第二章 八月二十七日午前五時十分 オリビアを聴きながら 翌日、八月二十七日は、午後、虎ノ門にある共同医学出版の藤井のところに、アメリカの医学雑誌の特集記事の翻訳原稿を届ける約束の日だった。金曜日、週末である。明智小太郎は明け方、目が覚めた。時計を見ると午前五時十分過ぎである。前夜から間歇的にふったりやんだりしていた雨はもうやんでいるようだった。空には重苦しい、いやな黒い雲がたちこめていて、いまにもまた、降りだしそうな空模様だった。前日寝たのが、十二時を回っていたのだから、五時間くらいしか眠っていないことになる。午前五時というと、若い頃は夜更かしに疲れて、いつも眠りにつく時間だった。それがいつの間にか昼夜が逆転して、毎朝、その時間に目が醒めるようになってしまった。三十年間かけて、生活時間を逆転させた。前の晩、何時に寝ても朝五時ごろにいったん目が覚める。身体が年老いた証拠のひとつなのだが、夜の眠りも浅く、眠る時間自体も短くなった。眠りは人間の身体の細胞の増殖や新陳代謝のスピードに関係しているという。人間の身体は運動したり、生活したりして動き回るとその分、体内に貯えられていたグリコーゲンと呼ばれているエネルギー源を消費して、疲労し、あとに乳酸、いわばカロリーの燃えかすを細胞のなかに残すのだ。身体が疲労した状態というのはこの乳酸が細胞のなかにいっぱいに蓄積された状態である。この乳酸を血液のなかに含まれるヘモグロビンが拾い集めて、血管のなかを肝臓に運ぶ。そして腎臓で濾過され老廃物になって水分といっしょに排泄される。つまりこれがオシッコである。そして、このプロセスが疲労回復なのである。肉体の年齢が若いうちは生命力も旺盛で体力もあるから、疲労の回復も新陳代謝のスピードも細胞増殖のスピードもすばやく、したがって乳酸の分泌も盛んで、疲労も深いということになる。だから、若いヤツの眠りはいぎたないのだ。しかし、若い肉体の疲労は、深く眠ればすぐに元の状態に戻ることができる効率の高い新陳代謝機能も持ち合わせている。それが、肉体が若いということの本当の意味なのだ。彼の身体はこの頃からもう、深く眠るということもなくなってしまっていた。しかし、それは年老いて細胞分裂のスピードが遅くなったということだけが原因なのではなかった。浅い眠りは様々の夢をくり返し、見せてくれた。眠りのなかの夢の時間でしか会えなくなってしまった人たちもいるのだ。そんな夢のなかでしか会えない人たちに出会うと、彼はいつも途中で目覚めて心が張り裂けそうになる。そして、もう一度だけ会いたいもう一度だけ会いたいと思ったり、助けてあげたかった、助けてあげたかったと、何度も繰り返して心のなかで繰り返しいいつづけたりしながら、わけの分からない哀しみに心を満たされて目を覚ます。だから、年老いた人間にとっては必ずしも眠りが安息であるとは限らない。少なくとも、彼にとってはそうだった。明智が、若かった自分の身体が年をとり始めた、そのことを一番最初に痛切に感じさせられたのは、三十五、六歳のときだった。若いころ、さしたるスポーツもやっていなかったのだが、登山やワンダーフォーゲルが好きで、けっこう頑丈で足腰は相当に丈夫な方だった。それが、あるときから業界のパーティーとかに呼ばれて、立席で三十分も立ち詰めていると、身体が二つに剥がれるような疲労感を感じるようになったのだ。そして、自分でも均衡のとれたいい体だと思えた、若いころに作った身体の形がその年齢あたりで崩れ始めた。あわててジムに通ってウェイトトレーニングをしたりして、身体の管理をするようになった。それ以来、早朝にジョギングする習慣が出来たのだった。だから、この時点でもう、十六年間も朝方の街を走り続けていたことになる。習性のようになっていたので、だいたい一日置きなのだが、一定の間隔で走らないと身体のなかの水分があまって、足が浮腫んだような感じがする。なんとなく身体の調子が悪いような気がしてくるのだ。昔は、身体は心を仕舞っておく入れ物だと考えていた。美しい体のなかにこそ美しい心が宿るというわけだ。それを年とってからは逆に、心の方が年老い、滅びようとしている身体を入れておく容器なのだ、というふうに考え始めた。長い時代を生きながらえて、汚れや傷を刻み込んで衰えた肉体であればこそ、廃れ、あれ果てた心に帰属してふさわしい。若かったころは元気に会社に行って、元気に働くために自分の体を鍛えるのだというふうに考えた。そのデンでいけば、もうずっと前に会社も辞めてしまったし、決まった仕事もあるわけではなかったから、走る必要もなかったのだが、一度身に着いた習性というのは恐ろしく朝になると身体が勝手に動き出した。章の冒頭で書いたように、朝五時ごろ目が覚める。そして、習慣なのだが、朝起きるといつもまず、有線放送の聴けるラジオのスイッチを入れる。すると、そこからいつも、なにか音楽が流れ出す。彼がいつも気に入って聴いているのは、古い流行歌ばかりをフィーチャーしてながしつづけるチャンネルだった。このとき、ラジオから流れて来た歌は『オリビアを聴きながら』だった。 ♪お気に入りの唄 一人聴いてみるの オリビアは淋しい心、なぐさめてくれるから ジャスミンティーは 眠り誘う薬 私らしく一日を 終えたいこんな夜 ♪ 出会った頃は こんな日が来るとは 思わずにいた Making good things better ♪いいえ すんだこと 時を重ねただけ 疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの♪ ♪眠れぬ夜は星を数えてみる 光りの糸をたどれば うかぶあなたの顔♪ 誕生日にはカトレアを忘れない 優しい人だったみたい だけどおしまい ♪夜更けの電話 あなたでしょ 話すことなど何もない♪ Making good things better ♪愛は消えたのよ 二度とかけてこないで 疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの♪ この歌は昭和五十三年のヒット曲だ。歌ったのは杏里。この年、武智小太郎は三十歳、妻の麗子はまだ二十六歳だった。結婚して四年、早生まれの次女の摩耶が生まれた年である。杏里とはデビューしたばかりの頃、一度、出会ったことがあった。あのころ、彼女はまだたしか十六歳か七歳だった。まだ子供だったからだろうが、キュートでかわいいオシャレな雰囲気はあったが、場慣れのしないオドオドした女の子だったと記憶している。たしかデビューした時の所属事務所だったボンド企画の安原が連れてきたのだったと思う。本名が川島栄子というまったく地味な名前だったから《川島栄子がどうして杏里なんだよ》と思ってよけいに鮮明に覚えているのだ。両親は在日朝鮮人で彼女もたしか横浜出身だったのではないかと思う。