカしいんだろう〉と思っていたのだ。それで、これも後日談になるが彼女はそういう雑誌の編集方針についに我慢できなくなって、このあと二年ほどでテレビの世界に転職していってしまった。いまや某テレビ*日の夕方のニュースの放送記者をやっていて、ときどき裁判所の前とか、事故現場からの実況中継でマイク片手に喋っているのを見かける。もう四十歳近いはずで、若い頃よりちょっと化粧が濃くなったが、あいかわらずいい女である。あのころ、橘川真理子は二十三歳だったはずだ。そのことを彼は瞬時に想起することができた。明智がどうしてそんなに若い女の年齢までキチンと憶えているのかというと、それは彼女が彼のふたりいる娘のうちの上の娘の真木と同い年だったからだ。真木は長女の方だが、彼女は大学受験で一浪していたからあのとき、まだ大学四年生で、翌年の春に卒論だけ残して、ロンドンに留学することになっていた。娘たちとはいろいろと理由があり、消息は知らされていたが、ずっと八年間あまり彼女たちに会っていなかった。明智が麗子と離婚したのは一九九〇年のことで、離婚後、何度か娘たちに会わせてもらったがその後、D2を辞めたあとは、一度も会いにいっていなかった。冒頭でふれたが、この日、彼が朝から必死で訳していた英語論文は、大学時代の同窓生の柳生久之が発行人をやっている虎ノ門の共同医学出版という医学雑誌の出版社の編集部から頼まれたアメリカの最新の医学雑誌の産婦人科の特集記事の下訳なのだった。これは明日の夕方までに仕上げて持っていくという約束になっていた。医学論文だから、当然のことだが身体=肉体についてのあれこれが書かれている。どういうわけか、彼には身体=肉体について書かれた英文資料を一日中、朝から晩までいっぱいに時間をかけていじくり回していると、精神が高揚=興奮してくる性向があった。性向が性交へと彼を導くのである。机上の文筆活動が体内の分泌活動を旺盛にするとでもいえばいいのだろうか、やたらと気持ちが激昂して、高揚してきて脳のなかが発情したような状態になり、そのうち神経が下半身に集まり始める。そういう時、こんな単語に出会うのだ。[desparate→異様な][genital organs→性器]である。それが[Erect→勃起する]、さらに[intercourse→性交する]。[insert→挿入する]し[ejuculate→射精する]…。イライラしてくるような細かい言葉、どうでもいいような、よくないような意味ばかりいじくり回しているうちにだんだん刹那的、加虐的な気分になってきて、こんなことじゃダメだ、俺はもっともっと人間的に生きている実感が必要だ、理屈にこだわっていないで自分を感覚的に追求しなくちゃダメだというふうに考え始めるのだ。これは彼の、自分で自分をコントロールできなくなる悪いクセのひとつだった。性欲の問題である。心の内奥の根源的なところにいる自分が、去勢されるなと叫ぶのである。まず獣のように本能に従って生きよ、という話なのだ。で、勃起する。彼の身体はこのころすでに五十歳を過ぎていたが、精神的に追いつめられるとまず、ペニスが勃起した。そのへんは若いころと同じだった。そのころはまだ十分にストレートでいけた。机上で英単語の意味と挌闘するように仕事をしつづけていると、そういうふうにデスクの上で、概念や事項を弄んで英文資料と戦うのではなく、もっと人間的でリアルな、もう本当に条件反射のような、センシティブ(sensitive→感じやすい)な戦いがしたいと思い始めたのである。たとえば、場末のホテルの密室という花柄模様のカーテンのかかったジャングルのなかで、あるいはベッドという白いシーツの荒野で、孤独な戦士となって強敵の牝獣を相手にがっぷり四つに組んで、本能の限りを尽くして、くんずほぐれつ上になり下になりして、思う存分戦ってみたい。よし牝獣相手に死闘を繰りひろげよう、いまから断固戦うぞ、…いったんこういうふうに考え始めるともう制御不能に陥ってしまった機動戦士ガンダムみたいなものだった。理屈でもなく、倫理でもなく、ただ男女対抗シングル格闘技デスマッチをやりたいという情熱と性的欲動だけがモービルスーツならぬ己が肉体を操るのだった。そうこうしているうちに(理性のタガがはずれてしまって、すっかり情熱的な人間になってしまった)彼は人間としてのグレードを一番下まで下げて、直截的でさらに具体的な行動を選択する。つまり、ヘレンに電話したくなってくるのだ。彼がこのとき書いていたこの原稿は、このあと、どこかの大学の医学部の教授か誰かが多少の手直しをして字句の誤りなどをチェックした後、その大学教授の名前でくだんの雑誌の次号の特集のひとつとして掲載されるはずだった。資料の内容はどことかの誰とかが発見した新薬の効き目がどうのこうので、ばっちり妊娠が判明だというような話だったが、専門外の彼にはなにが書かれているかは分かっても、それが正確にいうとどういう意味なのかはサッパリ分からなかった。しかしそこに書かれいてることの本当の意味はその原稿の翻訳を手がけたことになるくだんの大学教授が考えればいいのである。それにしてもこの仕事が彼にとって非常にありがたかったのは、約束の期日に仕事を仕上げて持っていくと、その場で手渡しでその分の翻訳文の原稿料をくれて、なおかつ、次の仕事も用意してくれることだった。日銭仕事なのである。いまどき珍しい即日払いだった。明日も、彼がこの原稿を仕上げて共同医学出版まで持っていけば、いつも通りあたらしい同じような形で仕上げる翻訳資料と、今回の原稿の翻訳料、多分封筒に入った手取り7万円ほどの現金をもらえるはずだった。彼としてはその現金で入ってくる予定の7万円があるから、気分が少し大きくなっていた。あとから後悔する、それは分かっているのだが歯止めが効かない。彼はいつでもそうだった。若いころから女にかかわることに対してのブレーキがまったく利かなかった。女のことが世の中で一番大切なことのような気がして生きてきたのだ。しかし、その考え方はちょっとは後ろめたかった。ときどきのことだが、若かったころの女たちとの情事の思い出をまるで、懺悔を楽しむ背教者みたいに思い出していた。序でもちょっとふれたが、あのころの彼には、連絡を取っておつきあいしていただいていた女のコがふたりいた。ひとりは麦田のセブンイレブンでバイトしている女子大生の谷口千里子、もうひとりは中華街のなかにある白龍というカラオケスタジオのガイド嬢をやっているヘレン、こちらは欧米風にヘレンとは名乗っているが、じつは中国女だった。ふたりとも彼が長い時間をかけて、いまの、頭を下げてやらせてもらうという、大人の関係を作り上げたのだった。そのことの詳しい話は追々するつもりだが、谷口千里子の方は、学校の授業もあるし、彼氏もいるし、バイトも時間の縛りがきつく、こちらから連絡してもままならないことが多かった。彼女の場合は、向こうから電話してきて、お小遣いをせびられるついでにやらせてくれる、という段取りになっていた。千里子も見た目いい女で、色っぽいのだが、彼女はやせていてペチャパイだった。「ちょっといま、忙しくてダメなのよ」といって、こっちのリクエストにはほとんど応じてくれない。そして、突然電話してきて、「ホテルで待ってるからいまから三十分以内に来てよ」というようなわがままな娘だった。連絡が取りやすいのはヘレンで、携帯がつながらなくても、店に電話すると、いつも連絡がついた。そして、いろんなわけがあって彼女はわたしがいうことに絶対に逆らわなかった。ヘレンの携帯に電話するとだいたいいつも「ただいま遠方にいてつながりません」ということだった。そして、すぐ折り返しの電話がかかってくるのだった。電話がかかってこないときは、白龍(パイロン)に電話するとだいたいすぐ捕まった。この日も彼女は出勤したところだった。わたしがいつものドナルド・ダックの作り声で「ハローヘレン、ウォーシャンチー・ハミルトンホテル」これはマア日本語に訳すと要するに〈ねえヘレン、いまからしようよ〉というようなことなのだが、それをいうと、ヘレンは声の主をすぐに見破って、〈アハハハハ、コタロー〉とうれしそうな声をあげて笑い、話はすぐまとまった。九時過ぎに店を抜け出すから、そのハミルトン・ホテルのいつもの部屋で待ち合わせようという。