第二章 八月二十七日午前五時十分 オリビアを聴きながら
翌日、八月二十七日は、午後、虎ノ門にある共同医学出版の藤井のところに、アメリカの医学雑誌の特集記事の翻訳原稿を届ける約束の日だった。金曜日、週末である。明智小太郎は明け方、目が覚めた。時計を見ると午前五時十分過ぎである。前夜から間歇的にふったりやんだりしていた雨はもうやんでいるようだった。空には重苦しい、いやな黒い雲がたちこめていて、いまにもまた、降りだしそうな空模様だった。前日寝たのが、十二時を回っていたのだから、五時間くらいしか眠っていないことになる。午前五時というと、若い頃は夜更かしに疲れて、いつも眠りにつく時間だった。それがいつの間にか昼夜が逆転して、毎朝、その時間に目が醒めるようになってしまった。三十年間かけて、生活時間を逆転させた。前の晩、何時に寝ても朝五時ごろにいったん目が覚める。身体が年老いた証拠のひとつなのだが、夜の眠りも浅く、眠る時間自体も短くなった。眠りは人間の身体の細胞の増殖や新陳代謝のスピードに関係しているという。人間の身体は運動したり、生活したりして動き回るとその分、体内に貯えられていたグリコーゲンと呼ばれているエネルギー源を消費して、疲労し、あとに乳酸、いわばカロリーの燃えかすを細胞のなかに残すのだ。身体が疲労した状態というのはこの乳酸が細胞のなかにいっぱいに蓄積された状態である。この乳酸を血液のなかに含まれるヘモグロビンが拾い集めて、血管のなかを肝臓に運ぶ。そして腎臓で濾過され老廃物になって水分といっしょに排泄される。つまりこれがオシッコである。そして、このプロセスが疲労回復なのである。肉体の年齢が若いうちは生命力も旺盛で体力もあるから、疲労の回復も新陳代謝のスピードも細胞増殖のスピードもすばやく、したがって乳酸の分泌も盛んで、疲労も深いということになる。だから、若いヤツの眠りはいぎたないのだ。しかし、若い肉体の疲労は、深く眠ればすぐに元の状態に戻ることができる効率の高い新陳代謝機能も持ち合わせている。それが、肉体が若いということの本当の意味なのだ。彼の身体はこの頃からもう、深く眠るということもなくなってしまっていた。しかし、それは年老いて細胞分裂のスピードが遅くなったということだけが原因なのではなかった。浅い眠りは様々の夢をくり返し、見せてくれた。眠りのなかの夢の時間でしか会えなくなってしまった人たちもいるのだ。そんな夢のなかでしか会えない人たちに出会うと、彼はいつも途中で目覚めて心が張り裂けそうになる。そして、もう一度だけ会いたいもう一度だけ会いたいと思ったり、助けてあげたかった、助けてあげたかったと、何度も繰り返して心のなかで繰り返しいいつづけたりしながら、わけの分からない哀しみに心を満たされて目を覚ます。だから、年老いた人間にとっては必ずしも眠りが安息であるとは限らない。少なくとも、彼にとってはそうだった。明智が、若かった自分の身体が年をとり始めた、そのことを一番最初に痛切に感じさせられたのは、三十五、六歳のときだった。若いころ、さしたるスポーツもやっていなかったのだが、登山やワンダーフォーゲルが好きで、けっこう頑丈で足腰は相当に丈夫な方だった。それが、あるときから業界のパーティーとかに呼ばれて、立席で三十分も立ち詰めていると、身体が二つに剥がれるような疲労感を感じるようになったのだ。そして、自分でも均衡のとれたいい体だと思えた、若いころに作った身体の形がその年齢あたりで崩れ始めた。あわててジムに通ってウェイトトレーニングをしたりして、身体の管理をするようになった。それ以来、早朝にジョギングする習慣が出来たのだった。だから、この時点でもう、十六年間も朝方の街を走り続けていたことになる。習性のようになっていたので、だいたい一日置きなのだが、一定の間隔で走らないと身体のなかの水分があまって、足が浮腫んだような感じがする。なんとなく身体の調子が悪いような気がしてくるのだ。昔は、身体は心を仕舞っておく入れ物だと考えていた。美しい体のなかにこそ美しい心が宿るというわけだ。
それを年とってからは逆に、心の方が年老い、滅びようとしている身体を入れておく容器なのだ、というふうに考え始めた。長い時代を生きながらえて、汚れや傷を刻み込んで衰えた肉体であればこそ、廃れ、あれ果てた心に帰属してふさわしい。若かったころは元気に会社に行って、元気に働くために自分の体を鍛えるのだというふうに考えた。そのデンでいけば、もうずっと前に会社も辞めてしまったし、決まった仕事もあるわけではなかったから、走る必要もなかったのだが、一度身に着いた習性というのは恐ろしく朝になると身体が勝手に動き出した。章の冒頭で書いたように、朝五時ごろ目が覚める。そして、習慣なのだが、朝起きるといつもまず、有線放送の聴けるラジオのスイッチを入れる。すると、そこからいつも、なにか音楽が流れ出す。彼がいつも気に入って聴いているのは、古い流行歌ばかりをフィーチャーしてながしつづけるチャンネルだった。このとき、ラジオから流れて来た歌は『オリビアを聴きながら』だった。
♪お気に入りの唄 一人聴いてみるの
オリビアは淋しい心、なぐさめてくれるから
ジャスミンティーは 眠り誘う薬
私らしく一日を 終えたいこんな夜 ♪
出会った頃は こんな日が来るとは 思わずにいた
Making good things better
♪いいえ すんだこと 時を重ねただけ
疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの♪
♪眠れぬ夜は星を数えてみる
光りの糸をたどれば うかぶあなたの顔♪
誕生日にはカトレアを忘れない
優しい人だったみたい だけどおしまい
♪夜更けの電話 あなたでしょ
話すことなど何もない♪
Making good things better
♪愛は消えたのよ 二度とかけてこないで
疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの♪
この歌は昭和五十三年のヒット曲だ。歌ったのは杏里。この年、武智小太郎は三十歳、妻の麗子はまだ二十六歳だった。結婚して四年、早生まれの次女の摩耶が生まれた年である。杏里とはデビューしたばかりの頃、一度、出会ったことがあった。あのころ、彼女はまだたしか十六歳か七歳だった。まだ子供だったからだろうが、キュートでかわいいオシャレな雰囲気はあったが、場慣れのしないオドオドした女の子だったと記憶している。たしかデビューした時の所属事務所だったボンド企画の安原が連れてきたのだったと思う。本名が川島栄子というまったく地味な名前だったから《川島栄子がどうして杏里なんだよ》と思ってよけいに鮮明に覚えているのだ。両親は在日朝鮮人で彼女もたしか横浜出身だったのではないかと思う。この歌の[オリビア]というのは、当時オーストラリアからものすごい勢いで世界市場に売り出してきたオリビア・ニュートン・ジョンのことだった。この歌はその頃、人気絶頂のシンガー・ソング・ライターの一人だった尾崎亜美の作詞作曲になる作品だったと記憶している。『オリビアを聴きながら』はいい歌だったが、残念ながら大ヒットにはならなかった。せいぜいオリコンのヒットチャートの何十位かまでたどり着けただけだった。しかし、まだメジャーになったと書くことはできなかったが、このスマッシュヒットの業界内反応は大きく、杏里はこの歌のおかげで地味にだが、なんとかこのあと歌手をつづけていくための地歩を固めることができたのだった。彼女はその後、ハワイやニューヨークへのあこがれを歌ったり、サーファーの世界の恋愛をテーマにしたりという内容のスローバラードっぽい歌をうたいながら、あの頃の雑誌でいえば『ポパイ』や『ファイン』の世界、生活感の希薄な、清潔で慎ましい若者の世界、松任谷由実とはまた一味違うノリで高度経済成長の爛熟期の若者たちの消費の夢を描きつづけたのだった。何年かしてテレビアニメ『キャッツアイ』の主題歌を歌って、それがブレイクして、そのあと、『悲しみがとまらない』という歌を連続ヒットさせて、メジャーな歌手としてテレビのベストテン番組に顔を出すようになった。八十年代の杏里の歌は、松任谷由実の歌の世界よりももっと過激にリアリティが希薄で、西麻布の街角のオープンカフェや代官山の白いビニールクロスの壁紙を貼ったマンションの空間がよく似合った。その杏里もいつの間にかもう、ほとんどテレビに出てこなくなってしまった。けれどもあの『オリビアを聴きながら』をあらためてこうやって聞き直してみると、この歌はまことに二十世紀末の幻を描き出した近未来SFのような歌だったと思う。たしかに、尾崎亜美の予言は当たっていたのかも知れない。まったく、愛の幻を見ていた、それだけのことだったのかも知れない。歌を聴いて、コーヒーを飲んでいるうちに目が覚めてくる。用便をたし、それから、トレーニングウェアに着替えてジョギングに出る。どんよりと曇った空だった。引きはじめた朝もやのなかをゆっくりと走り本牧通りに出て、これを右に曲がり、しばらくするとトンネルをくぐり、元町に出た。このコースを通って横浜球場の方に向かうと、帰りは海側を回って外人墓地の脇を駆け上がって公園を抜けて帰ってくる形になる。空を見上げると重苦しく雲が何重にもかさなって立ちこめ、この日もまた、いつから雨が降り出すか分からない、そんな天気だった。また、と書いたのは前日までずっと雨が降り続いていたからだ。中華街の脇を抜けて、横浜球場の南側を通り、それから右折して港に出る。港の端までいってそこからUターンして戻り、途中から右折して根岸線の高架のところまできて、そこからガードに沿って横浜球場の角を通り抜ける。やがてその場所にさしかかる。そこに来ると彼の心はいつもふるえるように痛んだ。ちょうど六年前、一九九三年の八月にこの場所でミキが死んだからだ。交通事故だった。あのときから─、麗子と別れたあと、二年間をいっしょに暮らしたミキが、首都高速羽横線の横浜球場出口付近で運転していた車をトラックに接触させ、はじき飛ばされて道路壁に衝突して死んでから既に六年が経過していた。