この歌の[オリビア]というのは、当時オーストラリアからものすごい勢いで世界市場に売り出してきたオリビア・ニュートン・ジョンのことだった。この歌はその頃、人気絶頂のシンガー・ソング・ライターの一人だった尾崎亜美の作詞作曲になる作品だったと記憶している。『オリビアを聴きながら』はいい歌だったが、残念ながら大ヒットにはならなかった。せいぜいオリコンのヒットチャートの何十位かまでたどり着けただけだった。しかし、まだメジャーになったと書くことはできなかったが、このスマッシュヒットの業界内反応は大きく、杏里はこの歌のおかげで地味にだが、なんとかこのあと歌手をつづけていくための地歩を固めることができたのだった。彼女はその後、ハワイやニューヨークへのあこがれを歌ったり、サーファーの世界の恋愛をテーマにしたりという内容のスローバラードっぽい歌をうたいながら、あの頃の雑誌でいえば『ポパイ』や『ファイン』の世界、生活感の希薄な、清潔で慎ましい若者の世界、松任谷由実とはまた一味違うノリで高度経済成長の爛熟期の若者たちの消費の夢を描きつづけたのだった。何年かしてテレビアニメ『キャッツアイ』の主題歌を歌って、それがブレイクして、そのあと、『悲しみがとまらない』という歌を連続ヒットさせて、メジャーな歌手としてテレビのベストテン番組に顔を出すようになった。八十年代の杏里の歌は、松任谷由実の歌の世界よりももっと過激にリアリティが希薄で、西麻布の街角のオープンカフェや代官山の白いビニールクロスの壁紙を貼ったマンションの空間がよく似合った。その杏里もいつの間にかもう、ほとんどテレビに出てこなくなってしまった。けれどもあの『オリビアを聴きながら』をあらためてこうやって聞き直してみると、この歌はまことに二十世紀末の幻を描き出した近未来SFのような歌だったと思う。たしかに、尾崎亜美の予言は当たっていたのかも知れない。まったく、愛の幻を見ていた、それだけのことだったのかも知れない。歌を聴いて、コーヒーを飲んでいるうちに目が覚めてくる。用便をたし、それから、トレーニングウェアに着替えてジョギングに出る。どんよりと曇った空だった。引きはじめた朝もやのなかをゆっくりと走り本牧通りに出て、これを右に曲がり、しばらくするとトンネルをくぐり、元町に出た。このコースを通って横浜球場の方に向かうと、帰りは海側を回って外人墓地の脇を駆け上がって公園を抜けて帰ってくる形になる。空を見上げると重苦しく雲が何重にもかさなって立ちこめ、この日もまた、いつから雨が降り出すか分からない、そんな天気だった。また、と書いたのは前日までずっと雨が降り続いていたからだ。中華街の脇を抜けて、横浜球場の南側を通り、それから右折して港に出る。港の端までいってそこからUターンして戻り、途中から右折して根岸線の高架のところまできて、そこからガードに沿って横浜球場の角を通り抜ける。やがてその場所にさしかかる。そこに来ると彼の心はいつもふるえるように痛んだ。ちょうど六年前、一九九三年の八月にこの場所でミキが死んだからだ。交通事故だった。あのときから─、麗子と別れたあと、二年間をいっしょに暮らしたミキが、首都高速羽横線の横浜球場出口付近で運転していた車をトラックに接触させ、はじき飛ばされて道路壁に衝突して死んでから既に六年が経過していた。あれは真夜中、もう十二時をまわった時刻だった。眠くなりはじめたところを警察からの電話連絡で起こされ、急いでタクシーで駆けつけた彼が見せつけられたのは凄惨な事故現場だった。ぐちゃぐちゃに潰されてしまったミキの愛車だった2シーターのスポーツカー、そしてそのあと、パトカーで連れていかれた病院の緊急処置室で、息を引き取った直後の無惨な、傷だらけで汚れて壊れた人形のような彼女の亡骸と対面した。車には同乗者があり、髪の長い若い男だった。その男も即死だった。首が後ろにねじ曲がって死んでいたという。衝突した時の衝撃の物凄さが想像できた。同乗者の亡骸も彼女の隣に安置されていた。確認してくれといわれてちょっと見たが、彼の知らない男だった。あとでわかったことだが、伊勢佐木町の裏通りにあるホストクラブの人気者だったのだという。男の遺体も顔が判別できないくらいにひどく損傷していた。ミキに死なれたあと、彼は、眠りにつくと何度も夢のなかでミキのオープン・カーがトラックに接触して弾き飛ばされるように横転する場面を見たが、その夢の終わりにいつも、自分の両手を血にまみれさせて道路の端に呆然と立ち尽くし、立ち尽くしたままただただ慟哭している自分がいるのだった。それが何時もくり返してみた夢だった。ミキの死に自分がどれくらい責任があるのか、いまとなってはわからない。おそらく彼は彼女の死の最大の被害者に違いないのだが、彼女はいずれにしてもそうやって死んだのだった。ミキの車と接触したトラックの運転手の話によれば、東京の方から自分の車に併走するように走ってきたミキの車が、横浜の出口近くに来ているというのに右車線に出て加速し、突っ走って勢いよくトラックを抜いてから回り込んだように路線変更して左の車線に戻って出口車線に移動しようとした。そしてそこで、急にハンドルを切り損なったようにふらついて、自分からトラックに吸い込まれるようにして接近してきて接触し一瞬のうちにはじけ飛んだのだという。警察の話では、事故はミキの飲酒運転、よそ見運転が原因だった。周りの人間はみんな知っていることだったが、ミキの両親は娘がそういうふうにわたしのような二十歳も年の違う中年の男といっしょに暮らしていたのを心中、苦々しく思っていた。しかもそれが、いっしょに暮らしていた男ではない、風俗産業の世界の男といっしょに死んだのだ。病院で明智は、駆けつけたミキの両親とはち合わせしたが、父親に「アンタが娘を狂わせたんだ。ミキはアタシたちが葬式を出します。あんたには葬式に来て欲しくない」といわれた。書いたように明智とミキの生活は内縁関係だった色々な経緯があってミキは実家と親子の縁を切るような形になっていたのだが、父親からそういわれたらもう自分が表に立って葬式を仕切るというわけにもいかなかった。遺体も結局、彼のところには戻ってこなかった。ミキの遺体は、浅草の両親の家にもどされ、浅草のはずれの小さな寺で葬儀が執りおこなわれた。彼は参列者の端に座っていただけだった。葬儀の式場で焼き場までついていこうとしてミキの父親になぐられた。ミキが死んで、葬式が終わり、何日間か彼はほとんど部屋から出ず会社にもいかず、しばらくマンションに閉じこもって自分も死んだようになって暮らした。そこへ一人の訪問客があった。男は神奈川県警の横浜署の桜井と名乗った。その桜井という刑事から彼は意外なことを聞かされたのである。桜井はいった。「奥さん、相当お酒を飲んでいたみたいですね。血液検査で、かなりのアルコールが検出されたようです。