ヘレンは「ハミルトン203、ハミルトン203」と繰り返していった。ハミルトン・ホテルは本牧のはずれにある、恋人たちがこっそりしのび会うために待ち合わせに使う、そういうことのための古いホテルだった。いまはもう潰れてしまい、取り壊されて跡地に新造のマンションが建ち並んでいる。ここが往時はアメリカ兵と日本娘の本土決戦、肉弾戦の激戦場であったことをもうほとんど誰も覚えていない。そのあと、何十年かして、わたしとヘレンもそこで何度も日中戦争を繰りひろげたのである。その話はともかくとして、現金なもので、こうして急なデートの約束が決まると急に仕事がはかどり始めて、そのあとまたたく間に翌日締め切りの仕事をほぼメドのつくところまで終わってらせてしまった。原稿は明日、もう一度、文章全体に目を通して細かい修正をやって、CDに移して、それをプリントアウトしたものをつければそれでできあがりだった。ひと仕事を終わらせホッとして、無事出産への立ち会いを終わらせた産婦人科医のような気分でドッグ・フードの缶詰を切って部屋で飼っている犬にエサをやり、みそ味一・五倍のゆでもやしのついた丸ちゃんのカップ・ヌードルをすすって腹ごしらえして、部屋を出た。時計を見ると午後七時十五分だった。日中降り続いた雨はすでに上がっていた。すでに風もなく夏の終わりの暑気が街の底に立ちこめていた。空模様は相変わらずの曇天、月も星も輝かない闇夜だった。空はすぐにまた泣き出しそうだった。 彼はマンションのエントランスで[405号 アケチ探偵事務所/明智小太郎]と自分の名前の書かれた郵便ポストのなかをのぞき込んで、今日も一日、一通の手紙も来なかったことを確認した。ポストの表札にこんなふうに書いてあると、いかにも彼が明智小五郎かなんかの親戚筋で、本物の私立探偵のように見えたが、別にそういうわけではない。明智小太郎という名前だけは本当だったが、私立探偵というのはウソで面白がってそういう表札を出しているだけの話だった。人から一度、「アンタみたいななんでも屋さんはなにがあるかわかんないから私立探偵とか興信所の調査員の肩書きの名刺とか作っておいた方がいいですよ」といわれたことがあり、一応、そういう名刺も持っていたのだが、なにか資格を持っているとか、公認の試験に合格したとかいうことではなかった。その場の都合で、勝手に私立探偵を名乗ることができるだけである。彼はまあ、家出娘探しを頼まれたり、浮気調査を頼まれたり、探偵まがいのことをやることもあったが、別にプロの探偵というわけではなかった。前にボストに貼っておいた松田優作の顔写真のシールはいつの間にか誰かに(たぶん、管理人に)はがされてしまった。マンションの管理人は彼が本物の私立探偵でないことを知っていて、いつもコイツはなにをやるつもりなんだという、小バカにした目で彼を見ていた。エントランスの郵便ボストに探偵事務所の表札を出しているのも快く思っていなかったが、なにしろ、彼は三年ごとにこのマンションの理事会の会長を務めていたのである。というのは、マンションは全部で二十ほどのワンルームや1LDKがある小さなマンションだったが、ほとんどが賃貸の利用者で閉められていて、持ち主で実際にここに住んでいる人間は三人しかいなかった。そして、三人とも独身の中年男だった。それでその三人で、一年交替で理事会長を務めさせられていた。だから、管理人も理事会長には強いこともいえない、といういう力関係の話だったのである。彼はこのマンションの理事会の会長ではあったが、彼あてに届く郵便物はというと、全然偉くなくて、たいてい、ガス、電話、水道、電気、NHKの放送料金などの引き落としの通知の葉書、それに税金の督促状、たまに原稿料の支払い明細書、デパートのバーゲンのお知らせなどだった。表書きが手書きの郵便物など田舎の親戚からの季節の挨拶状、年賀状をのぞいたらほとんど来なかった。公共料金の徴収係だけが、彼がそこでそうして暮らしていることを忘れずにいるかのようだった。彼は自分のところの郵便受けのポストに入っている夕刊新聞を無造作に抜き取り、それをポケットにつっこんで、本牧通りまで出てタクシーを拾った。新聞のその夜のトップ記事は、この国の失業率がついに四・五パーセントを越えたことを特報していた。戦後最悪であるとの文字が新聞の版面の上で踊っていた。戦後最悪もなにも一九九九年の時点で、失業者の実数はおよそ600万人あまり、彼が所属する世代、団塊の世代の男たちの不運はあのころから始まったのだ。二十一世紀の初頭の調査ではいわゆる中高年層の成人男子の実に十三パーセントが定職を失ったり、日銭仕事を探して、その日暮らしをつづけていた。このことを政府は非常に問題視して、なんとかならないものだろうかと苦慮していると報じていた。まったく、本当になんとかならないものだろうか。雑誌ライターまがいのことはやっているが、自慢できるような仕事をしているわけでもなく、肩書きは明智探偵事務所の所長と立派だったが、安定した収入をもたらす定職と呼べる仕事もなく、世の中のどこの会社にも自分が座るべき椅子もなく、所属する班も課もないヤツ、それでいていつも金に困っているヤツ、それが彼だった。そういう人間を失業者というのなら、紛れもなく、彼はその失業者の代表的な一人だった。生活も地味にして、和牛をアメリカ牛やオーストラリア牛に代えることはできなかったが、マグロの刺身を食べるときも本トロはやめて赤身と決めていたし、フカヒレやアワビなどはなるべく食べず、質素な食生活だったが、彼の懐具合は赤字続きというか出血の止まらないけが人みたいなもので、本当に大変だった。しかも、わがままなことにつとめ働きはやりたくない、会社勤めをしようとすると全身が痙攣して働けないまともに身体が動かなくなるという、初期の乖離性神経症患者でもある(というふうに自分では思っていた)のだから始末に負えなかった。彼は自分のことを、単なる失業者であるばかりではなく、そもそもが人生の敗残者だと考えていた。そして、そう考えている人間は彼一人ではなく、大勢いた。おそらく、その人たちもみんな、彼と同じようにひとりぽっちにちがいなかった。そして、人生がやり直しのきかないものだということを痛恨の思いとともに噛みしめているにちがいなかった。そう思うと彼の心は妙な具合に慰められた。そして、この日の新聞は失業問題の他にも、天候の異変ばかりが続いて世の中がどこか調子がおかしくなってしまっていることや、官僚たちが犯した犯罪の捜査がいよいよ大詰めを迎えて、今日明日にも何人かの役人と企業の役員が贈収賄罪で逮捕されるだろうなどということをかなり、断定的に報道していた。7時半頃にハミルトン・ホテルのいつもヘレンと会うのに使っている203号室にたどりついて、部屋に入って、歯を磨いてシャワーを浴びて缶ビールを飲んで、ベッドに横になっているうちに眠くなって寝てしまった。目をさますと目の前に彼女が立っていた。彼女に頬をたたかれて目が覚めた。時計を見ると9時過ぎだった。アハハハと女が笑う。元気でいたかと尋ねると、彼女はウンと答える。ふたりのあいだでそれ以上の会話は必要なかった。彼とヘレンが話さねばならないことは、じつはそんなになかった。彼女が明智のことを気に入っていて、いろいろな経緯があって、この男だったら自分の身体をどうにでもしていいと思っていることは確かだったのだ。しかし、それではかれらが恋や愛の感情で結ばれているかといえば、それはちょっと違っていた。彼女は目の前で、手際よく着ている衣服を脱いで、たじろぎなく全裸になり脱いで丸めた自分のパンティを彼の顔に押しつけたあと、また、ハハハと笑って身体を洗いにいく。全裸になったヘレンの身体の肉付きは日本の女たちとはまったく違っていてたくましかった。彼女の身長は172センチ、体重が66キロあった。背丈は明智と同じくらいあり、頑丈そうな、手足の発達したよく伸びきった肢体は荒れ果てた生活をしているにしてはよけいな贅肉はほとんどつけていなくて、美しかった。そして肉感的な、豊満な乳房とよくくびれた胸と腰を持ち合わせていた。肌理は日本の女より荒かったが、手のひらを当ててたわわな球体をした乳房をつかむと弾力がありそれはアジアの奥地で採れる淫らで謎めいた果物のようだった。