あれは真夜中、もう十二時をまわった時刻だった。眠くなりはじめたところを警察からの電話連絡で起こされ、急いでタクシーで駆けつけた彼が見せつけられたのは凄惨な事故現場だった。ぐちゃぐちゃに潰されてしまったミキの愛車だった2シーターのスポーツカー、そしてそのあと、パトカーで連れていかれた病院の緊急処置室で、息を引き取った直後の無惨な、傷だらけで汚れて壊れた人形のような彼女の亡骸と対面した。車には同乗者があり、髪の長い若い男だった。その男も即死だった。首が後ろにねじ曲がって死んでいたという。衝突した時の衝撃の物凄さが想像できた。同乗者の亡骸も彼女の隣に安置されていた。確認してくれといわれてちょっと見たが、彼の知らない男だった。あとでわかったことだが、伊勢佐木町の裏通りにあるホストクラブの人気者だったのだという。男の遺体も顔が判別できないくらいにひどく損傷していた。ミキに死なれたあと、彼は、眠りにつくと何度も夢のなかでミキのオープン・カーがトラックに接触して弾き飛ばされるように横転する場面を見たが、その夢の終わりにいつも、自分の両手を血にまみれさせて道路の端に呆然と立ち尽くし、立ち尽くしたままただただ慟哭している自分がいるのだった。それが何時もくり返してみた夢だった。ミキの死に自分がどれくらい責任があるのか、いまとなってはわからない。おそらく彼は彼女の死の最大の被害者に違いないのだが、彼女はいずれにしてもそうやって死んだのだった。ミキの車と接触したトラックの運転手の話によれば、東京の方から自分の車に併走するように走ってきたミキの車が、横浜の出口近くに来ているというのに右車線に出て加速し、突っ走って勢いよくトラックを抜いてから回り込んだように路線変更して左の車線に戻って出口車線に移動しようとした。そしてそこで、急にハンドルを切り損なったようにふらついて、自分からトラックに吸い込まれるようにして接近してきて接触し一瞬のうちにはじけ飛んだのだという。警察の話では、事故はミキの飲酒運転、よそ見運転が原因だった。周りの人間はみんな知っていることだったが、ミキの両親は娘がそういうふうにわたしのような二十歳も年の違う中年の男といっしょに暮らしていたのを心中、苦々しく思っていた。しかもそれが、いっしょに暮らしていた男ではない、風俗産業の世界の男といっしょに死んだのだ。病院で明智は、駆けつけたミキの両親とはち合わせしたが、父親に「アンタが娘を狂わせたんだ。ミキはアタシたちが葬式を出します。あんたには葬式に来て欲しくない」といわれた。書いたように明智とミキの生活は内縁関係だった色々な経緯があってミキは実家と親子の縁を切るような形になっていたのだが、父親からそういわれたらもう自分が表に立って葬式を仕切るというわけにもいかなかった。遺体も結局、彼のところには戻ってこなかった。ミキの遺体は、浅草の両親の家にもどされ、浅草のはずれの小さな寺で葬儀が執りおこなわれた。彼は参列者の端に座っていただけだった。葬儀の式場で焼き場までついていこうとしてミキの父親になぐられた。ミキが死んで、葬式が終わり、何日間か彼はほとんど部屋から出ず会社にもいかず、しばらくマンションに閉じこもって自分も死んだようになって暮らした。そこへ一人の訪問客があった。男は神奈川県警の横浜署の桜井と名乗った。その桜井という刑事から彼は意外なことを聞かされたのである。桜井はいった。「奥さん、相当お酒を飲んでいたみたいですね。血液検査で、かなりのアルコールが検出されたようです。それと、非常にいいにくいことなのですが…」心中とか殺人事件とかそういうことはないだろう、ただの飲酒運転の事故だろうが、どうして裸同然の格好で運転していたんでしょうねと刑事はいいにくそうに彼にいった。「お知らせしなきゃいけないようなことじゃないかもしれないんですが…」桜井はそこで口ごもって、一息ついた。「彼女は下着をはいていなかった。ブラジャーもしてませんでした。前がチャックで開くようになっているミニスカートのワンピースを着ていた。それだけでした。車で走りながらなにをしようとしていたのか分かりませんが、彼女のパンティとストッキングは同乗していた男のズボンのポケットにありました」。彼がミキの事故死した遺体と対面したのは、病院の緊急手術室だった。白布に覆われた彼女の遺体はすでに全裸の状態だった。そのとき、彼は病院の人たちが傷の手当てをするために彼女を全裸にしたのだろうと思った。しかし、そうではなかった。その全裸は事故にあって、医者がオペをしやすくするために衣服を脱がせたとか、そういう話ではなかったのだ。刑事は隠してもしょうがないのでといいながら「男のポケットにはほかに赤坂のPホテルのレシートとか、最新型、ラテックスのコンドームとかがいっしょに入っていました」と付けくわえた。赤坂のPホテルは昔、彼とミキが不倫関係だったころに、始終逢い引きに使っていたホテルのひとつだった。いまはもう取壊されてしまったが、新館は建築界の鬼才といわれた丹下健三の設計した、白亜の美麗な建物だった。あの日、ミキは昼過ぎに品川のパークホテルのロビーで昔の古い友達と会う約束があるといって出かけたはずだった。彼が家を出たのはミキが出かける前、十一時ころなのだが、彼女はこの日のスケジュールを少なくとも彼にはそういっていた。下着のこととかホテルのレシートのことは警察の調べだから、本当も嘘もないのだろう。身体にまとっていたのは前にチャックの付いた、すぐ脱げるようになっているワンピースのミニスカート一枚だったという。たしかに彼女はあの日、その黒革で前チャックのワンピースのミニスカートで出かけた。そういう、黒いレザーのミニスカートを一枚持っていた。そのワンピースだけしか着ていなかった、ということは、裸同然だった、要するに裸だったということである。彼女ならそれはあり得た。わかっている限りの話をつなぎ合わせて、そのまま考えれば、要するにミキは赤坂のホテルでその男と会い、酒を飲みながら食事をし、それから部屋をとって(たぶん)セックスした。そして、ホストクラブの開く時間に合わせて、助手席に男を乗せて隣に乗せたその男に身体をいろいろに弄られながら横浜に戻ってきた。高速道路の出口で酒が効いてきて酔いが回り、ハンドルを切りそこなって交通事故を起こして死んだ。状況証拠をかき集めて、想像がつくのはだいたいそういうことである。ミキはその時、下着をはいていなかった、男といっしょだった。この二つの事実が彼を打ちのめした。彼が明け方の横浜の街を走り回りながら、その最中に考えることのほとんどが過去の細かな経緯の襞のなかに入っていくような作業だった。そして、まだ仄暗い夜明けの街を走り、この場所に差しかかるたびに考えるのは、ミキはなぜあんなふうにして死ななければならせなかったのかということだった。彼はミキの死は本当は自殺で、その原因は自分にある、と思っていた。あのときああしていたら、俺の人生はどうなっていただろう、あのとき、ああしていなかったらどうなっていただろうという思いだった。彼は人生をやり直したいとばかり考えていたわけではなかったが、ここが敗北の地平であるのならば、それはそれなりに覚悟を決めて、そういう自分に可能な人生を生きねばならぬ。そう思っていた。それにしても、オレの人生はいったいどこでチャンネルを切り間違えてこういうことになってしまったのだろうか。結婚し、子供が出来、子供を育てているうちに愛人が出来、妻が子供を連れて家を出ていった。それから、愛人との暮らしを始め、その女に死なれた。ミキと初めて恋に落ちたころ、彼らは会えば必ず身体を交えた。彼がミキにのめり込んでいった最大の原因は、それまで彼女のようにそういうことにそんなに積極的な女に会ったことがなかったことにあった。妻の麗子のことを書くと、彼女は気高く美しく貞淑で従順な人妻だった。自分の妻を人妻と書くのも変だが、人妻と書くより、人間の女と書いた方がいいかもしれない。だから、性についても彼が望めばなんでもやった。しかし、SとかMという言葉があるが、麗子はいつも受け身だった。あなたが望むならわたしは従う、彼女にはどうしてもそういう人間的な感じがつきまとった。麗子は獣になってもプライドの高い女だった。ミキはそれとはまったく違っていた。人生のなかで一番大切なものはその時に好きな男と身体を合わせて生きていることを実感すること、彼女は本気でそういうふうに考えていた。密会してホテルの部屋に閉じこもっているときもそうだったが、いっしょに暮らし始めると、彼女は家のなかではいつも全裸で下着をはくのもいやがった。彼も最初、そういう生活を楽しいと思った。彼女は「女にはあたしのような性欲の強い女と普通の女と2種類の女がいるのよ。それは正確にいうと、性欲ではなくて生きたいという欲望なのよ。生への欲動っていってもいい。あたしたちは少数派、性欲の強弱は育ちや環境のせいじゃない、そういうこととは関係ない、生まれ持ったものだと思うの。本当はあたしたちのような女がいるということを普通の女たちに知られないようにして生きていかなくちゃいけない。そうじゃないと、あたしたちは魔女とか、憑きもの付きとか精神異常者とかいわれて社会的に抹殺されてしまうから。だけど、あたしはなかなかそうできない。わがままに育っちゃったから強い欲望を我慢できないタイプなのよ」と自分のことを説明した。この説明は彼を非常に驚かせた。あとで気付いたことだが、この説明は母の死後に、その死を看取り母の死の間際の伝言を彼に伝えてくれた看護士の女性がいった「心の力を持つ女と心の力を持つ男、そして、そういう力に全く関係のない人たち、三種類の人間がいるのよ」というセリフととてもよく似ていた。ミキとつきあい始めたころ、彼が「いままで何人の男を知っているんだ」と聞くと、彼女は暫く反応せず知らん顔をしてなにもいわずにいたが、彼が抱き寄せてキスし耳たぶをかじりながら、耳元で「正直にいえ」というと、感に堪えたような声で「十三人」と答えた。彼らが愛人の関係になったのは、一九八六年のことで、そのとき、彼女はまだ十九歳だった。ミキに「オレも前に《あなたの心は特別な力を持っている》といわれたことがある」というと、彼女は「そうでしょ、そうだと思ったわ。