それと、非常にいいにくいことなのですが…」心中とか殺人事件とかそういうことはないだろう、ただの飲酒運転の事故だろうが、どうして裸同然の格好で運転していたんでしょうねと刑事はいいにくそうに彼にいった。「お知らせしなきゃいけないようなことじゃないかもしれないんですが…」桜井はそこで口ごもって、一息ついた。「彼女は下着をはいていなかった。ブラジャーもしてませんでした。前がチャックで開くようになっているミニスカートのワンピースを着ていた。それだけでした。車で走りながらなにをしようとしていたのか分かりませんが、彼女のパンティとストッキングは同乗していた男のズボンのポケットにありました」。彼がミキの事故死した遺体と対面したのは、病院の緊急手術室だった。白布に覆われた彼女の遺体はすでに全裸の状態だった。そのとき、彼は病院の人たちが傷の手当てをするために彼女を全裸にしたのだろうと思った。しかし、そうではなかった。その全裸は事故にあって、医者がオペをしやすくするために衣服を脱がせたとか、そういう話ではなかったのだ。刑事は隠してもしょうがないのでといいながら「男のポケットにはほかに赤坂のPホテルのレシートとか、最新型、ラテックスのコンドームとかがいっしょに入っていました」と付けくわえた。赤坂のPホテルは昔、彼とミキが不倫関係だったころに、始終逢い引きに使っていたホテルのひとつだった。いまはもう取壊されてしまったが、新館は建築界の鬼才といわれた丹下健三の設計した、白亜の美麗な建物だった。あの日、ミキは昼過ぎに品川のパークホテルのロビーで昔の古い友達と会う約束があるといって出かけたはずだった。彼が家を出たのはミキが出かける前、十一時ころなのだが、彼女はこの日のスケジュールを少なくとも彼にはそういっていた。下着のこととかホテルのレシートのことは警察の調べだから、本当も嘘もないのだろう。身体にまとっていたのは前にチャックの付いた、すぐ脱げるようになっているワンピースのミニスカート一枚だったという。たしかに彼女はあの日、その黒革で前チャックのワンピースのミニスカートで出かけた。そういう、黒いレザーのミニスカートを一枚持っていた。そのワンピースだけしか着ていなかった、ということは、裸同然だった、要するに裸だったということである。彼女ならそれはあり得た。わかっている限りの話をつなぎ合わせて、そのまま考えれば、要するにミキは赤坂のホテルでその男と会い、酒を飲みながら食事をし、それから部屋をとって(たぶん)セックスした。そして、ホストクラブの開く時間に合わせて、助手席に男を乗せて隣に乗せたその男に身体をいろいろに弄られながら横浜に戻ってきた。高速道路の出口で酒が効いてきて酔いが回り、ハンドルを切りそこなって交通事故を起こして死んだ。状況証拠をかき集めて、想像がつくのはだいたいそういうことである。ミキはその時、下着をはいていなかった、男といっしょだった。この二つの事実が彼を打ちのめした。彼が明け方の横浜の街を走り回りながら、その最中に考えることのほとんどが過去の細かな経緯の襞のなかに入っていくような作業だった。そして、まだ仄暗い夜明けの街を走り、この場所に差しかかるたびに考えるのは、ミキはなぜあんなふうにして死ななければならせなかったのかということだった。彼はミキの死は本当は自殺で、その原因は自分にある、と思っていた。あのときああしていたら、俺の人生はどうなっていただろう、あのとき、ああしていなかったらどうなっていただろうという思いだった。彼は人生をやり直したいとばかり考えていたわけではなかったが、ここが敗北の地平であるのならば、それはそれなりに覚悟を決めて、そういう自分に可能な人生を生きねばならぬ。そう思っていた。それにしても、オレの人生はいったいどこでチャンネルを切り間違えてこういうことになってしまったのだろうか。結婚し、子供が出来、子供を育てているうちに愛人が出来、妻が子供を連れて家を出ていった。それから、愛人との暮らしを始め、その女に死なれた。ミキと初めて恋に落ちたころ、彼らは会えば必ず身体を交えた。彼がミキにのめり込んでいった最大の原因は、それまで彼女のようにそういうことにそんなに積極的な女に会ったことがなかったことにあった。妻の麗子のことを書くと、彼女は気高く美しく貞淑で従順な人妻だった。自分の妻を人妻と書くのも変だが、人妻と書くより、人間の女と書いた方がいいかもしれない。だから、性についても彼が望めばなんでもやった。しかし、SとかMという言葉があるが、麗子はいつも受け身だった。あなたが望むならわたしは従う、彼女にはどうしてもそういう人間的な感じがつきまとった。麗子は獣になってもプライドの高い女だった。ミキはそれとはまったく違っていた。人生のなかで一番大切なものはその時に好きな男と身体を合わせて生きていることを実感すること、彼女は本気でそういうふうに考えていた。密会してホテルの部屋に閉じこもっているときもそうだったが、いっしょに暮らし始めると、彼女は家のなかではいつも全裸で下着をはくのもいやがった。彼も最初、そういう生活を楽しいと思った。彼女は「女にはあたしのような性欲の強い女と普通の女と2種類の女がいるのよ。それは正確にいうと、性欲ではなくて生きたいという欲望なのよ。生への欲動っていってもいい。あたしたちは少数派、性欲の強弱は育ちや環境のせいじゃない、そういうこととは関係ない、生まれ持ったものだと思うの。本当はあたしたちのような女がいるということを普通の女たちに知られないようにして生きていかなくちゃいけない。そうじゃないと、あたしたちは魔女とか、憑きもの付きとか精神異常者とかいわれて社会的に抹殺されてしまうから。だけど、あたしはなかなかそうできない。わがままに育っちゃったから強い欲望を我慢できないタイプなのよ」と自分のことを説明した。この説明は彼を非常に驚かせた。あとで気付いたことだが、この説明は母の死後に、その死を看取り母の死の間際の伝言を彼に伝えてくれた看護士の女性がいった「心の力を持つ女と心の力を持つ男、そして、そういう力に全く関係のない人たち、三種類の人間がいるのよ」というセリフととてもよく似ていた。ミキとつきあい始めたころ、彼が「いままで何人の男を知っているんだ」と聞くと、彼女は暫く反応せず知らん顔をしてなにもいわずにいたが、彼が抱き寄せてキスし耳たぶをかじりながら、耳元で「正直にいえ」というと、感に堪えたような声で「十三人」と答えた。彼らが愛人の関係になったのは、一九八六年のことで、そのとき、彼女はまだ十九歳だった。ミキに「オレも前に《あなたの心は特別な力を持っている》といわれたことがある」というと、彼女は「そうでしょ、そうだと思ったわ。だってカラダをこうしたときにすぐわかったもの」といった。彼に初めてその力のことを告げた女は一夜だけのちぎりのあと「私たちの愛はこのままでいるといずれ不幸を招くわ、[心の力]がそうさせるのよ。