じつは彼女の本当の名前は、というか日本名を明智ヘレンといった。彼女は自分のことを回りの人たちにヘレンと呼ばせていた。ヘレンはもともとの中国名を楊暁真というのだが、子供の頃に福建省から親戚を頼って台湾へ移住し、何年か前、親戚を頼って日本上陸を果たし横浜にやってきて、さっそくこの街に住み着いて新基軸の男と女の商売に参入してきたというチャイニーズ・ガールだった。二人が出会ったのは三年前で、そのときから彼女はずっと「あたしは二十七歳だ」といいつづけていたが、実はそんなに若くはなくたぶん絶対、三十歳をいくつか越えていただろう。いつもニコニコ笑っていて陽気で性格も明るかったが、そのときの身体の動かし方はラジカルで、どーにでもしてちょうだい的な、何度か男との修羅場をくぐってきた女が持つ独特のふてぶてしさがあった。いくときも彼が知っていたどの日本人の女よりも派手で開けっぴろげだった。ヘレンは確かにちょっと見はきれいで色気もあったが、どこか泥臭く、黙ったまま何も喋らずにいても、こいつは日本人の女ではないな、となんとなく分かった。エスニック、よくいえばエキゾチックだっだ。彼女はじつは明智の再婚相手で、一度は彼の妻だった女である。それで明智の苗字を名乗ることになったのだが、これには深い事情があった。彼女はもともとかわいい顔はしていたが彼らが出会ったころ、化粧はあまり上手ではなかった。それで、女房にしてあげたときに、元町にあった知り合いの美容室がやっていたビューティセミナーに通わせてちゃんとしたお化粧の仕方を先生から教わったのである。そして、もともと化粧映えする顔をしていたこともあって化粧をすると、エキゾチックないい女になるのである。顔の化粧はそれでよかったが、着ている服の趣味も悪くてファッションセンスだけはどうにもならなかった。なにを着せてもちょうど三十年くらい前の新宿の大衆キャバレーから抜け出してきたホステスのようなような感じがした。しかし、彼はむしろ、そのレトロな感じを好ましく思っていた。そうはいってもやはり、そのときの彼女はまぎれもなく一九九九年の夏、二十世紀も終わりの最後の時代の日本の横浜のチャイナタウンで生活している女だった。ヘレンは、この頃、中華街の北側のはずれにあったパイロン(白龍)というカラオケハウスの従業員だった。日本語はカタコトしかしゃべれない。本業は一時間あたり千円(途中から4千円になる場合もある)で酔客を相手に歌唱指導をするおさわりなしのノーパン・カラオケ・コンパニオン(場合によっては触らせることもあるらしかった)だった。これは彼女たちが思いついた日本の男たち相手の新商売なのである。彼らはある夜、というか真夜中に武智が一人淋しく中華街をうろついていたときに知り合った。ラーメンを食いに寄った行きつけの中華料理屋(もうなくなってしまったが、興菜楼老正館という、いかめしい名前のネギそばがうまい上海料理の店だった)でテーブルが相席になったダサくてけばいカッコウをした二人組の女に、店を出たところでしつこくカラオケに誘われたのである。彼の方もこのときはなんとなく人淋しく、この女たちならまあいいやというようないい加減な気分で誘われるままにパイロンに連れていかれて、いっしょにカラオケをやって遊んだのだ。とんでもない料金を吹っかけられるのではないかと心配したが、そうでもなく、三千円取られただけで、女二人を相手にして、真夜中にカラオケで女ふたりを相手に一時間遊んだ値段としては格安だった。それがヘレンとアイリーンだったのだが、店の風俗の仕掛けとしては客が歌をうたっている途中で同席した女から「別料金になるけど、パンティ脱いでもいいか」と聞かれ「いい」というとそこからテーブルチャージが一挙にバーンと上がる。これがノーパンカラオケ、猥褻物陳列罪違反でピンクビジネスの領域の話で、もちろん非合法なのだが別仕立てのチップが発生して相場が一時間五千円になるのだ。もちろん店もそのことはわかっていていて、本人たちが勝手にやっていることという話になっていたが、じつは店長のお墨付きをもらっていて、千円が店の取り分で、残りの四千円が彼女たちの稼ぎになった。この秘密の趣向をおもしろがる男たちがけっこういて、店は繁盛していたのである。客が別料金を承諾して話がまとまって、女がオーデコロンをたっぷり振りかけてあるパンティを脱ぐと、あたりにプーンとなまめかしい匂いが、漂う。そういう状態で、ちょこっとだけ股をひろげて座っている女の子に「ここからは一時間五千円よ」といわれると、たいていの男たちは「ウン」と答えるのだ。それで、そのかわりに客は女のアソコを見ながらカラオケを楽しめるという仕掛けだった。カラオケの最中に女のアソコを見る必要があるか、という問題が残るのだが、これがけっこう好きな男たちにこっそり面白がられていたのである。一応ルールがあって、客は店内で上品に振る舞わなくてはならず、コンパニオンには直接タッチしてはいけないことになっていた。女が自発的にパンティを脱いで、そのあと暫く時間が経過して、客観的な恋愛関係が生じて両性が合意すれば、なにがあってもやむを得ない。女の方もどの客とどこまでつきあうか、相手を選べるし、両性の合意のもと、恋人同士になったら、後は互いの自由意志の問題で、その結果、男が女にお小遣いをあげることもあり得る、いっしょに外出して、そのヘンのホテルでセックスすることもあり得る。これは立派な恋愛であり買春ではない、つまり、そういう理屈だった。そのとき、彼もその趣向を聞かされて、驚いたのだが、それでもその時、アイリーンにあけすけな調子で「パンティを脱いでもいいか」と聞かれて「だめだ」といったのだ。それは考えてみると、相手がアイリーンだったからそう答えたのかもしれない。あの時、ヘレンに独特のしゃがれたれた小声で囁くように同じことをいわれていたら、その場で頷いていたかもしれない。というのはアイリーンの方は松竹梅のランクわけでいくと並の部類だったが、いったようにヘレンは特上のいい女だったのだ。それで、そのときはたまたまフトコロの景気がよかったので、店を出るとき、奮発して勘定に上乗せして、彼女たちがパンティを脱いだ分のチップをつけて一万三千円払ってあげた。ふたりとも嬉しそうだった。横浜中華街で日本の男相手に働いている彼女たちの夢は、できるだけ早いうちにできるだけ沢山のオカネを貯めて、福建の故郷の谷間の一等地に少なくとも日本円で一千万円はかかっている、四階建てでエレベータ付き、上海あたりによくあるビルディングのような豪壮な家を建てて、そこに両親や兄弟家族を住まわせて周囲の人たちをいっぺんに見返してやることだった。彼女たちは日本へオムコさん捜しに来たわけではなかった。彼女は日本人の男相手の性に絡ませて日本の女が見る甘ったるい夢なんか一切見なかった。ドライだったのだ。それでもたぶん、明智は彼女たちに気に入られたのだろう。彼がヘレンと結婚するにいたる経緯には、それなりの流れというものがあった。パイロンで仲良くなり、携帯の電話番号を交換したら、翌日、朝、もう電話がかかってきて、また店に遊びに来ないかと誘われた。そのときは忙しくてことわったのだが、それから頻繁に電話してくるようになった。出稼ぎに来た中国娘のお眼鏡にかなったというのも変な話なのだがヘレンは明智のことを「ニホンジンのなかではベストでスキ」だといった。そして、たどたどしい日本語と中国語のチャンポンで「ウォーシャンアケチ」〈明智さん、ネエ、会おうヨ〉と携帯に電話をしてきて「遊びにきてよ」と誘うのだ。英語で「You have a good bivration once I never knew」〈わたしが今まで知らなかったいい感覚の持ち主〉というふうに言われたこともある。彼女がきれいで可愛い女だったこともあり、彼はこの女は面白いと気に入って、ときどきカラオケをしたり、飲茶をしたりして遊んでいたのである。そんなある時、彼女が電話してきて「困ってる、相談に乗ってくれないか」という。それで中華街の北門近くにある『月町』というスナックに来てくれといわれて会いにいったら、ヘレンは彼の顔を見るなり、真剣な顔で中国語でなにかをまくしたてるように喋った。