だってカラダをこうしたときにすぐわかったもの」といった。彼に初めてその力のことを告げた女は一夜だけのちぎりのあと「私たちの愛はこのままでいるといずれ不幸を招くわ、[心の力]がそうさせるのよ。だからあたしはあなたをもう愛さない。あたしたちはこれきりにしましょう」といったが彼はミキに、前に具体的にそういう経験をしていたということはいわなかった。《心の力》ということについていうと、彼が一番最初に人間の身体というのは実はエネルギーの発射装置でもあるのだということに気がついたのは、これも肉親の死に関わりがあるのだが、ちょうど三十六歳だから、一九八三(昭和五十八)年のことだった。会社で課長に昇格し、自分の名前の付いた製作チームを作ってもらったころだったろうか。ミキと知り合う三年前になるわけだが、ちょうど、母親が末期の胃ガンだということを医者から宣告された時のことだった。どういうわけなのか、彼はその周辺の事実関係を妙にリアルに脳裡に焼き込んで克明に憶えている。彼は、それまで例えば、女にふられるとか、女房に浮気がばれるとか、スポンサーがどうしてもウンといわないとか、それなりに苦労はあったが、人生の基本の調子は右肩あがりのJカーブで順風満帆、父親としても二人の子供の誕生に立ち会い、人間の死など、残りの他の問題と同じようにどこかベトナムとかカンボジアとかたまにすれ違う霊柩車のなかとか、遠い別世界の出来事だと考えていた。そのときまで、母親は彼にとっては最愛の女のひとりだったのだ。だから突然の母の死の宣告はもちろん初めての経験で、絶望の冷蔵庫に閉じこめられるようなショッキングな体験だった。それは別れて暮らしていた父親からの電話で始まった。一九八二(昭和五十七)年の七月の終わり、二十七日のことだった。朝、突然に電話してきた父親が絶望的な口調で「発見が遅すぎたそうだ。あと1年もたないっていわれた。胃ガンでな、第4期に入ってるそうだ。まったくバカ女が、いくら病院で見てもらえっていっても意地を張って医者のところにいかないからこういうことになったのだ」電話口でそういって、母に直接ぶつけることのできない憤懣を息子にぶちまけた。そういうふうに告げられたときの彼の無念さをどう説明すればいいだろうか。家族が死ぬというのは初めての経験だった。この時、たしか父は六十八歳、母は六十三歳だったと思う。母親は自分の年老いていく身体をたとえ医者といえども他人の目に晒すのを嫌がり、異変に気付いていながら、一日延ばしに医者にいかずに放置していたのだ。彼は、父親にその事を告げられた瞬間から自分の気持ちがフリーズしてしまい、心理状態が「萎縮モード」「沈殿モード」に切り替わってしまった。食べ物はノドを通らず、眠りも浅く、ただ無性にやりきれなかった。真夏の七月の終わりなのに身体が熱を失って小刻みなふるえが止まらず、無性に寒くて仕方がなかった。そういう状態に落ち込んで、人間が絶望するというのはこういう気分をいうのだろうかなどと他人事のようなことをぼんやりと考えながら、数日間を過ごした。この時期、もちろんまだ、彼は麗子たちと暮らしていたのだが、父から電話があった日、子供たちの夏休みの夏期講習が終わって麗子は娘たちを連れて、鎌倉山の実家に戻っていたところだった。そういう偶然もあって、妻や娘たちに自分が取り乱して放心状態でいるところを見られずにすんだ。そして、母の死の直前までその宿業の病名は父と彼以外の人間に知られずに進行したのだ。人間の発散するエネルギーのことを考えるとき、彼がいつも思い出すのはこの、父親に秘密を打ち明けられて、自分が打ちひしがれて苦しみの極みに追いつめられて過ごした日々のことだ。このとき、父親からそのことを告げられて、それでもその日、ちょうど作りかけていた日本航空のパリ旅行のパンフレットのデザインの打ち合わせがあり、青山三丁目のベルコモンズの入口にあった紅茶のうまい喫茶店『ル・ジャルダン』で、コピーライターの瀬川慶子と待ち合わせたのだ。最寄りの駅からいつも通勤に利用していた地下鉄に乗って都心に出た。その喫茶店での瀬川慶子との打ち合わせでも、間欠的に身体に震えがきて紅茶のカップがちゃんともてなかった。そして、慶子から「アケチさん、今日、なんかヘン」といわれた。彼はそのとき初めて、打ちのめされた心境のなかで周囲の見知らぬ他人、街を歩いている人間たち、駅のホームですれ違う人たちや肩がぶつかるほどの人混みのなかの群衆、喫茶店の片隅に坐って背中をこちらに向けて話し込んでいる人たち、向かい合わせて座った瀬川慶子を眺めて、それらの人々がその時のふるまい仕草、あるいは言葉などの、視覚的聴覚的な要素とはまったく別の茫漠としたエネルギーのようなものを放射しているのを、具体的に直裁的に知った。それは、それまで彼がまったく気が付かずにいたことだった。そして、これもその時初めて知ったのだが、その夢中で自分のやるべきことに没頭して、意識を集中させている人たちが、その意識の波動をなにか認識の対象物を認知するたびに、それはつまり言葉にすると、視線(まなざし)として存在しているのだが、個人差はあるが、その人の発するエネルギーの束がその対象に対して繰り返し浴びせかけられる、そういう有り様を見たと思ったのである。この時、彼がそういう人間たちがエネルギーをやりとりする状況をなぜそういう形で、認識することができたのかといえば、思えばそれはもう、愛する人間の予定された死の告知という衝撃的な体験によって、自分自身のエネルギーの放射がゼロの状態でいるよりしょうがないような、マイナスの状況に立ち至っていたからだろう。別の言い方をすれば、精神的に一瞬のうちに打ちのめされることによって、瞬間的にエア・ポケットのようなところに落ち込んで、なおかつ、そこがどこで自分がどういう場所にいるのかという状況認識の機能だけは逆に研ぎ澄まされたように鋭敏になった、心がねじれたままのそういうナイーブな状態でいたからなのである。このときの彼の場合、自分の周囲にそういう出来事があって、臨時瞬間的にそういう一種のトランス状態に立ち至ったのだった。この力を本当の《心の力》として持っている人たちというのは、別に親が死ぬとか、何かが起きたというような異常な出来事に関係なしに、自分の精神をそういう状態に立ち至らせることができる人たちなのだろう。それが技術的なものなのか、なんらかの方法で修練すれば後天的に取得できる類の技術なのか、彼はそれらのことを一切知らない。そして、これもそのときに知ったのだが、その直線的に対象を認識しようとする視線のような、目や顔そのものから発散される放射線状のエネルギーの他に、人間の肉体そのものがちょうど微弱な電球が発光しているように肉体そのものを光源として、生体そのもののごく周縁にそれこそコケが生えるようにボーっとしたエネルギーを発しつづけているのも知った。それは普通にわたしたちの世界で遣われていることばを使っていえば、《オーラ》、つまり《原初的な形態の人間の精神の放射する外的な力》だった。それは、生命そのものが発散するエネルギーとでもいえばいいのだろうか。あとでいろいろと関連の本などを読み漁って自分なりにたどり着いた結論なのだが、多分、その人間の身体を構成する何億何十億という細胞のひとつひとつが盛んにカロリーを燃焼させながら、人によっては「気」と呼ぶエネルギーを放射し同時に熱を発していたのである。人間はひとつひとつの微少な細胞がその発する熱によって、独特の暖かな熱の圏をもっている。体温三十六度五分などといういい方があるが、それはそういうオーラを発する生体の状態を西洋医学的に定量化して表現したものなのだ。この経験は彼にいくつかのことを教えた。ひとつは人間は常にエネルギーを発し、同時に他者のそれを受け取りながら生きている存在であるということ。もう一つはそのエネルギーの放射や発散は個体的なモノで、その人間のその時の状態によって変化するということだった。そして、さらにわかったのは、人間は精神的なことを原因にするある一定の特殊な状況で、視覚や聴覚、などの感覚を越えたところで人間が日常的に放射している《心の力》を認識できるということだった。精神的なことを原因にするということは、要するに、現実が困難な状況に陥ったことの細かいギリギリのところで生きているとき、という意味である。それはこの場合、母親がこういう形で死んでいかなければならないという理不尽な事実を知らされた、ということである。ほかにどういうことが起こればこの状態にはいっていくのか、彼には正確には分からなかった。しかし、彼自身も日常的に自分勝手に自分だけのルールを作って、エネルギーを放射してオーラを発散させ続けているのだということ、まず、そのことを初めて知った。それから、彼は人間たちをそういう見方で見るようになり、自分も同じようにエネルギーの多寡のなかで均衡をとりながら生きているのだとしたら、その動きをたとえば手のひらや指先、あるいは眼差しを使ったりしてコントロールできないものかと考えたりしはじめたのだった。母親はそのとき、まだ六十三歳で本当なら死ぬような年齢ではなかった。だから、最初のうちは自分がまさか、もう余命のあまりない状態だとは思わず、彼が病室を見舞うと「あたしのお見舞いなんかいいから、頑張ってちゃんと働かなくちゃだめよ」などという親らしいお説教をたれたりしていた。彼女の病状が徐々に変化していって、彼が母の死を実感として受け止め、人間の死と生というものについて新しく気付いた形で認識し始めると、彼の精神はかわり始めた。それまで、調子が良く、勢いが良くて、快活だったもののいい方とか仕草、それから人生についての考え方まで変化していった。全てが重く、緩慢で憂鬱なノリになっていった。それまで、彼の周りでは家族どころか親しい人が生きたり死んだりということもなかった。また、受験勉強や就職活動などでも大きな挫折というのを経験したことはなかった。人生すべて順風満帆でここまで来ていたから、よけいに[母の死]という事実が厳然として心に重くのしかかったのである。