だからあたしはあなたをもう愛さない。あたしたちはこれきりにしましょう」といったが彼はミキに、前に具体的にそういう経験をしていたということはいわなかった。《心の力》ということについていうと、彼が一番最初に人間の身体というのは実はエネルギーの発射装置でもあるのだということに気がついたのは、これも肉親の死に関わりがあるのだが、ちょうど三十六歳だから、一九八三(昭和五十八)年のことだった。会社で課長に昇格し、自分の名前の付いた製作チームを作ってもらったころだったろうか。ミキと知り合う三年前になるわけだが、ちょうど、母親が末期の胃ガンだということを医者から宣告された時のことだった。どういうわけなのか、彼はその周辺の事実関係を妙にリアルに脳裡に焼き込んで克明に憶えている。彼は、それまで例えば、女にふられるとか、女房に浮気がばれるとか、スポンサーがどうしてもウンといわないとか、それなりに苦労はあったが、人生の基本の調子は右肩あがりのJカーブで順風満帆、父親としても二人の子供の誕生に立ち会い、人間の死など、残りの他の問題と同じようにどこかベトナムとかカンボジアとかたまにすれ違う霊柩車のなかとか、遠い別世界の出来事だと考えていた。そのときまで、母親は彼にとっては最愛の女のひとりだったのだ。だから突然の母の死の宣告はもちろん初めての経験で、絶望の冷蔵庫に閉じこめられるようなショッキングな体験だった。それは別れて暮らしていた父親からの電話で始まった。一九八二(昭和五十七)年の七月の終わり、二十七日のことだった。朝、突然に電話してきた父親が絶望的な口調で「発見が遅すぎたそうだ。あと1年もたないっていわれた。胃ガンでな、第4期に入ってるそうだ。まったくバカ女が、いくら病院で見てもらえっていっても意地を張って医者のところにいかないからこういうことになったのだ」電話口でそういって、母に直接ぶつけることのできない憤懣を息子にぶちまけた。そういうふうに告げられたときの彼の無念さをどう説明すればいいだろうか。家族が死ぬというのは初めての経験だった。この時、たしか父は六十八歳、母は六十三歳だったと思う。母親は自分の年老いていく身体をたとえ医者といえども他人の目に晒すのを嫌がり、異変に気付いていながら、一日延ばしに医者にいかずに放置していたのだ。彼は、父親にその事を告げられた瞬間から自分の気持ちがフリーズしてしまい、心理状態が「萎縮モード」「沈殿モード」に切り替わってしまった。食べ物はノドを通らず、眠りも浅く、ただ無性にやりきれなかった。真夏の七月の終わりなのに身体が熱を失って小刻みなふるえが止まらず、無性に寒くて仕方がなかった。そういう状態に落ち込んで、人間が絶望するというのはこういう気分をいうのだろうかなどと他人事のようなことをぼんやりと考えながら、数日間を過ごした。この時期、もちろんまだ、彼は麗子たちと暮らしていたのだが、父から電話があった日、子供たちの夏休みの夏期講習が終わって麗子は娘たちを連れて、鎌倉山の実家に戻っていたところだった。そういう偶然もあって、妻や娘たちに自分が取り乱して放心状態でいるところを見られずにすんだ。そして、母の死の直前までその宿業の病名は父と彼以外の人間に知られずに進行したのだ。人間の発散するエネルギーのことを考えるとき、彼がいつも思い出すのはこの、父親に秘密を打ち明けられて、自分が打ちひしがれて苦しみの極みに追いつめられて過ごした日々のことだ。このとき、父親からそのことを告げられて、それでもその日、ちょうど作りかけていた日本航空のパリ旅行のパンフレットのデザインの打ち合わせがあり、青山三丁目のベルコモンズの入口にあった紅茶のうまい喫茶店『ル・ジャルダン』で、コピーライターの瀬川慶子と待ち合わせたのだ。最寄りの駅からいつも通勤に利用していた地下鉄に乗って都心に出た。その喫茶店での瀬川慶子との打ち合わせでも、間欠的に身体に震えがきて紅茶のカップがちゃんともてなかった。そして、慶子から「アケチさん、今日、なんかヘン」といわれた。彼はそのとき初めて、打ちのめされた心境のなかで周囲の見知らぬ他人、街を歩いている人間たち、駅のホームですれ違う人たちや肩がぶつかるほどの人混みのなかの群衆、喫茶店の片隅に坐って背中をこちらに向けて話し込んでいる人たち、向かい合わせて座った瀬川慶子を眺めて、それらの人々がその時のふるまい仕草、あるいは言葉などの、視覚的聴覚的な要素とはまったく別の茫漠としたエネルギーのようなものを放射しているのを、具体的に直裁的に知った。それは、それまで彼がまったく気が付かずにいたことだった。そして、これもその時初めて知ったのだが、その夢中で自分のやるべきことに没頭して、意識を集中させている人たちが、その意識の波動をなにか認識の対象物を認知するたびに、それはつまり言葉にすると、視線(まなざし)として存在しているのだが、個人差はあるが、その人の発するエネルギーの束がその対象に対して繰り返し浴びせかけられる、そういう有り様を見たと思ったのである。この時、彼がそういう人間たちがエネルギーをやりとりする状況をなぜそういう形で、認識することができたのかといえば、思えばそれはもう、愛する人間の予定された死の告知という衝撃的な体験によって、自分自身のエネルギーの放射がゼロの状態でいるよりしょうがないような、マイナスの状況に立ち至っていたからだろう。別の言い方をすれば、精神的に一瞬のうちに打ちのめされることによって、瞬間的にエア・ポケットのようなところに落ち込んで、なおかつ、そこがどこで自分がどういう場所にいるのかという状況認識の機能だけは逆に研ぎ澄まされたように鋭敏になった、心がねじれたままのそういうナイーブな状態でいたからなのである。このときの彼の場合、自分の周囲にそういう出来事があって、臨時瞬間的にそういう一種のトランス状態に立ち至ったのだった。この力を本当の《心の力》として持っている人たちというのは、別に親が死ぬとか、何かが起きたというような異常な出来事に関係なしに、自分の精神をそういう状態に立ち至らせることができる人たちなのだろう。それが技術的なものなのか、なんらかの方法で修練すれば後天的に取得できる類の技術なのか、彼はそれらのことを一切知らない。そして、これもそのときに知ったのだが、その直線的に対象を認識しようとする視線のような、目や顔そのものから発散される放射線状のエネルギーの他に、人間の肉体そのものがちょうど微弱な電球が発光しているように肉体そのものを光源として、生体そのもののごく周縁にそれこそコケが生えるようにボーっとしたエネルギーを発しつづけているのも知った。それは普通にわたしたちの世界で遣われていることばを使っていえば、《オーラ》、つまり《原初的な形態の人間の精神の放射する外的な力》だった。