ここで明智は、このあと、彼自身も真夜中の駐車場の管理人のアルバイトとか紹介してもらって、イロイロと世話になる月町のオバさん、ママの竹美ちゃんに会ったのだ。竹美ちゃんは彼より四、五歳年上で、このころ、五十代の後半だった。しばらく会っていないから、いまのことは分からないが、いまはもう七十を超えるおばあさんになっているはずである。彼女も若いころはきれいだっただろうなと思わせる、やせた、気っ風のいい女だった。竹美ちゃんはヘレンの中国語のセリフの通訳をしてくれてこんなことを言った。「誰か知り合いの日本の男はいないのかってこの子に聞いたのよ。そしたらアンタのことをいいだして。この子のビザが切れそうで、このままだと捕まって、台湾に強制帰国させられちゃうのよ。アンタ独身だったら、書類だけでもいいからこの子と結婚してやってくれないかしら。それがだめなら住民票だけでいいからアンタのところにおいてやってくれないかしら。そんなことするのはホントは犯罪なんだけど、人助けだと思って内緒で助けてあげてくれないかしら。チキンライス、ご馳走するから」婆さんの日本名は竹田美子で、もうひとつ李美子という朝鮮名を持つ在日の韓国人だった。彼女はこの町で働くチャイニーズ・ガールやコリアン・ガール(在日の女の子たちもけっこういた)たちの後見人で困ったときの相談に乗る無料無資格のカウンセリング・アドバイザーだった。竹美ちゃんは「助けてやってよ」と彼に頭を下げて、店の美味しいオムライスをごちそうしてくれた。彼はいくらなんでも偽装結婚なんてカンベンして欲しい、バレたら警察に逮捕されちゃうと考えて話を断ろうとしたら、いつも笑顔しか見せないヘレンが泣きそうな顔をして彼を見つめた。その顔がかわいく、この女ならカミさんにしてやってもいいやと瞬間的に思った。明智はとにかく、いい女が好きなのである。警察に逮捕されちゃうかも知れなくてもこの子を助けてあげようと思ったのはそのときに「オムライスにビールもサービスしちゃう」といわれておごってもらって一杯だけ飲んだビールのせいだけではなかったが、ヘレンについでもらったビールはよく冷えていて、美味しかった。彼は酒に弱く[若い頃はそうでもなかったのだが]、アルコールが入るとすぐに、冷静、客観的な判断力をなくしてして、どんな女でも美人に見えてしまい、なんでもいい、現実なんてどうでもいいと思いはじめる悪い性向があったのだ。このときも、ほだされたわけではないのだ(たぶん、ほだされたのである)が、絶対にだめだという理由もなにもなく、ヘレンはとにかく美人だったし、半分スケベな思惑もあり、それならそれでもいいやという気もした。それでその話を承諾してあげてヘレンと結婚することにして区役所に結婚届を出しにいってあげた。そして一応、妻ということにして住民票を作ってあげた。お礼を、というから、彼は「別にいらないよ。助けてあげる」と答えた。そのあと、彼女は一度だけ明智のマンションに遊びに来たが、そのときにカタコトの日本語と英語と中国語をまぜこぜにしてしゃべったいろいろな世間話のなかで、彼が離婚の経験者で、しかも前妻との離婚後、いっしょに暮らしていた愛人に死なれた前歴を持ち、それ以来独身をつづけていることを知ると「ソーリー、ゴメンね、シェシェね」といってそれからは絶対に家には遊びに来なくなった。そういうことがあり、ヘレンが正式に日本国籍を取って四ヶ月ほどして、彼らは離婚した。彼女が離婚届を持って訪ねてきたので、ハンコを押して署名してあげると、その書類をヘレンは自分で市役所に出しにいった。そのとき、彼女は自分の名前はもう中国名にはもどさない、横浜で「明智ヘレン」という名前で暮らしていくの、といった。日本人になる、というのである。届けを出し終わったあと、ヘレンから電話があり、石川町の駅の改札のところで待ち合わせた。彼女は「ご飯食べようよ、わたしがおごるから」といって、彼を自分が気に入っているカレー屋さんに連れていってくれた。そして、ビールを頼んでふたりで乾杯して食事した。それから彼女は彼の腕をとってそのままホテルに誘った。ホテルのベッドでヘレンは裸になって彼にしがみついてしばらく声を押し殺して泣いていた。こういうふうにしてしか出会えなかった男と女の宿命に涙を流したのだろう。ヘレンと明智はその日、初めてセックスした。離婚が成立した日に結ばれた男女というのも珍しいだろう。いずれにしても、彼女はそのころ、明智ヘレンという日本名を自分の一番の宝物のように考えていて、彼が彼女に明智という苗字をあげたことを非常に感謝していた。その名前は彼女のプライドの一部になっていた。結婚も半ば無理やり頼み込んだもので、愛されて妻になれたわけではなかったから、思いは複雑だっただろう。離婚したあと、何となく愛人関係が出来上がっていったのは、ふたりにとっては自然なことだった。本当のところ彼女は、出来れば彼の妻になりたかったのかもしれない。ヘレンは黙っていると、まずまず気品のある顔立ちをしていて、かれはそれが気に入っていた。エキゾチックだが、いわゆるそのへんをウロウロしている中国人には見えなかった。しかし、どんなに気品のある、きれいな顔立ちをした女でも、セックスするときは気品はなくなる。セックスが人間の、獣の部分の濃密な愛の交換(交歓)であるという愛の世界からの定義からすれば、まさしく、彼と言葉のよく通じないヘレンとくり広げたセックスは国際的な密貿易のようなものだった。そこでは殺伐とした牡と牝との生の苦渋がやりとりされていた。けれども、その時の互いの相手が異国人で相手の気持ちをよくわかりきれない状況は彼にとっても(たぶんヘレンにとっても)その方が都合がよかったのだ。彼はそれまでの経験から、女はどんな女でも三回、同じ男とセックスすると、最後は必ず結婚したいと思い始めるものだと考えていた。刹那的に、出来心で男と女が一回だけすれ違うようにセックスする、そういうこともあるだろうが最初の火花の散るような出会いと甘い性の記憶に味をしめて、二度、三度と身体を交えると、口でどんなにその場限りの愛みたいなことをいっていても、未練がある限り男の側にも女の側にもささやかな展望がひらかれる。つまり、お互いに深入りし始めると男の方は相手の女の心まで欲しくなるし、女の方は、男の生活を自分のものにしたくなる。それでだんだん身動きがとれなくなる。そのうち、まわりにばれる。それはもう、男と女というのはそういうものなのだ。それがいやだったら、セックスするのを一度だけでやめておくか、その都度、金を渡して売春行為にしてしまうか、どっちかしかない。彼女はヘレンなどと名乗って気取っているが、いくら日本で生活していくことに決めたといっても、要するに中身は中国女の楊暁真なのである。彼女は日本の独身の女たちのように一回二回本気でセックスしたからといって、やっぱりあんたの女房のままでいたかったなどとは絶対にいわない。いっしょに暮らそうなどともいわない。おそらく、彼が誰か別の女といっしょにいても、彼女はそういうものなのだと考えて、その女が中国人でなければ焼きもちを焼いたりということもしないはずだった。そういう過去の歴史があって、それから時々、ふたりは電話をかけあってそのへんのラブホテルで落ち合い、ほとんど会話を交わすこともなくセックスをするというヘンな仲になったのだ。彼はこの関係をけっこう気に入っていた。そして、これも愛だと思っていた。たぶん、彼らはこころの深いところで互いを理解し合い、愛し合っていたのだろうが、正直なところ、明智にも自分のヘレンへの思いが愛なのか遊びなのか、よくわからなかった。若い日本の娘たちの身体はそのヘンのグラビアアイドルを見てもわかるようにどの女も胸だけは大きいのだが、身体は棒のように細く、上質の釉薬を塗ってから焼き上げたような、乱暴に扱うと壊れてしまいそうな繊細な陶磁器のような肌理をしている。彼がよく知っていた身体の持ち主たち、何人かの日本の女たち、麗子やミキ、そのほかの女たちの裸体に比べると、とにかくヘレンの身体は基本の体格が大きく、頭蓋骨の額の部分の拡がりも広く、骨格自体が日本人の女と太さが違っていた。中国の女がみんなこんな体格をしているというわけではなかったのだろう。もちろん、日本の若い女と同じように線の細い女もいるだろう。