そういうふうになっていって、母親を病室に訪ねると「コタロー、なんかやつれたみたいだけれど、イヤなことでもあったの?なんか疲れている感じね。あんまり根を詰めて働いちゃだめよ」と妙な具合にいつもと逆の説教をされた。人間の身体が発する茫洋としたエネルギー、その力を最初、彼は、個人差はあるが誰でも持っているものだと考えていた。母親の死が間近に迫りはじめた頃、彼が見舞いにいくと、母は息子の顔を見てなにかいいたそうにしたが、結局なにもいわなかった。いま思えば、まわりに人が沢山いたからだったのかもしれない。そしてある時、病室を見舞って、母親に「ホントによくしてくれるのよ」といって、わざわざ引き合わされたのが、この病棟の看護婦の一人、斉藤美和だった。身長が百七十センチぐらいあり、体重もかなりありそうな、肉感的な、男好きする顔をした大柄な若い女だった。母親はあるとき、「斎藤さんにはいろんな相談に乗ってもらっているの。わたしに万一のことがあったら、彼女から話を聞いてね」と、謎めいたことをいった。彼の母は頭の良い人だったから、たぶん自分の死期を悟っていたのだろうが、正確なことはわからない。死んだあと、枕元から書きかけのノートが出てきた。そこには俳人の楠本憲吉が書いた《瀬戸内の小さな町恋しふるさと》という俳句といっしょに自分の生まれ故郷についての望郷の思いが縷々としてつづられていた。病気が治ったら、ゆっくり旅行してみたいというようなことが書かれていた。生きるつもりでこのノートを書いていたのだった。母親は病気が見つかって、医者から余命十ヶ月と宣告され、正確に十ヶ月間の闘病生活を経て死んだ。真夜中に様態が急変したのだが、知らせを受けて駆けつけたときはもう、意識がなかった。斉藤美和は母の死の枕元について臨終を看取ってくれていた。ガンが発見されたあと、入院して手術を受け、ちょっと退院してしばらくの期間、自宅療養したあと、再入院して、五ヶ月ほどの闘病生活、そんなふうにして死んでいった。そして、母親に死なれた直後に、彼は斉藤美和から初めて《心の力》という言葉を聞かされたのである。彼女はふたつのことを教えてくれた。それは[人間はエネルギーの塊である]ということと[セックスは男と女のエネルギー交換である]ということだった。そして彼女がそのことを彼に教えたときに、付け加えるようにいったのが《心の力》という言葉だったのである。美和は明智に「《心の力》を自由に操れるようになれば、それまでと全然違う人生を過ごすことができるはずよ」といったのだ。そして、そこからの彼の人生の全てのことは連続的な因果のなかでつながって変化していった。斉藤美和は彼の母が入院していた大学病院の、母親をローテーションで担当していた看護婦のひとりだった。母の死後、病院を引き払った後、二、三日して、そういえばと、母親がいっていた、斎藤美和と話せという、けっきょくそれが遺言のようなかたちになったのだが、その言葉を思い出したのである。そして、そのことを思い出したトタンに、突然、どうしてもそうしなければならないような気がして、その夜、その病院の裏口で斉藤美和を待ち伏せ、彼女が勤めを終えて出てきたところを食事に誘った。前もって電話をしようかとも思ったが、心の中で〈そんな必要はない〉といわれたような気がした。彼はその時三十七歳で、斉藤美和は三十歳だった。彼女は裏口で彼が待ち伏せしていたのを見て、手をあげて合図を送ってきた。そして、そのとき、微笑みながら「今朝からずっと、きっとあなたがここであたしが勤めを終えるのを待っていてくれるという気がしていたの。今夜、絶対にあなたがあたしを待ち伏せしていて、あたしを誘って、美味しいお肉を食べさせてくれて、そのあと、あたしを抱いてくれると思っていたわ」といって、彼を驚かせた。病院を出て、二人は歩いて千駄木から上野に抜けて、湯島のすき焼き屋で食事をした。そして、それから彼女の言葉通り、そのまま、タクシーで上野のラブホテル『満月城』に乗りつけた。これはまあ、彼にとっては恋愛のレベルでいうと、要するに妙な具合で用意されていた浮気だった。それこそ一晩だけお手合わせしたという火遊びだったのだが、驚くべきなのはその肉体のパフォーマンスだった。彼女はバストが九十六センチあるといっていたが、身長も百七十センチに近く、体重も七十キロ近くありものすごいグラマーだった。高校時代、バレーをやっていて国体も出たのだという。八王子の有名な女子校出身だった。裸にむくと、贅肉もこってり付いていてみだらな肉の塊のような身体をしていた。彼が「すごい身体をしているね」というと「全然運動できないの、忙しくて。運動不足で太っちゃったのよ」といっていた。美和も亭主持ちで人妻だった。彼女は看護婦にしておくのは惜しい、毎日つれて歩きたいような身体の持ち主だったのだが、ことが終わったあと「あなたって、いままでの男性と全然感じが違う。やっぱりだったわ。ひどい目にあったのに優しくされたみたい。お母様のおっしゃっていた通り、あなたもわたしと同じ種類の人間なのね」と謎のような感想を述べた。ことが終わったあと、彼女は「腰が抜けた。こういう感じ、初めて」といって笑った。そして「うちの旦那は普通の男なんだよね」といって、感に堪えない様子で彼にしがみついて離れなかった。そして、斉藤美和はそのとき、こういった。「人間には《特別な力を持った男》と《特別な力を持った女》、それとなんでもない人の三種類の人間がいるの。あたしは特別な力を持った女、あなたは特別な力を持った男、私たちは少数派。私たちは普通の人一万人に一人とか、十万人に一人とかいう比率で存在しているといわれているの。わたしたちは普通の人たちにわたしたちのような人間が存在しているということを気づかれないように生きていかなくちゃいけない。そうでないと、わたしたちは魔女とか、精神異常とかいわれてすぐに社会的に抹殺されてしまう。本当の精神異常者のなかに入れられたら、もうおしまい。だから、自分がそういう種類の人間だということは普通の人たちには絶対にいわないようにしないといけない。あなたがわたしたちの仲間だということは、亡くなられたお母様からお聞きしていたわ。お母様も《特別な力を持った女》だったのよ。あるとき、彼女は誰も見ていないところで、あたしの手を握って、熱いパワーをあたしにくれながら「あなたがわたしと同じ女だということは出会ったときにすぐ分かったわ」といったの。そして「わたしの力はどういう形で、ということまではわからないけれど、息子に受け継がれていると思うの。あの子は子どものころ、何度も病気したり、怪我したりして、死にそうになっているけど、その都度、運のいいことが起こって助かっているの。多分、強い《心の力》の持ち主なんだと思う。息子はまだ、なにも気が付いていないけれど、わたしが死んだら、そのことを教えてあげて欲しいの。そして『《心の力》を上手に使いなさいって伝えて欲しいの』とおっしゃっていたわ」それが母親の遺言だというのである。そして、彼女は「あなたはやっぱり特別な男ね」と付け加えるようにいった。彼が人間の発するエネルギーについて考え始めたのは、この[母の死]を発端にして起こった斎藤美和とのことがきっかけだった。彼女がいうには彼の母親はその[心の力]について自分の息子に、いずれきちんと自分が知っている範囲で説明するつもりでいるうちに、死期をむかえて詳しいことをなにもいわずに逝ってしまった、というのだ。明智が彼女を病室に見舞っても始終、親父と個人的に看護をたのんだ人とか誰か付き添いがいて、なかなか息子と二人きりになれなかったこともあったのかもしれない。母親が明確な死期を悟っていたかどうかまでは分からなかったが、結局、そのことを彼はそういう、美和に託された母の伝言という形で知ることになった。母が死んで、葬式のゴタゴタにケリが着いたあとすぐに、彼が斉藤美和に会いにいかなければいけないと思ったのは、逆にいうと、斉藤美和が彼に向かって《力》を送出して行動を促した、《早くあたしに会いにこい》というメッセージを送り出したということだったのである。そして、彼が本気で「オレのアソコは人と違うのかもしれない」と思い始めたのは斉藤美和とのセックスを経験してからのことだった。美和は彼のペニスを長いとも太いとも言わなかった。ただ「熱いエネルギーの棒をさし込まれたみたいだった」といった。だから、自分はそういうふうに性的な部分で特殊なのかもしれないと思ったのだ。彼はそれまでセックスの相手をしてくれた女たちから「上手ね」とか「おっきい」とかいってほめられることはあったが、オレのセックスの技術なんか全然だめだ、と考えていた。女を抱くときはとにかく、こわれものを扱うように優しく扱ってあげる。そして、最後、いきそうになったら、勢いをつけて、短い、一秒とか二秒の間だけ相手のものを壊すようなつもりで射精する、というのが彼のコツだった。これは、学生時代、誰彼かまわずまわりの女の子たちとセックスしていたころに自分で習得した、彼なりのテクニックだった。浮気、本気、遊び、ブス、美人を含めて、何人もの女たちと付き合ってきたが、女たちはみんな彼のそういうテクニックを「虐められたんだか、やさしく抱かれたんだかよく分かんないけど、すごくステキだったわ」といってほめてくれた。いろいろに褒めてくれるのは女がその場盛り上げのための演技としてそういっているのか、お世辞を言っているのか、どっちにせよ、本気でほめているわけではないだろうと思っていた。若いころ、彼は自分の息子をほかの男の持ち物よりひとまわりくらいは大きくて長いのではないかと思っていたが、そういう類のビデオなどを見る機会があって、そこに登場する男たちの逸物の長さを知るにつけ、オレのなんてぜんぜんたいしたことなかったな、というのが率直な感想になった。じつは男のモノのサイズなんて、伸縮自在でけっこういい加減なのだ。しかし、その時の美和のほめ方は客観的で、信用できるような気がした。そして、このころ斎藤美和とのことがあってから彼はセックスをエネルギーのやりとりというふうに考えるようになった。いずれにしても《心の力》という言葉は、そのあと、彼の心を徐々に変化させていった。斉藤美和は「あなたには早く《心の力》という言葉を覚えて、その力を身につけて自由に使えるようになって欲しいの」と、謎のようなことをいった。そして、つづけて「あたしにもどうすれば《心の力》を自由に操れるようになるかわからない。技術的なことはなにも知らないの。でもあたしだって、一生懸命、そのことにエネルギーを集中させると、そのときやっている野球の試合でどっちが勝つかとか、日曜日の競馬のレースでどの馬が勝つかとか、なんとなくわかるの。それで、お金を儲けたこともあるんだもの。だから、きっとあなたも同じだと思う。精神集中が大事なんだと思う。それ以上のことはわたしにもわからない。あとは自分で研究してください」彼は彼女がでたらめを言っているとは思わなかった。たしかに、彼は斎藤美和の《心の力》に導かれてここまで来てしまったのだ。彼は彼女がトイレに入っている間に、彼女のスーツのポケットにお駄賃を三万円入れておいてやった。そして、別れ際に彼が「また会いたい。またやらせて」と頼むと、彼女はこういった。「あたしもあなたに何度も抱いてもらいたいけれど、そういうわけにはいかない。あなたとあたしといっしょにいると、二人ともきっと滅びる。《心の力》ってそういうものなのよ。あたしたちはこれきり。もう会いに来ないで、あたしのことは忘れてね」といった。そして、何日かして、斉藤美和から彼の会社宛に手紙が来た。文面にはこうあった。