それは、生命そのものが発散するエネルギーとでもいえばいいのだろうか。あとでいろいろと関連の本などを読み漁って自分なりにたどり着いた結論なのだが、多分、その人間の身体を構成する何億何十億という細胞のひとつひとつが盛んにカロリーを燃焼させながら、人によっては「気」と呼ぶエネルギーを放射し同時に熱を発していたのである。人間はひとつひとつの微少な細胞がその発する熱によって、独特の暖かな熱の圏をもっている。体温三十六度五分などといういい方があるが、それはそういうオーラを発する生体の状態を西洋医学的に定量化して表現したものなのだ。この経験は彼にいくつかのことを教えた。ひとつは人間は常にエネルギーを発し、同時に他者のそれを受け取りながら生きている存在であるということ。もう一つはそのエネルギーの放射や発散は個体的なモノで、その人間のその時の状態によって変化するということだった。そして、さらにわかったのは、人間は精神的なことを原因にするある一定の特殊な状況で、視覚や聴覚、などの感覚を越えたところで人間が日常的に放射している《心の力》を認識できるということだった。精神的なことを原因にするということは、要するに、現実が困難な状況に陥ったことの細かいギリギリのところで生きているとき、という意味である。それはこの場合、母親がこういう形で死んでいかなければならないという理不尽な事実を知らされた、ということである。ほかにどういうことが起こればこの状態にはいっていくのか、彼には正確には分からなかった。しかし、彼自身も日常的に自分勝手に自分だけのルールを作って、エネルギーを放射してオーラを発散させ続けているのだということ、まず、そのことを初めて知った。それから、彼は人間たちをそういう見方で見るようになり、自分も同じようにエネルギーの多寡のなかで均衡をとりながら生きているのだとしたら、その動きをたとえば手のひらや指先、あるいは眼差しを使ったりしてコントロールできないものかと考えたりしはじめたのだった。母親はそのとき、まだ六十三歳で本当なら死ぬような年齢ではなかった。だから、最初のうちは自分がまさか、もう余命のあまりない状態だとは思わず、彼が病室を見舞うと「あたしのお見舞いなんかいいから、頑張ってちゃんと働かなくちゃだめよ」などという親らしいお説教をたれたりしていた。彼女の病状が徐々に変化していって、彼が母の死を実感として受け止め、人間の死と生というものについて新しく気付いた形で認識し始めると、彼の精神はかわり始めた。それまで、調子が良く、勢いが良くて、快活だったもののいい方とか仕草、それから人生についての考え方まで変化していった。全てが重く、緩慢で憂鬱なノリになっていった。それまで、彼の周りでは家族どころか親しい人が生きたり死んだりということもなかった。また、受験勉強や就職活動などでも大きな挫折というのを経験したことはなかった。人生すべて順風満帆でここまで来ていたから、よけいに[母の死]という事実が厳然として心に重くのしかかったのである。そういうふうになっていって、母親を病室に訪ねると「コタロー、なんかやつれたみたいだけれど、イヤなことでもあったの?なんか疲れている感じね。あんまり根を詰めて働いちゃだめよ」と妙な具合にいつもと逆の説教をされた。人間の身体が発する茫洋としたエネルギー、その力を最初、彼は、個人差はあるが誰でも持っているものだと考えていた。母親の死が間近に迫りはじめた頃、彼が見舞いにいくと、母は息子の顔を見てなにかいいたそうにしたが、結局なにもいわなかった。いま思えば、まわりに人が沢山いたからだったのかもしれない。そしてある時、病室を見舞って、母親に「ホントによくしてくれるのよ」といって、わざわざ引き合わされたのが、この病棟の看護婦の一人、斉藤美和だった。身長が百七十センチぐらいあり、体重もかなりありそうな、肉感的な、男好きする顔をした大柄な若い女だった。母親はあるとき、「斎藤さんにはいろんな相談に乗ってもらっているの。わたしに万一のことがあったら、彼女から話を聞いてね」と、謎めいたことをいった。彼の母は頭の良い人だったから、たぶん自分の死期を悟っていたのだろうが、正確なことはわからない。死んだあと、枕元から書きかけのノートが出てきた。そこには俳人の楠本憲吉が書いた《瀬戸内の小さな町恋しふるさと》という俳句といっしょに自分の生まれ故郷についての望郷の思いが縷々としてつづられていた。病気が治ったら、ゆっくり旅行してみたいというようなことが書かれていた。生きるつもりでこのノートを書いていたのだった。母親は病気が見つかって、医者から余命十ヶ月と宣告され、正確に十ヶ月間の闘病生活を経て死んだ。真夜中に様態が急変したのだが、知らせを受けて駆けつけたときはもう、意識がなかった。斉藤美和は母の死の枕元について臨終を看取ってくれていた。ガンが発見されたあと、入院して手術を受け、ちょっと退院してしばらくの期間、自宅療養したあと、再入院して、五ヶ月ほどの闘病生活、そんなふうにして死んでいった。そして、母親に死なれた直後に、彼は斉藤美和から初めて《心の力》という言葉を聞かされたのである。彼女はふたつのことを教えてくれた。それは[人間はエネルギーの塊である]ということと[セックスは男と女のエネルギー交換である]ということだった。そして彼女がそのことを彼に教えたときに、付け加えるようにいったのが《心の力》という言葉だったのである。美和は明智に「《心の力》を自由に操れるようになれば、それまでと全然違う人生を過ごすことができるはずよ」といったのだ。そして、そこからの彼の人生の全てのことは連続的な因果のなかでつながって変化していった。斉藤美和は彼の母が入院していた大学病院の、母親をローテーションで担当していた看護婦のひとりだった。母の死後、病院を引き払った後、二、三日して、そういえばと、母親がいっていた、斎藤美和と話せという、けっきょくそれが遺言のようなかたちになったのだが、その言葉を思い出したのである。そして、そのことを思い出したトタンに、突然、どうしてもそうしなければならないような気がして、その夜、その病院の裏口で斉藤美和を待ち伏せ、彼女が勤めを終えて出てきたところを食事に誘った。前もって電話をしようかとも思ったが、心の中で〈そんな必要はない〉といわれたような気がした。彼はその時三十七歳で、斉藤美和は三十歳だった。彼女は裏口で彼が待ち伏せしていたのを見て、手をあげて合図を送ってきた。そして、そのとき、微笑みながら「今朝からずっと、きっとあなたがここであたしが勤めを終えるのを待っていてくれるという気がしていたの。今夜、絶対にあなたがあたしを待ち伏せしていて、あたしを誘って、美味しいお肉を食べさせてくれて、そのあと、あたしを抱いてくれると思っていたわ」といって、彼を驚かせた。病院を出て、二人は歩いて千駄木から上野に抜けて、湯島のすき焼き屋で食事をした。