彼はそんなに何人もの女の実物の裸を知っているわけではなかったが、ヘレンが裸になって両股をひろげた時のアソコのレイアウトはなんとなく日本人の女と違うという気がしていた。ヘレンだけの個性なのかも知れないが、完全な上付きというか、ひとことでいうと、〈あれ、こんなところにこんなモンがあるよ〉というような感じなのだ。そう何人もの実例の情報があるわけではないが、若い娘同士で比べても腰部の作りは中国や韓国、タイなど、大陸の女たちの方ががっしりしているのではないか。彼女は、皮膚の色も日本人の女の白い皮膚にアジアの奥地の酸性土を混ぜ合わせたような浅黒い肌をしていて、下腹部の陰毛も一本づつが太く、剛毛と呼んでもおかしくない、まるで豚毛のブラシのようにごわごわした感触をしていた。それは、もしかしたらアジアを細分化していったさまざまのモンゴロイドの起源と系統のどこに属する人間なのか、ということに関係があるのかも知れなかった。漢民族はアジアの大小さまざまの古代の民族が何千年という時間をかけて大同しさまざまの文化がブレンドされてできたといわれているが、あるいは、ヘレンには西方の異端の部族の血が濃厚に残っているのかも知れなかった。彼にはヘレンの出自についてもアジアの民族の起源についてもそこから先はなにも分からなかった。きっとその他にもヘレンについて彼が知らずにいたことはそのほかにもいくつもあったのにちがいない。彼はヘレンが本当のところ、あそこのカラオケハウスで幾らくらい金を稼いでいたのか知らなかった。随時、気に入った客の相手をして小遣いをせびっていたとか、あるいは誰か日本人の金持ちのパトロンがいるらしいとか(明智小太郎は金持ちではなかったが、これは彼のことかも知れなかった)、同じ職場に年下の中国人の彼氏がいたとかいなかったとか、そういう言葉がちゃんと通じないと理解し合えないようなことについてはなにも知らなかった。彼女が彼を愛していたのかどうか、愛しているとしたらどんなふうに愛していたのか、二人とも英語が下手、ヘレンは日本語も下手、中国語は彼の方がしゃべれないという関係のなかで、そういうことについてはわかりようがなかった。彼は彼なりの愛の方法で彼女を愛しているつもりだったが、彼女の心がわかったような気がするのは二人でカラオケでデュエットでふるい歌謡曲をうたっている時だけだった。ヘレンといつも、二人で組んで遊び回っているアイリーン、まあ、アイリーンというタマじゃないのだが、本人たちはそう呼んでいた。彼女はヘレンについて「She always want to select the partner for make love」〈誰とでもやるって子じゃないのよ〉といっていたので、セックスする相手を選択する権利だけは手放さずに体を売ろうというのだろう。銀座のホステスみたいなカンジで、きっと気に入った男の相手だけしていたのだろうとは思っていた。彼自身のそういうことについて書くと、彼は自分の過去のいきさつからいっても自分から積極的に日本人の女を相手にして、自分の激しい思いを女の心のなかに流し込むような、相手の心の襞のなかに自分の性器を強引に差し込むような、それでいながら身体がつながったとき、自分自身のこころが優しさと安らぎに満たされるような身体の交わりは、もう不可能だろうと思っていた。これには込み入った事情があった。だからこそ、いつも彼の性交の相手はヘレンなのだ。この流れの話とは全然別で、たまに相手をする谷口千里子は小遣いはせびられるが、とにかくオーラというか、エネルギーの強い娘で、いっしょにいて、セックスすると自分のバッテリーが充電されているような感覚があった。彼女については、別段で話を構えよう。そんなわけで、いろいろと込みいった事情はあったが、正直なところ、彼にとってヘレンはかわいい存在だった。満月の夜とか、嵐の夜更けとか、そういう気分の時に連絡すると、だいたい彼女の方も「あたしもちょうどあなたのことを考えていたの」といった。電話しようかなと思っている時に、彼女の方から電話がかかってくることもあった。彼の気持ちのなかには、男と女でいるのだったら別れた妻の麗子のような甘ったるい雰囲気の女はもうちょっとカンベンという思いがあり、いまの自分には荒削りで、獣っぽいバイオレンス・ヘレンの方がぴったりだと思っていた。セックスの時、ヘレンはまずシーツの上に全裸で仰向けに寝ころんで、前を隠すこともせず、愛撫を受ける。そして、小声の中国語で「ジョファニー、ウォシーシーファン」などとわたしの耳元でささやく。そして、急に無口になる。ヘレンにいわせれば、それは女が中国風に恥ずかしがっているのだ、チャイニーズ・ガールがそれを始める時のマナーなのだという。裸の身体を絡ませてゆっくりと、すぐでたらめにアクセルを踏み込むなどということをせずに、エンジンを暖め、身体の芯の熱さを身体中にいきわたらせるように、身体の末端の部分までその熱が届くようにゆっくりとキスしてあげる。すると、ある地点からとりすましていた表情が真剣になり、性欲動の沸点のような場所を越える。それから彼女のアソコにゆっくり指を入れる。すると、わたしの指先から彼女に[心の力]、つまりエネルギーが流れ込みはじめる。それで、わたしとヘレンのあいだではいま、イイコト進行中なのだが、ここで耳慣れない言葉だが、[心の力]という言葉について彼なりの説明しておいた方がいいかもしれない。じつは彼にも、そういう力が絶対的にこの世の中に存在していると断言する自信もなかった。自分がそういう力の持ち主だという自覚もなかった。しかし、彼が出会った何人かの人間たちは、彼がそういう力の持ち主だとハッキリと告げたのだった。実際にその力は存在し、その力は特殊であり、彼にも訓練次第でその力を自在に使いこなせるようになる、ということもいったのである。「あなたは自覚が足りない。自分のその力をはっきり自覚して、もっと自在に[力]を操れるようにならなければいけない」といったのだ。高杉貞顕は彼に向かって「あなたの力は特別だ」といったが、そういったのは本当のことをいうと、高杉だけではなかったのである。その力を彼が実感するのは、一番卑近なケースでいえば、ヘレンとセックスするときなのだが、これはもしかしたら、特別な力などなんの関係もなく、男と女のそういう時のやりとりの、どこにでもある型のひとつなのかもしれなかった。こういう話は、その場で別のケースと臨床的な比較をするわけにもいかず、それがそうなのだという証拠もなければ、因果の証明も不可能なのである。そうかもしれないとそう、思いつづける、それだけの話である。彼は彼女を抱きしめて、そして、しばらくそのままにしたあと、ゆっくりと耳たぶにキスしてあげる。それから、ゆっくりと彼女の中に入れた指を前後左右に動かす。しばらく我慢しているが、彼女は突然、背筋をふるわせ、一瞬のうちにタガがはずれたようになって、しがみついてきて、かすれた声で「ライ」〈来て〉と彼の耳元でささやくようにいうのだ。その時には彼女はもう、明智ヘレンなどという気取った名前の女ではなく、紛れもない楊暁真という中国名の方がはるかに似合う福建省の田舎で育った野性の女に戻っている。そして、身体中から大量の生のエネルギーを放射しながら、野生の本能をむき出しにしてしがみついてくるのだ。それからあとは、ほかの男女とやることが一緒なので、描写は省略しよう。あれこれやって最後に、ヘレンは、自分がエクスタシーの波に飲み込まれると、なにがなんだか分からなくなって大声を上げるタイプだった。そして、誰か人がとなりの部屋とか廊下とかで聞き耳を立てていたら、絶対にその人に聞こえてしまうだろうというような叫び声をあげて、行為を終わらせると急に夢から醒めたようになって、彼の身体の上で馬乗りになった姿勢のままでわずかな瞬間だけ恥ずかしそうにする。それがとても可愛かった。そして、まだつながったままの身体を重ね合わせて、彼の耳元にかすれた声で「チェンバオ」とささやく。〈抱いて〉と言っているのだ。彼が下から腕を広げて抱きしめてやると、しばらくそのままじっとしている。そして、頭の上のベッドランプとラジオのスイッチをいじり、ラジオのスイッチをぱちんと押す。この時、ラジオから聞こえてきたのは、テレサ・テンが昭和六十年に歌ってヒットさせた『愛人』だった。