愛しい人へ苦しい思いをしながらこれを書いています。愛したり愛されたりということが、ママにならないあたしやあなたですが、あたしがいま考えているのは、なぜもう少し早くあたしたちがあえなかったか、ということです。神様の書いた運命のシナリオを演じながら、あんな、入れられたまま三十回も連続していき続けるようなケダモノチックな愛ではない、あたしたちにだって別のもっと崇高な愛の形があったはずだと思うのはそればかりです。せめて、あたしが人妻でなく、あなたに奥さんがいなければ、もっと早くにお会いしていれば、こんなに苦しまずにすんだものをと思うのです。あなたを愛していますが、あたしの恋はかなわぬ恋、あの夜で終わりの恋と心に決めております。
斉藤美和の愛の手紙はつづいた。
それで、お手紙を差し上げましたのは、私たちの愛と性のことはともかく、お会いしたときにも少しお話しいたしましたが、人間には[心の力を持つもの]とそうでないものの二種類の人間がいる、そのことをもう一度、お伝えしておきたかったのです。あたしにも詳しくはわかりませんが、あたしはそう教えられました。だから、おまえは《力》、チカラは心のなかのエネルギーの塊なのですが、だからおまえは身体のなかのエネルギーの仕掛けが普通の人とは全然違うのだと教えられました。私がそのことを教えられたのは、男の人で、年上の…、あたしの父なのですが、何年か前に死にました。父はあたしに《その力》は血筋ではない、親から子に必ず伝わるというようなものではない。後天的に獲得できるものでもない。いわば、滅多に表に現れない遺伝的なもので、それもかくれつづけて最後まで表に現れないことが多いのだとのことでした。科学的なことでは説明が付かない、というふうにもいっていました。申し上げたとおり、一万人に一人とか、十万人に一人というような話のようです。特に、男の人は少ない。昔から憑依、いわれている「狐付き」とか「犬神しばり」というのは実際の精神異常の場合もあるんでしょうが、普通の人たちが《心の力》をおそれてそういったということもたびたびあったようです。この《心の力》は、一般にいわれている[気の力]のような形を取って、エネルギーを直接相手にぶつけて、窓ガラスを割ったり、思っている箇所に火をおこしたりというようなことができるようになることもあるみたいです。また、それを無法な力として密かに使うものもいると聞いています。ただ、あまりキャパシティに合わない使い方をすると、エンジンが壊れるように人格破壊が起こって廃人になるんだそうです。だから、いいことばかりではないということです。あたしの場合はその《力》というのは人の心が読めるとか、未来のことがなんとなくわかるとか、予知能力のような形を取って発達しているみたいです。自分の思いを遠く離れた人のところに送る、俗にいうテレパシーですが、そういう力もあるようです。こういう力は持っていても自分がそういう力の持ち主だということを知らずに死んでいく人もいる、最後まで自覚しないことがほとんどのようです。あたしにはどうすれば《その力》を鍛えられるのか、その力がその持ち主を本当に幸せにしてくれるものなのか、そのこともわかりません。これからあたしは、あなたが別れ際にあたしにくれた三万円のお金を元手に、日曜日に行われる競馬の勝ち馬の馬券を買ったり、あたりの宝くじを買ったり、これから値上がりする株を買ったりしながら、慎ましくひっそりと生活していこうと思っています。あたしの《力》はそういうことにしか役に立たないんです。目立たぬように地味に生きる、ただただ、それを自覚して己を律し、《力》が衰えないように鍛えつづける、それしかないというふうに思います。どうぞ、この先、小太郎さんもご自愛くださり、《心の力》を天賦のものとして生かしながら、幸せな人生を切り開いていってください。小太郎さんの活躍とお幸せを祈っています。そして、天国でお会いしたら、もう一度、わたしを抱いてください。美和
手紙にはそんな内容のことが書かれていた。果たしてこれが、美和の書いてきたとおり、本当のことなのか、それとも美和が仕掛けた、かなわぬ恋への絶望の果ての罠なのか、彼にはそれもわからなかった。けれども、彼はこの時から明確に《心の力》という言葉を具体的ななにかの[力]を指し示す用語として真剣に自覚し始めたのだ。そして、そこから徐々にそれまでの人生の勢いをはずしていったのは、述べたとおりである。それまで、彼にこの《心の力》のことを教えてくれたものはいなかった。美和からは[あなたは特殊な力を与えられた超能力者よ]といわれたような気がしてうれしかったが、それは同時に「おまえの才能は《心の力》のせいだといわれたような気もした。そして、彼にはそのことが自分を幸福にしてくれる力なのかどうかもわからなかった。その《力》は人間なら誰もが持っているような能力ではないはずであった。持っている人と持っていない人がいる、持っていてそれを自覚している人、自分がそういう力を持っていることに気付かずにいる人もいた。そういう、いわば選ばれたものだけが持つことのできる《力》だった。そして、そういう[特定の人間]のなかで、わずかな人間だけが自分が持っている力を自覚し、さらにそのなかの限られた人たちだけが、その力を使い、使いこなすことができる、そういう力だったのだ。それを斉藤美和は《心の力》と呼んだが、彼にはこの呼称自体も一般的な呼び方なのかそれとも彼女がそう呼んでいただけの単なるローカルな用語なのか、それさえも確かめる方法もなかった。ほかに呼びようがなく、彼も彼女と同じように《心の力》と呼ぶことにしたのだ。《心の力》はそういう力を持っていない、普通の人間たちの言葉で書くと、要するに、超能力ということだった。これは理屈と論理が組み合わさって出来上がった科学的なアプローチのなかで、そういう力を持っていない人たちの共通認識として作られていった言葉だった。しかし、《心の力》を持った人間たちがその力を人に説明しようとするときにも、この従来ある、それにまつわって作られた言葉を使って説明せざるを得なかった。《力》は二種類に分かれていた。それがテレキネシス《念力》とインスビレーション《予知能力》である。念力は外部に向かって物理的に働きかける力、インスビレーションは時間を作用軸にして未来に起こることを前もって察知してしまう能力である。そして、どうやら、斎藤美和に言わせると、さまざまの《力》があるが、どんな《心の力》の持ち主でも、偏った能力しかもっていない、例えば、斎藤美和には一時間後、二時間後に起こることが何かということを察知する能力と、遠く離れた同じような能力を持つ人に思いを伝える、その二つの能力しかない、ということだった。しかし、一時間先になにが起こるかが分かれば、株式相場や競馬の世界ではつねに勝者である。普通の人間でも個人差がある。それは《心の力》を持った人間でも同じなのだ。もう一度、普通の人間のところに落とし込んで説明すると、一般に人間には誰でも同じようにある程度、生きるためのエネルギーを作り出す機能が備わっている。しかし、その《力》の強弱はじつは心の強靭さや意志の強固さ、情の強さなど精神的なことに強く左右されている。そして、その《力》を突出した形で持っている者たちがいる。それが《心の力》を持った人間たちなのだ。彼らが普通の人たちにその《力》の存在を伝えようとすると、必ず、超能力とか、神などというそれをいっちゃあおしまい的な、論理だてて説明できない、宗教的なレベルでしか、つまり宗教的な言葉でしか語ることのできない、なにかになってしまう。実はこういうことはすべて、人にあらためていうようなことではなく、自分ひとりの意識の問題として誰にもいわず、自分一人で取り組んで胸の奥にしまっておかなければならない、そういう種類のことがらなのだ。そうしないと誤解される。《心の力》という言葉を知った時、まず彼が考えたのはそういうことだった。それから、人間が沢山集まっているところに自分の身を置いてみた。雑踏は見知らぬ他人同士がエネルギーをぶつけ合う場所である。人混みを長い時間歩いてみれば、どんなに鈍感な人でも、ある程度は人間の身体が発散する《力》を体感できるだろう。その時、心理的に意気揚々としているのであれば、後におびただしい疲労感がやってくるし、消沈した気分でいるときにはその場所からなにがしかのエネルギーを与えられて、元気が出てくる。そしてその場所は心を癒してくれる安らかな雑踏となる。要するにそういうことなのだとわかった。彼はそれまでこの世の中に超能力などというものは、実際には存在しないと考えていた。例えば、空飛ぶ円盤を見たとか、宇宙人がどうこうということで騒いでいる人たち、それに霊がどうしたこうしたという人たちがいる。