そして、それから彼女の言葉通り、そのまま、タクシーで上野のラブホテル『満月城』に乗りつけた。これはまあ、彼にとっては恋愛のレベルでいうと、要するに妙な具合で用意されていた浮気だった。それこそ一晩だけお手合わせしたという火遊びだったのだが、驚くべきなのはその肉体のパフォーマンスだった。彼女はバストが九十六センチあるといっていたが、身長も百七十センチに近く、体重も七十キロ近くありものすごいグラマーだった。高校時代、バレーをやっていて国体も出たのだという。八王子の有名な女子校出身だった。裸にむくと、贅肉もこってり付いていてみだらな肉の塊のような身体をしていた。彼が「すごい身体をしているね」というと「全然運動できないの、忙しくて。運動不足で太っちゃったのよ」といっていた。美和も亭主持ちで人妻だった。彼女は看護婦にしておくのは惜しい、毎日つれて歩きたいような身体の持ち主だったのだが、ことが終わったあと「あなたって、いままでの男性と全然感じが違う。やっぱりだったわ。ひどい目にあったのに優しくされたみたい。お母様のおっしゃっていた通り、あなたもわたしと同じ種類の人間なのね」と謎のような感想を述べた。ことが終わったあと、彼女は「腰が抜けた。こういう感じ、初めて」といって笑った。そして「うちの旦那は普通の男なんだよね」といって、感に堪えない様子で彼にしがみついて離れなかった。そして、斉藤美和はそのとき、こういった。「人間には《特別な力を持った男》と《特別な力を持った女》、それとなんでもない人の三種類の人間がいるの。あたしは特別な力を持った女、あなたは特別な力を持った男、私たちは少数派。私たちは普通の人一万人に一人とか、十万人に一人とかいう比率で存在しているといわれているの。わたしたちは普通の人たちにわたしたちのような人間が存在しているということを気づかれないように生きていかなくちゃいけない。そうでないと、わたしたちは魔女とか、精神異常とかいわれてすぐに社会的に抹殺されてしまう。本当の精神異常者のなかに入れられたら、もうおしまい。だから、自分がそういう種類の人間だということは普通の人たちには絶対にいわないようにしないといけない。あなたがわたしたちの仲間だということは、亡くなられたお母様からお聞きしていたわ。お母様も《特別な力を持った女》だったのよ。あるとき、彼女は誰も見ていないところで、あたしの手を握って、熱いパワーをあたしにくれながら「あなたがわたしと同じ女だということは出会ったときにすぐ分かったわ」といったの。そして「わたしの力はどういう形で、ということまではわからないけれど、息子に受け継がれていると思うの。あの子は子どものころ、何度も病気したり、怪我したりして、死にそうになっているけど、その都度、運のいいことが起こって助かっているの。多分、強い《心の力》の持ち主なんだと思う。息子はまだ、なにも気が付いていないけれど、わたしが死んだら、そのことを教えてあげて欲しいの。そして『《心の力》を上手に使いなさいって伝えて欲しいの』とおっしゃっていたわ」それが母親の遺言だというのである。そして、彼女は「あなたはやっぱり特別な男ね」と付け加えるようにいった。彼が人間の発するエネルギーについて考え始めたのは、この[母の死]を発端にして起こった斎藤美和とのことがきっかけだった。彼女がいうには彼の母親はその[心の力]について自分の息子に、いずれきちんと自分が知っている範囲で説明するつもりでいるうちに、死期をむかえて詳しいことをなにもいわずに逝ってしまった、というのだ。明智が彼女を病室に見舞っても始終、親父と個人的に看護をたのんだ人とか誰か付き添いがいて、なかなか息子と二人きりになれなかったこともあったのかもしれない。母親が明確な死期を悟っていたかどうかまでは分からなかったが、結局、そのことを彼はそういう、美和に託された母の伝言という形で知ることになった。母が死んで、葬式のゴタゴタにケリが着いたあとすぐに、彼が斉藤美和に会いにいかなければいけないと思ったのは、逆にいうと、斉藤美和が彼に向かって《力》を送出して行動を促した、《早くあたしに会いにこい》というメッセージを送り出したということだったのである。そして、彼が本気で「オレのアソコは人と違うのかもしれない」と思い始めたのは斉藤美和とのセックスを経験してからのことだった。美和は彼のペニスを長いとも太いとも言わなかった。ただ「熱いエネルギーの棒をさし込まれたみたいだった」といった。だから、自分はそういうふうに性的な部分で特殊なのかもしれないと思ったのだ。彼はそれまでセックスの相手をしてくれた女たちから「上手ね」とか「おっきい」とかいってほめられることはあったが、オレのセックスの技術なんか全然だめだ、と考えていた。女を抱くときはとにかく、こわれものを扱うように優しく扱ってあげる。そして、最後、いきそうになったら、勢いをつけて、短い、一秒とか二秒の間だけ相手のものを壊すようなつもりで射精する、というのが彼のコツだった。これは、学生時代、誰彼かまわずまわりの女の子たちとセックスしていたころに自分で習得した、彼なりのテクニックだった。浮気、本気、遊び、ブス、美人を含めて、何人もの女たちと付き合ってきたが、女たちはみんな彼のそういうテクニックを「虐められたんだか、やさしく抱かれたんだかよく分かんないけど、すごくステキだったわ」といってほめてくれた。いろいろに褒めてくれるのは女がその場盛り上げのための演技としてそういっているのか、お世辞を言っているのか、どっちにせよ、本気でほめているわけではないだろうと思っていた。若いころ、彼は自分の息子をほかの男の持ち物よりひとまわりくらいは大きくて長いのではないかと思っていたが、そういう類のビデオなどを見る機会があって、そこに登場する男たちの逸物の長さを知るにつけ、オレのなんてぜんぜんたいしたことなかったな、というのが率直な感想になった。じつは男のモノのサイズなんて、伸縮自在でけっこういい加減なのだ。しかし、その時の美和のほめ方は客観的で、信用できるような気がした。そして、このころ斎藤美和とのことがあってから彼はセックスをエネルギーのやりとりというふうに考えるようになった。いずれにしても《心の力》という言葉は、そのあと、彼の心を徐々に変化させていった。斉藤美和は「あなたには早く《心の力》という言葉を覚えて、その力を身につけて自由に使えるようになって欲しいの」と、謎のようなことをいった。そして、つづけて「あたしにもどうすれば《心の力》を自由に操れるようになるかわからない。技術的なことはなにも知らないの。でもあたしだって、一生懸命、そのことにエネルギーを集中させると、そのときやっている野球の試合でどっちが勝つかとか、日曜日の競馬のレースでどの馬が勝つかとか、なんとなくわかるの。