   ♪あなたが好きだからそれでいいのよ  たとえ一緒に街を歩けなくても  

     この部屋にいつも帰ってくれたら  わたしは待つ身の 女でいいの   

   ♪尽くして 泣きぬれて そして愛されて  時がふたりを離さぬように    

          見つめて 寄り添って そして抱きしめて  このままあなたの胸で暮らしたい♪ 

   ♪めぐり逢い少しだけ 遅いだけなの 何も言わずいてね わかっているわ    

          心だけせめて 残してくれたら わたしは見送る 女でいいの 

        ♪尽くして 泣きぬれて そして愛されて  明日がふたりをこわさぬように    

         離れて 恋しくて そし会いたくて  このままあなたの胸で眠りたい♪  

時計を見ると、この時、午後十時半三十二分だった。ヘレンが部屋に現れたのは九時半だから一時間ぐらい、いちゃいちゃとセックスしていたことになる。テレサ・テンも懐かしい名前だった。アジアの歌姫になることを夢見て日本の音楽市場にテレサ・テンがデビューしたのは、たしか昭和五十年のことだった。四十年前だ。彼はこのとき、まだ、二十七歳だった。そのころ、明智とテレサ・テンは仲がよかった。レンタカーを借りて別府温泉から広島まで、晩秋の阿蘇山を回って、二人だけでドライブしたことがあった。テレサ・テンは中国名を登麗君というのだが、この頃のテレサはむっちりと太って大きなお尻をしていた。彼女もヘレンと同じで、エキゾチックといえばまあそうだが、そのころは悪いけど実はあか抜けないちょっと泥臭い感じの女の子だった。テレサはこのとき、年齢はたしか二十歳くらいのようなことをいっていたと思う。それは、こういう話から始まった。当時テレサが所属していたWプロダクションの担当マネジャーだった渡部要三がただ(ギャラなし)でいいから彼女に仕事させてあげてくれないか、といってきたのだ。彼女を連れて、彼に会いに来た。それで、連絡を取りあうようになり、日本酒のコマーシャルを作るという話が来たときに、彼女を起用したのだった。この仕事のスポンサーは兵庫の日ノ出酒造という日本酒メーカーで、神戸から別府への瀬戸内海を通り抜ける定期航路の客船のなかで海の夜明けの海の日の出の場面をつかって「日出盛」という日本酒のコマーシャルを撮影した。そのコマーシャルの主題歌をギャラなしでテレサに歌わせる、そのかわり彼女の歌をCMソングとして流すという、考えた仕掛けだった。このころのテレサはまだ日本に来たばかりで日本のこともよく知らず「日本の海の船旅がしてみたい」といって、ロケについてきたのだ。彼はこのとき、東京で別件の打ち合わせがあるため、初日だけ瀬戸内海ロケに付きあって、その別件の打ち合わせに間に合うようにスタッフと別れて別府から広島までレンタカーで移動して東京に戻ならければならなかったのだ。スタッフは船に留まって、別府から神戸に戻る船のなかで、日没の場面を日の出に摸して、カメラを回すことになっていた。わたしは別府から広島まで、レンタカーで移動することにしていた。このころは新幹線は広島までしかいっていなかったのである。テレサはわたしがひとりだけで車で東京に帰ることを知って「アタシもタケチさんのクルマにノセてってクダさい」といいだしたのだった。この時代のテレサは要するにまだ小娘で、『今夜かしら明日かしら』という奇妙なタイトルのポップスとも歌謡曲ともつかない、余り出来のよくないデビュー曲を一生懸命にあちこち売り込んであるいている最中だった。新曲を準備していて、それが日本酒のコマーシャルのBMに採用されたのだ。これがいい曲で、彼女の日本での最初のヒットになった『空港』だった。こういう歌である。   