そういう人たちを、あの人たちはどっかがおかしいのではないかと思っていた。こういう超常現象について、あるいは新興宗教や神がかったノリの売卜者、僧侶や牧師たちも含めてもいい。彼らが関わる、現実に存在する自然や社会を認識するための科学の体系からはみ出したところで存在する非・科学的な存在、彼らが自分勝手な世界観や歴史観のなかで恣意的に繰り上げた中心軸になるなにか、それの代表が《神》なのだと思う。[神]なんか、いるものかと思っていた。そもそも、宗教に身を捧げたやからが説くところの《全能の神》の存在は証明も必要なければ、非在の疑念も抱いてはならないというむちゃくちゃに無責任な話なのである。彼はずっと、そんな無茶苦茶な没義道な話があるものかと思っていた。世の中は[我思う、ゆえに我あり]で、すべては自分が唯物の世界をそれと認識するところから始まるのだと思っていた。それが自分が[心の力]というものを実感して以来、違うことを考えるようになった。日常的な認識のなかでは取らえきれない、意識を超えた闇の場にもう一つの別の秩序を保つ美しい世界があるのかもしれないと考えるようになった。その世界は《全能の神》によって司られていた。人々はその美しく優しい世界をなかなか思うことかできない。彼はそのことを思い浮かべる度ごとに、人間たちがいまはまだ自分の手で作り出した科学が幼くて、未発達なために、この神という存在を自分の意味の世界でどう位置付ければいいのか、現実のもう一つ向こうにある観念の世界をどう説明すればいいのか、それがよく分からず、途方に暮れているのを感じるのだ。これはドイツの心理学者ユングの提唱した[シンクロニシティ=共時性]にまつわる物語なのである。人間が認識できない世界に、何者かが作り出した、もう一つの秩序がある。あるいは無数の、意味の連鎖がある。幸運や不運、偶然や必然、それらのものは、現実の向こうにあるもう一つの秩序の中で作られる果実、産物なのだ。その幸運と不運を綾なす世界で、吉凶の結果を作り出す存在を神と呼ぶべきかどうかは彼にもわからなかったが、一つの問題は現実の世界で生きている人間が、そのもう一つ、超越した世界で起こっていることを現実の形として受け取ることができるか、という問題なのだった。この説明は後先になるが、これを高杉貞顕は日々の努力、一生懸命に生きようとする情熱しかない、と言ったのである。そして、高杉にいわせれば、神は死んだどころか、死んだのは人力や蒸気機関で動かす神様で、高度に産業化情報化した資本主義社会用の電子のエネルギーで動くデジタルな神様は生まれたばかりで現在も発育中で、まだ子供の段階にあるのである。そして、神のための科学というか、人間の現実世界の客観的把握へのアプローチの技術は、多分、すこしづつ進歩を続けていき、物理的なエネルギーとしての《心の力》、さらには20世紀末の人々が「気」と呼ぶ正体の分からないエネルギーの帰趨も含めていつか何世紀先のことか分からないが、人類はその体系の頂点に成人してリッパな大人になった《神》を中心に据えて、美しい秩序を持つ価値の順列を作り上げるのだろうと、夢想しているのだ。その時、人間はいまは説明できない、数々の未知や不可思議を神の説く論理によって解明し、楽園と呼んでも恥ずかしくないような新世界を構築してみせるのではないかという。高杉は人間社会の未来の形をそう予想したが、明智も高杉のこの考え方は正しいような気がした。そして、もう少し科学が発達して、認識論が進歩すれば、人間の心の中のさまざまのこともきちんと説明のできる完璧な人間認識の科学ができあがっていて、その科学の力を借りれば、不幸に生きるということのあり得ない、例えば、《幸福に生きて幸福に死ぬ》そういう人生のための完全な神学を作り上げているのではないかと思うのだ。人間の心のなかのさまざまの、いまの心理学や医学では説明できない動きや働きを、一括りにして超能力と呼ぶのは、粗雑すぎる。彼はそう考えていた。科学はいまもまだ発展途上にある。そして、もう少し科学が発達して、認識論が進歩すれば、人間の心の中のさまざまのこともきちんと説明のできる完璧な人間認識の科学ができあがっていて、その科学の力を借りれば、不幸に生きるということのあり得ない、例えば、《幸福に生きて幸福に死ぬ》そういう人生のための完全な神学を作り上げているのではないかと思うのだ。人間の心のなかのさまざまの、いまの心理学や医学では説明できない動きや働きを、一括りにして超能力と呼ぶのは、粗雑すぎる。このことを分かりにくくしているのは、超能力という言葉は存在しており、同時に概念としても、かなり胡散臭いものとして存在しているのに、現実に超能力は実体として言葉通りには存在できていない、そういう半端な状況のもとにあるからなのだ。テレパシーとか、テレキネシスとか、テレポーテーションとかいう《普通の人々》が想像力をたくましくして作り出した超能力的な概念が、現実に存在しているのかどうかどのくらい一般的なものなのか、彼にはわからない。ただ、母の臨終を看取った斉藤美和にはテレパスとかテレキネシスという能力は紛れもなく存在していた。彼女は心で念じることで彼を呼び出して、彼を《心の力》の世界へと導いた。彼がその時、存在していると信じていた《心の力》は超能力をイメージさせる荒唐無稽な漫画のようなものではなかった。高杉に会うまでは、そんな、自分が考えただけで物体が破壊されるような、思惟が物理学の法則を蹂躙するような運動形態はあり得ないと思っていた。しかし、──この話はあとでもう一度するが、高杉はそういう強烈な力の持ち主だった。人間の心と心の結びつきについては、いまの科学では説明しがたい数多のことが、現実に起きているのだ。そこでは、便宜的に呼ぶのでもいいから、超能力という言葉を仮説でもなんでもいいから範疇として設定した方が、はるかに全体が説明しやすくなることは間違いがなかった。逆にいえば、だからこそ、その言葉がなくならないのだ。彼がそういうふうに考えるのは、もちろん、自分の心の動きに時々だが、一種の超能力に近い、理屈では説明できない、ある種の《力》の存在を自身でも感じていたからなのだ。彼はその作業を[イメージをスキャンする]と呼んでいた。たとえば、自分一人だけで喫茶店などに入って、チラリと何か、オブジェクトを視認して、その後、目を閉じて網膜に焼き付いたイメージのなかに意識の触手を伸ばして、となりに座った人の心のなかを覗いたり、目に見えている肌の部分から身体の表面の形を意識でなぞっていったりすると、これが面白いように具体的な情報が自分の認識のなかに流れ込んでくるような気がしたのだ。そして、同時にもしかしてそれは、妄想かも知れないと思うこともあった。つまり、読心術である。また、読身術みたいな部分もあった。たとえば、彼が妄想の意識でスキャンして、そこにいる若い女がどんな色のパンティをはいているかとか、どんな形のブラジャーをつけているかとか、イメージを浮かび上がらせようとすると、ぼんやりとだが自分の心のスクリーンにそれらしきものが映し出せるような気がするのだ。彼も男相手にそういうことに熱中する趣味はないから、そういうことの対象は勢い、女性が多くなるのだが、女たちのそばでそれをやって目つきが変な変質者みたいに思われるのがいやなので、あまり頻繁にはやらないようにしていた。脳裏のスクリーンの映像は明瞭だったり、ぼんやりしていたりして、自分がどういう状態の時、映像の質がどうなのか、その相関関係が分からなかった。しかし、そのことをもっと端的にいってしまえば、ある一人の人間の衣服に覆い隠された部分の肉体の形、腹部とか陰部とか乳房とか、傍らにいる人間のある部分や心に意識を集中させて、自分の心の中の意識のスキャナーのスクリーンに何かを映し出そうとすると、ぼんやりとだが、しかし確実になにか影のようなものが投影されているように思えるのだった。それは、要するに着ている衣服を通して身体の輪郭、形態が透けて見えてしまうということだった。彼にも実際にはそれがただの錯覚かカン違いか妄想か、あるいは真実なのか、それが分からなかった。そういうことは、くり返して書くが、同性の男やおばあさんなどには、これはもう感情移入の絶対量の不足なのだと思うのだが、全然そういう気も起きないし、心にどんなイメージも浮かばなかった。そういう気になれて、もしかして、いまチラッとパンティが見えた気がする、などと思うのは、女、それもピチピチの若い娘やじっくりと成熟して掴むとジュースが出て来ちゃいそうな年増の女で、とりわけいい女、セックスアピールの量の多い人などで、そういう人を裸にして調べてみれば自分の透視能力が正しいかどうか分かるかも知れない。しかし、女たちのなかには敏感な人もいて、電車のなかで、彼の隣の座席が空いているとしても、若い女がその座席にすわりそうなふりをして近づいてきても、彼の顔を見て、彼のまなざしに気が付くのかどうなのか、その席に座らず、プイと向こうにいってしまうこともあった。これは、たぶん、ヨチ本能みたいなものが働いて、この人、変態かも知れないと察知しているのではないかと思う。しかし、現実問題としてはこの透視能力は全然実戦的ではなかった。例えばいまから二人でコトに及ぼうかというときなどに、女が彼の目の前でいまからスカートを脱ぐなどという話になると、それまで、絶対に白だと思っていたパンティの色を、急に、いやもしかしてベージュかも知れない、それとも花柄かも知れない、あるいはぐぐっと色っぽく黒かも知れないと、だんだんにわからなくなっていってしまうのだった。これが彼の限界だった。要するに、始末の悪いことにそれを俺が正しいはずだとか、俺は間違っているかも知れないなどと考えて心を揺らめかせ自信を喪失していくと、こういう予知の的中確立はどんどんさがっていってしまうのだった。ましてや、予言してそれが的中しているかどうかをその場で調べる、というようなことになったりしたら、まずあたらなかった。