それで、お金を儲けたこともあるんだもの。だから、きっとあなたも同じだと思う。精神集中が大事なんだと思う。それ以上のことはわたしにもわからない。あとは自分で研究してください」彼は彼女がでたらめを言っているとは思わなかった。たしかに、彼は斎藤美和の《心の力》に導かれてここまで来てしまったのだ。彼は彼女がトイレに入っている間に、彼女のスーツのポケットにお駄賃を三万円入れておいてやった。そして、別れ際に彼が「また会いたい。またやらせて」と頼むと、彼女はこういった。「あたしもあなたに何度も抱いてもらいたいけれど、そういうわけにはいかない。あなたとあたしといっしょにいると、二人ともきっと滅びる。《心の力》ってそういうものなのよ。あたしたちはこれきり。もう会いに来ないで、あたしのことは忘れてね」といった。そして、何日かして、斉藤美和から彼の会社宛に手紙が来た。文面にはこうあった。 愛しい人へ苦しい思いをしながらこれを書いています。愛したり愛されたりということが、ママにならないあたしやあなたですが、あたしがいま考えているのは、なぜもう少し早くあたしたちがあえなかったか、ということです。神様の書いた運命のシナリオを演じながら、あんな、入れられたまま三十回も連続していき続けるようなケダモノチックな愛ではない、あたしたちにだって別のもっと崇高な愛の形があったはずだと思うのはそればかりです。せめて、あたしが人妻でなく、あなたに奥さんがいなければ、もっと早くにお会いしていれば、こんなに苦しまずにすんだものをと思うのです。あなたを愛していますが、あたしの恋はかなわぬ恋、あの夜で終わりの恋と心に決めております。 斉藤美和の愛の手紙はつづいた。 それで、お手紙を差し上げましたのは、私たちの愛と性のことはともかく、お会いしたときにも少しお話しいたしましたが、人間には[心の力を持つもの]とそうでないものの二種類の人間がいる、そのことをもう一度、お伝えしておきたかったのです。あたしにも詳しくはわかりませんが、あたしはそう教えられました。だから、おまえは《力》、チカラは心のなかのエネルギーの塊なのですが、だからおまえは身体のなかのエネルギーの仕掛けが普通の人とは全然違うのだと教えられました。私がそのことを教えられたのは、男の人で、年上の…、あたしの父なのですが、何年か前に死にました。父はあたしに《その力》は血筋ではない、親から子に必ず伝わるというようなものではない。後天的に獲得できるものでもない。いわば、滅多に表に現れない遺伝的なもので、それもかくれつづけて最後まで表に現れないことが多いのだとのことでした。科学的なことでは説明が付かない、というふうにもいっていました。申し上げたとおり、一万人に一人とか、十万人に一人というような話のようです。特に、男の人は少ない。昔から憑依、いわれている「狐付き」とか「犬神しばり」というのは実際の精神異常の場合もあるんでしょうが、普通の人たちが《心の力》をおそれてそういったということもたびたびあったようです。この《心の力》は、一般にいわれている[気の力]のような形を取って、エネルギーを直接相手にぶつけて、窓ガラスを割ったり、思っている箇所に火をおこしたりというようなことができるようになることもあるみたいです。また、それを無法な力として密かに使うものもいると聞いています。ただ、あまりキャパシティに合わない使い方をすると、エンジンが壊れるように人格破壊が起こって廃人になるんだそうです。だから、いいことばかりではないということです。あたしの場合はその《力》というのは人の心が読めるとか、未来のことがなんとなくわかるとか、予知能力のような形を取って発達しているみたいです。自分の思いを遠く離れた人のところに送る、俗にいうテレパシーですが、そういう力もあるようです。こういう力は持っていても自分がそういう力の持ち主だということを知らずに死んでいく人もいる、最後まで自覚しないことがほとんどのようです。あたしにはどうすれば《その力》を鍛えられるのか、その力がその持ち主を本当に幸せにしてくれるものなのか、そのこともわかりません。これからあたしは、あなたが別れ際にあたしにくれた三万円のお金を元手に、日曜日に行われる競馬の勝ち馬の馬券を買ったり、あたりの宝くじを買ったり、これから値上がりする株を買ったりしながら、慎ましくひっそりと生活していこうと思っています。あたしの《力》はそういうことにしか役に立たないんです。目立たぬように地味に生きる、ただただ、それを自覚して己を律し、《力》が衰えないように鍛えつづける、それしかないというふうに思います。どうぞ、この先、小太郎さんもご自愛くださり、《心の力》を天賦のものとして生かしながら、幸せな人生を切り開いていってください。小太郎さんの活躍とお幸せを祈っています。そして、天国でお会いしたら、もう一度、わたしを抱いてください。美和 手紙にはそんな内容のことが書かれていた。果たしてこれが、美和の書いてきたとおり、本当のことなのか、それとも美和が仕掛けた、かなわぬ恋への絶望の果ての罠なのか、彼にはそれもわからなかった。けれども、彼はこの時から明確に《心の力》という言葉を具体的ななにかの[力]を指し示す用語として真剣に自覚し始めたのだ。そして、そこから徐々にそれまでの人生の勢いをはずしていったのは、述べたとおりである。それまで、彼にこの《心の力》のことを教えてくれたものはいなかった。美和からは[あなたは特殊な力を与えられた超能力者よ]といわれたような気がしてうれしかったが、それは同時に「おまえの才能は《心の力》のせいだといわれたような気もした。そして、彼にはそのことが自分を幸福にしてくれる力なのかどうかもわからなかった。その《力》は人間なら誰もが持っているような能力ではないはずであった。持っている人と持っていない人がいる、持っていてそれを自覚している人、自分がそういう力を持っていることに気付かずにいる人もいた。そういう、いわば選ばれたものだけが持つことのできる《力》だった。そして、そういう[特定の人間]のなかで、わずかな人間だけが自分が持っている力を自覚し、さらにそのなかの限られた人たちだけが、その力を使い、使いこなすことができる、そういう力だったのだ。それを斉藤美和は《心の力》と呼んだが、彼にはこの呼称自体も一般的な呼び方なのかそれとも彼女がそう呼んでいただけの単なるローカルな用語なのか、それさえも確かめる方法もなかった。ほかに呼びようがなく、彼も彼女と同じように《心の力》と呼ぶことにしたのだ。《心の力》はそういう力を持っていない、普通の人間たちの言葉で書くと、要するに、超能力ということだった。これは理屈と論理が組み合わさって出来上がった科学的なアプローチのなかで、そういう力を持っていない人たちの共通認識として作られていった言葉だった。