 ♪何も知らずにあなたは言ったわ たまにはひとりの旅もいいよと    

  雨の空港 デッキにたたずみ 手を振るあなた 見えなくなるわ     

    どうぞ帰って あの人のもとへ わたしはひとり 去ってゆく♪  

そのころのテレサは地味な努力家で、日本語の教科書を一時も手放さないような勉強家だった。彼はこの二年前の昭和四十八年、二十五歳のときに十五歳の高校一年生のときから十年間付き合った、同い年の桜木詢子と別れて、まだ二十一歳でこの年短大を卒業したばかりだった萩原麗子と知り合って麗子と昭和四十九年に結婚し、長女の真木が生まれたところだった。あのころは何人も台湾や香港の歌手が日本にやってきた。NTV紅白歌のベストテンで『雨の御堂筋』を歌って衝撃的にデビューした欧陽非非は色気の塊のような女で、彼もWプロの宣伝部にいた藤田修とかに連れられてわざわざ渋谷公会堂まで本物を見に行ったりして、多少の妄想も働かされた。その他にそのころ、中国からやってきた女性歌手にはアグネス・チャンとか、優雅とか他にもプリシラ・なんとかとかいう歌手がいて、そういう娘たちもちょっとはエキゾチックだった。しかし、そのときは、彼は彼女たちをそんなにステキだとは思わなかった。ただ、それから十年くらいしてから、赤坂プリンスホテルかなにかで開かれたパーティーに呼ばれてテレサと再会し、すっかり大人のいい女になった彼女に「コタローさん、テレサ、あのコロ、コタローさんのコト、スキだったのに」などと告白され、どぎまぎした記憶がある。年月が経過し、成熟した、いい女になった彼女はいい歌をいっぱい歌い、日本の女の愛と哀しみをいっぱい歌いながら、ある日突然死んでしまった。そして、テレサが昔いた場所から姿を消したように、彼もかつての住みなれた世界を捨てたのだ。歌に聞き耳を立てていたヘレンが「アイレン」とぽつりと呟いた。日本語の愛人はアイレンと読む。『愛人』は中国人にも人気があるカラオケの名曲である。ヘレンもこの歌がどういう意味の歌か知っているはずだった。そして、死んだミキもこの歌が好きだった。ヘレンが裸のままで彼にしがみつきながら、歌を聴いていたのはほんの短い時間だった。やがて身体を起こし、バスタオルを身体に巻きなおして、バスルームに消えた。そして身体を洗い、化粧をし直して、バス・ルームから出てくるとわたしの頬におざなりなキスをして、たちまちしたたかな街の女の顔を取り戻して、極端に冷淡そうな表情を彼に向けていう。「Now Kyoshiro, it's finished my lovetimes, and then see you again」〈それじゃ、ね〉そして、次の戦場を目指して素早く移動する戦士のように、疾風のように姿を消した。店に戻ってもうひと稼ぎするのだろう。ヘレンが部屋からいなくなった後、彼はなんとなくそのことだけのために人にであって、用意されていれた料理を配慮もなにもなしに食べちらかしてお腹がいっぱいになったような、独特の、孤独な、後味の悪い思いに浸りながら一人で惨めに部屋代を払い、ホテルを後にした。もともと自分をバカだと思っていたが、自分のバカを念押しして、舌打ちしたくなるような自己嫌悪にかられながら、夜道をトボトボ歩く。男は誰でも射精し終わると別人格に変わるというが、それは明智も同じだった。彼の場合、女の前で急に不機嫌に振る舞い始めるのは相手に悪いと思って、そういうふうに態度を豹変させたりするところは見せないようにしていたが、射精が終わると猛烈な自己嫌悪に駆られる。それはほかの男と同じだった。身体のエネルギーの話でいうと、ヘレンに燃料を吸い取られて、心のボンベが空になっている、ということなのかもしれなかった。夜十一時を過ぎると、本牧のあたりの車の通りはめっきりと少なくなる。彼にとっての十一時とか十二時という時間はふだんならば、もうベッドのなかでいいコで眠っている時間なのだ。明智はどこかで空車のタクシーに出会わないかと思いながら、闇の立ちこめる殺風景な何かの工場の建物や英語の看板をかけたままのしもたやの続く大通りを山手の自分の家の方に向かって歩いた。そして結局、その夜、ホテルから自分の家まで星ひとつない暗黒の空を見上げながら、歩き通した。山手の駅から真っ直ぐに来た道を、元町から根岸の方に抜ける本牧通りをわたってそのまましばらくいくと、三丁目の信号、小学校の看板があって、それを左に曲がると坂道になる。だらだらとしたその坂道を登ると右手にキリン公園と呼ばれる小さな公園がある。その公園の後ろにある白い建物が彼の住んでいるマンションだった。そこは横浜の山手、海に向かって広がる港が見える丘公園と外人墓地のある山の斜面のちょうど反対側に当たる場所だった。夜中に坂道を歩きながら見上げる港が見える丘公園はなにか魔性のものでも棲んでいそうな黒い森のように静まり返っていた。この坂道を登り詰めれば公園を通り抜けて「外人墓地」、降りれば元町、そして海である。彼がこの千代崎の谷間の斜面に建てられたマンションに住みはじめてから、もう八年が経過していた。マンションに帰り着いた時は真夜中の十二時を過ぎていた。エレベーターで四階に上がって部屋のカギをあけ、電気のスイッチを入れると、よぼよぼに年老いた小型犬がよたよたと、犬小屋替わりになっているクローゼットの奥から這い出してきて、背伸びをしながら明智を見上げて出迎えた。犬は名前を「ラッキー」という。この犬もまだ若かった頃は、彼が部屋に戻ってきて、「ラッキー、来い」と呼ぶと部屋の奥からぴょんぴょん飛び跳ねながら、足下に駆けつけて、時間が何時だろうと散歩に出かけようとせがんだものだった。それがすっかり年老いてしまったのだ。犬はシーズーで、祖父は日本一のチャンピオン犬という由緒正しい血統書つきだったが、なにしろもうこのころ、十四歳だった。去年の夏、背中の毛がひどく抜けたので暑気のせいでの抜け毛かと思って犬猫病院の医者に見せると、心臓が弱っているとのことだった。それ以来、医者からいわれたカロリー制限したドッグ・フードを食べさせている。獣医の話では小型犬の十四歳は人間の年齢に換算するとなんと八十三歳なのだという。いつ死んでもおかしくない年齢なのだ。明智がこの犬に初めて出会ったのは十四年前、ミキが一人で暮らしていた千駄ヶ谷のワンルームマンションだった。犬はもらわれてきたばかりでまだ生後3ヶ月しかたたない子犬だった。頭をなでてやると、キャンキャンと元気にほえた。死んだミキが飼っていた犬だった。ラッキーという名前も明智の命名だった。ミキの実家は浅草の不動産屋で何軒もの貸しビルを持つ資産家だった。彼は八年前に麗子と離婚して(というかミキが離婚の原因だったのだが)、ミキといっしょにこのマンションで暮らし始めたのだ。そこからラッキーもいっしょの暮らしが始まったのだった。ミキが交通事故で死んだのは麗子と離婚して二年くらいあとのことだった。離婚後、武智はすぐにミキと一緒に暮らし始めたのだが、世田谷のマンションの売却のことや慰謝料のことなどでごたごたしていて、ミキが死んだ時、彼はミキをまだ入籍してなくて、身分は同居人で内縁の妻だった。ミキが死んだ時、彼女の両親は、彼が彼女といっしょに暮らすようになってから正式に挨拶にいっていなかったこともあって、敵意をむき出しにした。過去に明智が原因で自殺未遂を引き起こした経緯があったから、ミキの親が彼を恨みに思うのは当然のことだった。そのこともあったし、そもそも彼女がずっと二十歳以上も年上の男といっしょに暮らしていたことを相当苦々しく思っていたのだ。彼女が死んだあと、突然父親がやってきて、二人がいっしょに暮らしていた部屋からミキの遺品からなにから、彼が買ってやった服やアクセサリー、二人で旅行した写真をまとめたアルバム、そういうものまで一切合切を持っていってしまった。この時、美紀の父親は明智を殴った。父親は明智と同世代だった。そして、後に残されたのは、始末に困るこの小型の室内犬だけだったのだ。それから、彼はミキの形見になってしまったその犬といっしょに、自分という人間がこの世の中に生きていたことを一人でも多くの人間に忘れてもらいたい、過去と因縁のつながらない新しい生活を作り上げなければと思いながら、ひっそりと暮らしてきたのだった。明智が一人で住んでいるマンションは間取りでいえば1LDK。広さは四十二平方メートルあまりあった。ひとりで暮らすにはまずまずの広さだった。男一人の所帯なので家のかたずけが悪く、ベッドルームに使われるはずの八畳ほどの部屋は図書室というか資料室のようになっていて、手放せなかった昔読んだ本が本箱に入って並んでいた。真ん中に一応ベッドは置いてあったが部屋のなかはたたんでない洗濯物や衣類、積み上げた本や紙袋で散らり放題にちらかっていた。明智が書斎にして仕事をしているスペースは、十二畳のリビング&ダイニング・ルームの南の窓に面した大きなテーブルだったが、そのテーブルの端に置いてあるファックス電話の留守番電話信号が赤いシグナルを点滅させて、誰かからのメッセージが届いていることをアピールしていた。電話は別れた妻の麗子からだった。 「今月分、たしかに受け取りました。有り難うございました。それで、毎年のことで言いにくいのですが、来月は摩耶の学費を払わなければなりません。九月の支払いは九十万円なのですが、全額というのが、大変なのも分かります。半分は何とかしますから、毎月のお金とは別途で五十万円だけ用意していただけないでしょうか」  麗子の声を聞いたとたんに、彼はいっぺんにうんざりするような現実に引き戻された。離婚したとき、明智の年収は二千万円には届かなかったが、一千七、八百万円はあった。月二十万の仕送りなんて、あのまま、会社を辞めたりせずに、自分の属する組織にいつづけて、広告制作の仕事をやりつづけていれば、なんでもないことだっただろう。子供の二人ある十年以上連れ添った妻を捨てたかわりに若い女を手に入れた。そして、妻への慰謝料を払うためにそれまで住んでいたマンションを売り払った。残ったのは節税用にといわれて、半分遊びで買って人に貸していた横浜のマンションだけだった。結局その、横浜の山手にある小さなマンションで彼はミキと二年間を過ごしたのだ。