そして、これが自分一人だけの妄想のレベルから位相を変えて、誰か他の人と一緒にいて、その人に自分のそういう隠された能力を見せて、驚かせてやろうとか、超能力の持ち主だと人に証明して見せようなどと考えると、その力はまるで使いものにならなくなってしまった。だから、この《力》自体が彼の場合、コントロール不能で人見知りで恥ずかしがり屋なのだともいえた。さらに彼の場合、この正体不明の《力》は欲に目がくらむと心のなかから雲散してしまうのだった。つまり、この能力は換金もできない。これも能力としては致命的だった。少なくとも斎藤美和は競馬場に行くと、その日のレースのあたり馬券を百発九十七中くらいで的中させるのだ。彼も一時、俺に超能力があるとして、それを金儲けに使ったら大金持ちだなと思った。彼女のように競馬の馬券を買ったり、宝くじを買ったりするのに使えたら最高なのだ。もしうまくいったら、働かずにくっていけるかも知れないゾと、能力をなんとかお金に換える方法はないものだろうかと、あれこれ研究、知恵を絞ったが、うまくいかなかった。そういう力にああだといいなというような予測や夢が絡むと完全にだめになる。高杉から自分の持っている《心の力》を操るための要領を教わった。それで、そのつもりでやってみるのだが、全然うまくいかない。馬券で一儲けするのも、レースの寸前に可愛く何万円かつぎ込んで当たり馬券を予測するくらいだったら、三割、四割という、かなりの確率で的中したが、大金を儲けようと考えて、何十万とか何百万円、つぎ込むと全然ダメだった。当たったことがなかった。予測が使いものにならない。週末に、競馬場でささやかに生活費程度の金は稼げるようになった。そこでこのことは、誰にもいってはならぬ自分だけの秘密と心に決めた。そして、透視能力を高める訓練もやってみた。ヘレンが何色のパンティをはいて自分の前に現れるかというような、一人だけのきわめてプライベートなレベルで[女のパンティ・色あてクイズ]というのをやってみた。そうすると、これが百発百中だったのである。彼がヘレンの立ち姿をパッと見て、《アッ、これは黒いパンティはいてるな》と思うとヘレンは黒いパンティをはいていた。《オッ、今日はどうやら花柄ピンクだぞ》と感じると花柄ピンクだった。黒ベースに銀色菱形模様だと予想するとそのとおりだった。しかし、それだって、いままで二十三回連続で当たったに過ぎないし、偶然の一致ということだってあり得た。しかし、明智はこのことがあってから、気のせいかも知れないのだが、女たちの心の筋道のなかに入り込んでいく扉を見つけた、と思ったのである。それは口では説明しにくいし、その筋道を別に透視した色モノのパンティのそばで見つけたということではないのだが、自分の相手をいたわったり、ねぎらったりする優しい意思の触手をゆっくりと相手に向けて延ばしていくと、その先端に触れた相手の人間の心が安らぎや優しさに触れて打ちふるえているのを感じるのだ。そういう状態を心理学的に表現すると「なんだかこの人って、とってもステキな感じ。アタシをあげちゃいたい感じ」というようなことなのだが、そういう状態になると自分のエネルギーのチャンネルが女たちの心の繊細な部分にきっちりとつながった、そういうふうに感じるのだ。彼の場合、三度くり返すことになるが男や子供なんかには興味はなかったから、いきおい、そういうコトを感じるのは若い娘とか年増のいい女とかが多いのだったが、彼女たちはみんな、誰かが自分の世界へと尋ねてくるのを待ち続けており、自分の心の部屋の扉をたたいてくれるのを、待ち望んでいた。たまに、その部屋の戸をたたくと他の人が「入ってます」という返事をすることもあった。しかし、ほとんどの場合、それは当て馬というか、とりあえずの押さえみたいなもので、彼女たちの心のなかの一番奥の部屋は、新しく訪れる違う男のために用意されていたのだ。女たちを見つめる作業はちょっと微妙なところがあった。というのは、彼女たちの心のなかに入っていこうとするわけでもなく、ただあんまりじろじろと見つめてばかりいると、女たちはそういうことだけは妙にカンが良くて、アッ、この人ヘンなこと考えてると、すぐ感づかれてしまう。そういう時、彼はごまかして急いでそっぽを向いてそれから目をつむることにしていた。だから、つまりなのだが、彼のそういう力は、初めからただの妄想だったのかも知れないし、もしその力が彼の心のなかに存在しているとしても、それ単独で取り出せるような形では存在していないし、独自の範疇を与えて、概念として独立させることすら可能なのかどうか、わからない、そういうある種の傾向としてしかあり得ないのだった。彼の場合、そういう《心の力》が存在しているというよりは、その《力》を生み出すシステムが不安定な形で存在している。それだけのことなのではないか、と彼自身はそういうふうに自己分析していた。それは、みんな気付いていないが、ほとんどの人がそういう状態でいるのだ。気付くか気付かないかである。気付いて、しかも、それをうまく作動させることができなければ《力》は生じない。しかし、その装置の動かし方がはっきり分からない。相手にもよるし、時と場所にもよるのだが、うまくいったりいかなかったりする。彼にもコントロールできない。とても不安定なのだ。だから、ふだん、彼は自分のなかにメリハリとして心のなんらかのエネルギーの動きを感じても、それが現実の生活のなかで意味を持ちうるような具体的な《力》として存在しているなどというふうには考えないようにしていた。そしてもし、その《力》が他者に対して多少の効能を発揮できるのだとしたら、それらの力は結局は《優しさ》であったり、《いたわり》であったり《励まし》であったりすることしかできない。そう考えるようにしていた。彼にそういう力があるのだとすれば、つまりそれは、全体を癒し、安定させ、ほころびを繕い、完全なものを完全なままで維持させようとするような保守的な《力》だった。これから何かをしよう、【力】を作用させて、何かを変化させようなどという考えのためには、ほとんど意味を持たないような脆弱な、電動自転車のバッテリーのような補助的な《力》だった。そして、だからこそ特定のケースのなかでは極端に快い。要するに、彼は女に優しい男、それだけのことなのかも知れなかった。チャイニーズのヘレンは彼の持つそういう説明不能な《力》を《GOOD BIVRATION》といったのだろう。「快い波」とでも訳せばいいのだろうか。しかし、その《GOOD BIVRATION》は別に彼に経済的な余裕をもたらしてくれるわけではなかった。その力は具体的な内容もハッキリしない、利用法も効能も分からない。要するに、解読法の分からない古代の滅亡した民族が残した文字のようなものだった。せいぜい、自分自身の、過去の悲しい出来事から始まっている、人から見れば惨めな一人暮らしをそこそこに楽しいと感じさせ、たまたまその時、一緒にいる人間が不機嫌であれば、その自分の心に内在する《力》をもって相手の心をときほぐし、幸せな感情を作り出し、そしてそれを増幅させて、幸福を実感させようとする。使えるのは、せいぜいそんな用途だった。これらの動きもあるいは、自分で頭のなかでそう考えているだけで、すべてはまたしても妄想なのかも知れなかった。しかし、彼は自分では秘かに自分の心のなかには、いまの段階では科学的に説明することができない、客観的な形態として把握できないから、どう取り扱えばいいのかも分からない、説明できないので存在しないことにせざるをえない、なんらかの《力》がある、そしてその《力》が自分を生かすことがあるのだ、と考えていた。そして、その《力》の存在は人生の履歴の経験を積み上げるなかで、これはこう考えなければ説明が付かないというふうに、ぼんやりと分かってきた、それだけのことなのだった。ミキから「女には二種類あって、あたしは少数派。セックスのなかで冒険したがるタイプ」と少数派の話を女に限定した話として聞いた時、彼は斉藤美和にいわれたことを思い出したのだ。美和は「人間には二種類会って、《心の力》を持っている人とそうでない人がいる」といった。そのふたつの話の構造が同じだったのだ。だからたぶん、ミキはそのことをそういう[超能力話]としてではなく、現実に存在するリアルな状態として知っていて、自分の異常は突発的な個人的なものではなく、集団的、歴史的なものだという形で理解していたのだろう。ミキと暮らしはじめて、暫く日曜日は部屋に閉じこもって一日中裸のママでいて、ベッドの内外みさかいなくどこでもいつでも身体を交わすというようなただれた愛欲の日々がつづいた。そのころには、彼もじつはセックスというのは身体を通してエネルギーをやりとりするということなのだということに明確に気が付くようになっていた。しかし、さすがに一年たち、二年たつとそういう生活に少し飽きてきて、ミキの「いますぐここでしようよ」という提案にもブレーキが働くようになって、毎朝毎晩ということもなくなってきた。彼が忙しい、疲れているといって彼女の求めに応じないと、ミキは不満そうにかわいい口をとがらせて「つまんねえの」といった。彼には分からなかったが、ミキは遊びでもなんでもよく、相手を探したのだった。そんな矢先にこの事故が起きて死んだのだ。ミキに死なれたあと、横浜から出てどこか別の街で暮らした方がいいかも知れない、その方が新しい生活ができるかもしれないと思ったこともある。ミキのことを遠い過去の記憶として葬り去るには新しい町に引っ越す方がいいにきまっていた。格別に横浜を深く愛しているというわけでもない、故郷というわけでもない。ただ、面白がって人に節税になるからといわれて買った山手の投資用のマンションに結局、自分が住むことになった、それだけの話だったのだから。どこかに引っ越そうかと考えたがそのときは考えがまとまらなかった。横浜の町から出ていく自分をイメージできなかったのだ。そして、そのまま、身動きが取れなくなってしまった。彼はあの頃、自分が生きていた世界は、要するに自分が意識を張り巡らせて作り上げた円蓋状の屋根構造に支えられた、仕切られた空間のようなものだったのだと考えていた。彼はそこからなんとかして抜け出したいと考え、毎朝、目が醒める度ごとにそこからの遁走を試みる。