麗子のいうとおり、来月はもちろん、本当に大学の学費の支払期限なのだろう。去年もそうだったからそれはわかっている。彼女はそういうことでは嘘は突かない女だった。しかし、多分、全部が彼女のいうとおりというわけでもあるまい。必要な金額はおそらく、九十万ではなく四十万ぐらいだろう。彼女はそういう嘘はいう女だった。そして、残りを自分で工面するようなことをいっているが、実際に金を払うのは実家の父親、萩原高行のはずだった。この人は有名な詩人のムスコで、この人自身も有名な建築家だった。鎌倉山の急な山の斜面に、どうしてこんな崖の上に家を建てたんだというような家を建てて、そこで暮らしていた。それが麗子の実家だった。高行は資産家で、麗子が本当に困ったらしい声を出して「ちょっと困っちゃったんです。今月、摩耶の学費が都合つかなくて…」などと自分が立ち至ったその困った事情をあることないこと取り混ぜて相談すれば、高行だったら、かわいい孫の学費ならばと相好を崩して「そうかお前も大変だな」とかいいながら、麗子には彼女のいいなりに五十万円でも百万円でも融通するはずだった。そして、たぶん彼が仕送りするお金も高行が与える金も、麗子と真木と摩耶の女三人の優雅な母子家庭の生計を支える足しになるはずだ。まったく女たちはたくましい。麗子だってなんにもせずにぶらぶら遊んでいるわけではなく、中年のオバサンたちが見る雑誌の和服なんかのページのモデルでいまでもときどき見かけるのだから、売れっ子かどうかは別として、どこかの事務所に所属して昔のモデル仕事を再開しており、どのくらいの実入りかは別の話として、まるきり不収入というのではないはずだった。毎月の養育費も麗子が彼との離婚を承諾したときの約束がそうだったのだから、本人としてはいわれるままにするより仕方なかったのだ。毎月の子供のための養育費といわれると、それをシカトして済ませられるほどの図太い神経は持ち合わせていなかった。よく離婚後の慰謝料や養育費を払わないでうやむやにする男がいる。彼も金策に困りながら、貯金を崩すのが嫌で支払いを滞らせたことがあった。その時、娘たちが夢枕に立って、金に困って泣いている夢を見た。娘たちはその夢のなかではまだ幼い少女のままで「パパア、パパア、ウェーン、ウェーン」といいながら、地獄絵のように汚れた暗黒のなかに身体を半分浸けたまま、両腕を彼の方に差しのべながら声を出して泣いていたのだ。その夢を見てから彼はなにがあっても、たとえ自分の貯金を削っても、娘たちの養育費だけは仕送りを遅らせることのないようにしていた。ミキが死んだあと、彼は長年勤めた広告代理店を辞めた。もらった退職金で会社からの借入金を返済し、高い金利で払い続けていた山手のマンションのローンの精算をすると、もう後にわずかな金しか残らなかったが、その毎月の娘たちのためのお金だけは自分なりの才覚を働かせて、なんとか工面しつづけてきた。ミキに死なれ、そのミキの死んだことを知った麗子に彼は「もちろんご愁傷様で同情はしてるけどコタローさん、それは罰が当たったのよ。いい気味だとまではいわないけれど、これであなたとあたしはやっと対等になったのよ」といわれた。多分、麗子のいうとおりなのだろう。彼の、ミキがあとに残したおいぼれた小型犬との二人暮らしは惨憺たるものだった。しかし、彼を信じて生きてきて彼に裏切られた麗子が娘二人とはじめた生活もその暮らしに優るとも劣らないほどの苦しみに満ちたものだったのに違いない。彼にも昔は心の温まる、平和な家庭があった。その昔見た家族団らんの夢の名残が毎月の二十万円の仕送りなのだ。その支払いさえ滞らせねば、どこでどうやって生きていようとかまわない。なにを食べようとなにを着ようと誰もなんともいわない。近所の二十四時間営業のコンビニエンスストアが彼の行きつけの店、いまはそういう生活だった。それは完全に自由な生活でもあったが、アリ地獄の中にずり落ちていくような失墜感を伴っていた。そして、そのなかで毎月用意する二十万円の娘のための養育費は、心のなかの小さな痛みとして存在し、同時に彼の心がまだ完全に死んでいない徴として存在していた。そして、そのためにもオレはちゃんとして生きていなくっちゃ娘たちにまずいぜ、という義務の意識をかすかに駆り立ててくれた。それは本当にかすかな義務の意識だったが、このころの彼の心のなかには多少ともなにかをするために長期的に自分を支えることの出来るヴィジョンなど、そのこと以外に見あたらなかった。いつか、こっそりとでもいいから、成人して美しい女になった娘たちを見にいきたい。娘たちには、彼女たちの父親のようなバカな男ではない、まともな結婚相手を見つけて幸せに結婚して平和な家庭を作って欲しい。それが将来の唯一の夢、そして同時にかつての幻の楽しいわが家と唯一つながる残された願いというわけだった。離婚後、絶縁状態が続くなかで、いち度、お金の工面がつかず、振り込みがおくれたことに麗子が催促の電話をしてきたことがあった。それ以来、明智が麗子の口座にお金を入金するたびに、彼女は確認の電話をしてきて、それからあれこれと世間話をするようになった。「いつもありがとうって二人ともいっていたわよ。義理堅いって感謝しているみたいよ、父親に」その別れた妻の電話は電話口でのしゃべり口調は、冷淡で皮肉っぽく底意地悪かったが、麗子の、軽口のようにいった父親という言葉が心に沁みた。そしてその言葉は、この地上に彼と思いをつなげる一人の係累も残っていないと思い定めて、いつもは自分でも「婆捨山棄太郎」のようなつもりで生きている自分の気持ちをわずかだが暖めてくれた。婆捨山棄太郎は冗談だったが、本当は半分は本気だった。これといって、他に責任ということに関係のない生活をしているのであれば、そして、これがこの世の中で唯一のどうしても果たさなければならない義務なのであるとすれば、彼は自分の娘に送る養育費のために必死になれる。「麗子がいっているように娘たちが彼に感謝しているなどというのはきっと嘘だ、娘たちはわたしを父親失格のひどい男と思っているのに違いない」と、彼は思っていた。いずれにしても、律儀に振り込まれる銀行の口座が彼女たちの成長に、例え養育費の仕送りだけとはいえ一枚噛んでいられることにはかわりがなく、そのことを考えると、心の中にうっすらと射幸心が漂った。そして、その時だけはもう八年近くあっていない、おそらく美しい女たちに成人したに違いない、二人の娘の父親なのだと実感できた。実家の父親の膝元に戻って、その庇護の元で暮らしている麗子にしてみれば、いざとなっても親を頼れば、なんの不自由もない暮らしであることは分かり切っていた。だから、もしかしたら彼の仕送りもそれがないと生きていけない、せっぱ詰まったものではないのかもしれなかった。それでも、彼にしてみれば娘のために毎月二十万円の仕送りをどう稼ぎ出すか、そのために少しでも実入りのいい仕事を求めて街をかけずり回るのだ。他にあてがなく目の前に仕事があれば、深夜営業の駐車場の受付け係でもビルの警備員でも誰かの尾行調査のような探偵の真似事でもなんでもやった。そういう仕事だったらきちんとした信頼関係を作り上げて、ルートさえ付けておけば、横浜の街にはいくらでもころがっていたのだ。本気で働かなければと思いはじめたのにはそれなりの理由があった。会社を辞めたあと、最初のうちはけっこう気楽に不足分のお金を銀行口座から取り崩していたのだ。そして、何も考えずに預金を食いつぶす生活をつづけていたら、口座の金額が一年間に四百万あまり減ってしまった。もっとも、それはミキに死なれて会社を辞めてヤケクソになっていたから、一種捨て鉢のどうにでもなれという破滅願望のようなものに支えられて、やけっぱちで生活していた時期でもあった。それから懸命に仕事を探し始めた。原稿書きのような手の汚れない仕事だけ選んでやっていても、生活していくことはできない。それはでっち上げの原稿を書きなぐったり、あやふやな英語の知識でとりあえずの日本語の生硬な翻訳原稿を作り上げることは確実な稼ぎにはなったが、その稼ぎだけでは自分一人食べていくことくらいできたかも知れないが、生活し、そして娘たちの養育費を稼ぎ出すことはまではできなかった。その月二十万の養育費のほかに年間で二百万近くになる二人分の大学の授業料をどう工面するか、じりじりと減り続ける退職金と昔、自分が住んでいた家を売り払って、ローンを返済したあとに残ったお金の入った銀行口座の通帳の数字をにらみつけながら、あれこれと金策の算段を考えるのだ。彼はあのころ、自分の銀行口座に八百万円あまりの貯金を持っていた。失業してしまって国民年金も満足に払えずにいたのだが、これまで会社勤めしている間は、厚生年金も社会保険もきちんと払い続けてきたから、年を取ったらなにがしかのお金は国からもらえるに違いないと思っていたのだが、あらためて大金が転がり込んでくる予定などはなにもなかった。そういうことを考えるとたまらなく心細くなってきて本牧のラブホテルなんかにしけこんで中国女なんかとセックスしてる場合じゃないとあせり始める。麗子からの留守番電話をきいたとたんに彼は酔いから覚めたような気分になり、どうしようかと途方に暮れて心を苦々しい気分に支配される。娘の学費をどう稼ぎ出そうか。何かいい仕事はないだろうか。死ぬほど原稿を書いてもいいし、のどから心臓が飛び出しそうになるくらいドキドキするようなスリリングな手の汚れる、やばい仕事でもかまわない、なんでもやるよ。とにかく来月は娘の学費五十万円に毎月の養育費、二十万円、都合七十万円のお金を何とかして稼ぎ出さなければならない。そんなことを考え続けながら彼はその夜の不機嫌な眠りのなかに沈み込んでいった。           

                                                        (第一章 終わり) 第二章・オフェリアを聴きながらにつづく   

死立探偵通信

作家・編集者・出版社社長・うな丼研究所所長・死立探偵。塩澤幸登の連絡板です。

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