しかし、どうやってあがいてもその《想像力》の外縁の意識に仕切られた障壁を突き破って、暗黒に周辺を縁取られた無意識の場所へと逃亡することはできなかった。そして、彼は、秘かに自分の生活をなにか巨大なドーム状の牢獄のような所に閉じこめられてしまった懲役囚のようだと思っていた。自分がいる場所は、いろいろなことがあって罰としてそこに閉じこめられることになった、そういう場所である。彼はそこからは、永久に出ることが出来ず、心が解き放たれることもまた、永遠にあり得ない。そして、こうしていつかその巨大なドームのなかのどこかで死んでいくのを待ち続けているのだった。そうであるのならば、ここが自分の生きて行くべき世界であるのならば、この場所の有り様をできうる限り詳細に知っておこうと彼は考えていた。そして、死の訪れるその日まで、きっちりと生きていよう、それが自分なりの覚悟だった。それから…、そうだ、その元気に死ぬ日のために体を鍛えておこう、というシャレのような気分で夜明けの町を走り続けるようになったのだ。しかし、彼はその思いつきをけっこう気に入っていた。この街に引っ越してきた最初の頃は、坂を登り切った公園のなかの森のあいだをぬって続く散歩道をコースに見立てて、何回もぐるぐると回り続けた。それがこの頃は全行程十キロほどの距離をとって、一日おきに時間にして一時間、街中のあちこちを走り回るようになった。そんなことをしているうちに、このあたりの細かな地理がだいたいどうなっているか、ほとんど頭のなかに入ってしまった。夜明けの朝もやの消えかかった街は、見慣れた街並みのはずなのだが、なんだか別の時間に見るのとは違う場所に見えた。例えば、夕方から夜更けにかけて、ネオン煌めき、華やかな彩りの明かりのなかを人々が行き来する石川町、関内、元町のあたりも、夜明けの五時六時の朝もや立ちこめるなかではよっぴて盛り場の汚れに晒されて化粧のはげそうになった女のようなたたずまいで、まあぞっとしない。また、港のあたりは人影がないと、妙に建物や港湾施設ばかりが目立って、なんだか核戦争が終わった後の、人類が全員滅亡してしまった無人の都市をひとり、誰か自分の他に生き残った人間に会いたくて、走り回っているような荒寥とした気分になった。たぶん、毎日、身体は少しずつ衰え続けていたのに違いなかった。そして、いずれどこかで、死が待ち受けている。自分なりのイメージではそれは、きっと有り金を使い果たして、住む家も手放した末の無残な野垂れ死にのような死のはずだった。それでも彼はできるだけこれまでの自分の身体の調子をこれからも維持したくって、健康のために毎日、夜明けの街を走りつづけた。横浜港、山下公園、海岸通り、横浜球場、中華街、伊勢佐木町、黄金町、桜木町駅、港未来21、そういうところを好き勝手にかけずり回ったあと、家に戻ってシャワーを浴びて、それから一日が始まるのだ。彼にはもう、自分が何かおいしいものを食べたいとか、最新流行の服を着たいとか、いい車に乗りたいとかいう、モノにからまる願望や欲求はとうの昔になくなってしまっていた。その意味では世捨て人の肩書きはふさわしかったのかも知れない。実際にそんな生活の細々したことに拘りだしたら、アッという間に彼は自分の金を使い果たしてしまうだろう。自分が住んでいる町のあらゆる場所に出没しないと気が済まない男というのもいるが、彼はそういうことはしないようにしている。すべての関係する取引先に関して、できるだけそことの関係を大切にするようにしている。まあわかりやすくいうと、いきつけの店を決めている、ということだ。
ラブホテル 本牧 ハミルトンホテル 403号室ご愛用
カラオケハウス 中華街 パイロン ヘレン嬢ご指名
すでにこの二つは文中に登場したが、このほかに御用達の行きつけの店リストは、
中華料理 麦田 奇珍 タケノコラーメンが絶品
中華街 興菜楼老正館 上海ネギそばがおすすめ 深夜営業
中華街 聘珍楼 ゴマ団子を買う店
喫茶 山手 銀猫亭 港が見える丘公園そば 加藤美穂の店
喫茶 元町 パザパ ランチがグー コーヒーも美味
日本そば 石川町 長寿庵 出前持ちのタッチャンと友達
食料品 本牧 ○○スーパー 自転車で買いに行く
中華食材店 中華街 喜満商店 茉梨花茶500グラム千円
バイト探し 石川町 野本不動産 口入れ屋、時々大口仕事あり
古本や 山手駅前 山田屋書店 時々エロ本など、購入
床屋 麦田 小林理髪店 千円、安い。おヤジが話し好き
クリーニング 千代崎クリーニング ほとんど出さない。
コンビニ 千代崎 7・11 知加子とセックスフレンド
医者 元町 細川内科 ほとんど行かない
文房具や 山手 中村文具店 北方小学校脇、コピー機利用
フランス料理 元町 霧笛楼 大体、安い方のAコースを頼む
一番最後にさりげなく付け加えておいたが、彼はフランス料理なんか、滅多に食べない。霧笛楼は昔、ミキがまだ生きていたころ、何度かいったことがあるだけで、最近は出入りしていない。しかし、何かあって来客を豪華にもてなすとか、いざ勝負しなきゃなんない、なんていう時は、Aコースワイングラス一杯付きで予算二人で1万7千円、ちょっと贅沢するとすぐ2万円越えるという、またBコース同じく2万5千円、うっかりすると3万円という出費は非常に痛いが、いざという時のお客様は霧笛楼に案内しようと思っている。 それで、ざっとこんなところが彼の横浜ライフの馴染みの店だった。いつも同じ店しかいかないなんてライフ・スタイルが保守的だといわれれば、それまでだが、それも彼としてはいまさらやっと作り替えて組み直した自分の世界を壊したくないのもあるのだ。それで、できるだけおなじ店で買い物して、可愛い若い娘とかと知り合いになって、つき合いを深めることも地域にすむ独身の住民の、自分の生活を楽しくする知恵なのである。それにまたこれも年をとったせいだろうが、現実の生活のなかで、何かを猛烈に欲しいと思ったり、夢見たりすることは、もうなくなってしまっている。ひとりだけで家に閉じこもって、昔の流行歌など聞きながら、穏やかに静まり返る自分の意識の湖のほとりで、ひっそりと暮らしたいといつも思っているのだ。ところがつらいことに、そんな彼の心に石を投げ込んで波風を立て、汚水を流し込むように心の平安をかき乱す女がいる。それが、別れた妻の麗子だった。麗子のことは一口では説明できなかった。それはいまでもそうだ。彼女のことを考えると、彼の心のなかにはとめどなく愛しさと憎たらしさのエネルギーが満ちてきて、よしあしにかかわりなく、甘ったるく感傷的な気分になり、心のなかの彼女の面影を抱きしめたくなるのだった。現実の彼女はたぶん、わたしがそんなことをすれば「もう、わずらわしいわね。やめてよ」というばかりだろう。しかし、彼にとって麗子はミキなきこの世のなか、何十年という恩讐を積み上げた[愛憎]というよりほかにいいようがない、彼女の隠し持つ苦い蜂蜜に、心がとろけそうになる女ナンバーワンの存在だった。しかし、彼はこうも考えていた。ああいう女とはできるだけ顔を合わせるのを避けて、目先の生活のささやかなで瑣末な幸福に一喜一憂しながらひっそりと暮らしていこう。たとえば、昔、メディアの世界のエリートだったころに生きていた世界からすれば侮蔑の対象でしかなかったような中国からやって来た、場合によっては売春だってOKの風俗嬢とだって気持ちが通い合えばうれしいじゃないか。最後は日ノ出町あたりの公園の片隅で、段ボールの家かなんかに住んでごみ捨て場をあさりながら、野垂れ死にすることになるのかも知れないが、それも自分の責任、そうなったらそれはそれでしょうがない。ならないように努力する。人生は努力、きっとなんとかなるだろう。結局、昔、夢見たような幸せな一生は送れなかったが、それはしょうがない。午前中、前日の続きの今日中に届ける予定でいるその英文資料の翻訳の仕上げをやっているうちに頭蓋骨の内側が熱を持ち始め、眠くなってきて、ベッドに戻って1時間ほど仮眠を取った。そして、ひと休みした後、目が覚めるともう正午、12時過ぎだった。昨日からワープロに打ち込んでいじくり回していた原稿を急いで仕上げてプリントアウトして、それを持って外出した。出かけようとすると、またしても雨が降り始めた。雨は気分を陰鬱にした。雨のなかをビニール傘をさしてバス停で、桜木町に行くバスを待ちながら思い出したのは、昨夜の別れた妻からの留守番電話だった。来月は七十万円のお金を麗子の所に送金しなければならない。雑文を書いた原稿料、英文資料の翻訳料、誰かの手紙の代筆、こういうものをかき集めると、それでも毎月二十〜三十万くらいの稼ぎにはなった。昔、自分がいた会社のかっての同僚や後輩たちに頼まれて新商品キャンペーンの企画書を書き上げる。これが採用になると、二十万、三十万のギャラが企画料の名目で口座に振り込まれた。これもなにを思いついても自分では少しも面白いと思えない、やっつけ仕事になってしまったのだが、けっこう金になった。自分一人だけ、犬といっしょに生きていくだけだったらそれでなんとかなった。しかし、何度も書いてきたように、それだけでは娘たちの養育費には足りない。それで、ばたばたと思いつく才覚でなにがしかのアブク銭稼ぎを繰り広げている。そして、いま、手元にある貯金を増やしたり減らしたりしながら、死ぬまでこの金額がゼロにならないように才覚を働かせながら、生きていかなければならないのだ。その死もいつ訪れるのかわからなかった。いや、明日明後日に死が訪れるのであれば、むしろ始末がよかった。彼の身体はきわめて健康だった。この先、何年も確実に生き延びるに違いなかった。このころ、彼は自分に死が訪れるのは、十年後かも知れないし、二十年後かも知れないと思っていた。単純に計算すると父親とおなじだけ生きるとしても、あの時点で二十五年、いま、この文章を書いている時点で十五年ある。彼のように途中で会社を辞めてしまって、社会保険も途中までしか払っていない人間にも年金というのはちゃんともらえるのだろうか。その年金というのは金額はどのくらいなのだろうと思っていた。(第三章 青い果実 につづく)
0コメント