しかし、《心の力》を持った人間たちがその力を人に説明しようとするときにも、この従来ある、それにまつわって作られた言葉を使って説明せざるを得なかった。《力》は二種類に分かれていた。それがテレキネシス《念力》とインスビレーション《予知能力》である。念力は外部に向かって物理的に働きかける力、インスビレーションは時間を作用軸にして未来に起こることを前もって察知してしまう能力である。そして、どうやら、斎藤美和に言わせると、さまざまの《力》があるが、どんな《心の力》の持ち主でも、偏った能力しかもっていない、例えば、斎藤美和には一時間後、二時間後に起こることが何かということを察知する能力と、遠く離れた同じような能力を持つ人に思いを伝える、その二つの能力しかない、ということだった。しかし、一時間先になにが起こるかが分かれば、株式相場や競馬の世界ではつねに勝者である。普通の人間でも個人差がある。それは《心の力》を持った人間でも同じなのだ。もう一度、普通の人間のところに落とし込んで説明すると、一般に人間には誰でも同じようにある程度、生きるためのエネルギーを作り出す機能が備わっている。しかし、その《力》の強弱はじつは心の強靭さや意志の強固さ、情の強さなど精神的なことに強く左右されている。そして、その《力》を突出した形で持っている者たちがいる。それが《心の力》を持った人間たちなのだ。彼らが普通の人たちにその《力》の存在を伝えようとすると、必ず、超能力とか、神などというそれをいっちゃあおしまい的な、論理だてて説明できない、宗教的なレベルでしか、つまり宗教的な言葉でしか語ることのできない、なにかになってしまう。実はこういうことはすべて、人にあらためていうようなことではなく、自分ひとりの意識の問題として誰にもいわず、自分一人で取り組んで胸の奥にしまっておかなければならない、そういう種類のことがらなのだ。そうしないと誤解される。《心の力》という言葉を知った時、まず彼が考えたのはそういうことだった。それから、人間が沢山集まっているところに自分の身を置いてみた。雑踏は見知らぬ他人同士がエネルギーをぶつけ合う場所である。人混みを長い時間歩いてみれば、どんなに鈍感な人でも、ある程度は人間の身体が発散する《力》を体感できるだろう。その時、心理的に意気揚々としているのであれば、後におびただしい疲労感がやってくるし、消沈した気分でいるときにはその場所からなにがしかのエネルギーを与えられて、元気が出てくる。そしてその場所は心を癒してくれる安らかな雑踏となる。要するにそういうことなのだとわかった。彼はそれまでこの世の中に超能力などというものは、実際には存在しないと考えていた。例えば、空飛ぶ円盤を見たとか、宇宙人がどうこうということで騒いでいる人たち、それに霊がどうしたこうしたという人たちがいる。そういう人たちを、あの人たちはどっかがおかしいのではないかと思っていた。こういう超常現象について、あるいは新興宗教や神がかったノリの売卜者、僧侶や牧師たちも含めてもいい。彼らが関わる、現実に存在する自然や社会を認識するための科学の体系からはみ出したところで存在する非・科学的な存在、彼らが自分勝手な世界観や歴史観のなかで恣意的に繰り上げた中心軸になるなにか、それの代表が《神》なのだと思う。[神]なんか、いるものかと思っていた。そもそも、宗教に身を捧げたやからが説くところの《全能の神》の存在は証明も必要なければ、非在の疑念も抱いてはならないというむちゃくちゃに無責任な話なのである。彼はずっと、そんな無茶苦茶な没義道な話があるものかと思っていた。世の中は[我思う、ゆえに我あり]で、すべては自分が唯物の世界をそれと認識するところから始まるのだと思っていた。それが自分が[心の力]というものを実感して以来、違うことを考えるようになった。日常的な認識のなかでは取らえきれない、意識を超えた闇の場にもう一つの別の秩序を保つ美しい世界があるのかもしれないと考えるようになった。その世界は《全能の神》によって司られていた。人々はその美しく優しい世界をなかなか思うことかできない。彼はそのことを思い浮かべる度ごとに、人間たちがいまはまだ自分の手で作り出した科学が幼くて、未発達なために、この神という存在を自分の意味の世界でどう位置付ければいいのか、現実のもう一つ向こうにある観念の世界をどう説明すればいいのか、それがよく分からず、途方に暮れているのを感じるのだ。これはドイツの心理学者ユングの提唱した[シンクロニシティ=共時性]にまつわる物語なのである。人間が認識できない世界に、何者かが作り出した、もう一つの秩序がある。あるいは無数の、意味の連鎖がある。幸運や不運、偶然や必然、それらのものは、現実の向こうにあるもう一つの秩序の中で作られる果実、産物なのだ。その幸運と不運を綾なす世界で、吉凶の結果を作り出す存在を神と呼ぶべきかどうかは彼にもわからなかったが、一つの問題は現実の世界で生きている人間が、そのもう一つ、超越した世界で起こっていることを現実の形として受け取ることができるか、という問題なのだった。この説明は後先になるが、これを高杉貞顕は日々の努力、一生懸命に生きようとする情熱しかない、と言ったのである。そして、高杉にいわせれば、神は死んだどころか、死んだのは人力や蒸気機関で動かす神様で、高度に産業化情報化した資本主義社会用の電子のエネルギーで動くデジタルな神様は生まれたばかりで現在も発育中で、まだ子供の段階にあるのである。そして、神のための科学というか、人間の現実世界の客観的把握へのアプローチの技術は、多分、すこしづつ進歩を続けていき、物理的なエネルギーとしての《心の力》、さらには20世紀末の人々が「気」と呼ぶ正体の分からないエネルギーの帰趨も含めていつか何世紀先のことか分からないが、人類はその体系の頂点に成人してリッパな大人になった《神》を中心に据えて、美しい秩序を持つ価値の順列を作り上げるのだろうと、夢想しているのだ。その時、人間はいまは説明できない、数々の未知や不可思議を神の説く論理によって解明し、楽園と呼んでも恥ずかしくないような新世界を構築してみせるのではないかという。高杉は人間社会の未来の形をそう予想したが、明智も高杉のこの考え方は正しいような気がした。そして、もう少し科学が発達して、認識論が進歩すれば、人間の心の中のさまざまのこともきちんと説明のできる完璧な人間認識の科学ができあがっていて、その科学の力を借りれば、不幸に生きるということのあり得ない、例えば、《幸福に生きて幸福に死ぬ》そういう人生のための完全な神学を作り上げているのではないかと思うのだ。人間の心のなかのさまざまの、いまの心理学や医学では説明できない動きや働きを、一括りにして超能力と呼ぶのは、粗雑すぎる。彼はそう考えていた。科学はいまもまだ発展途上にある。そして、もう少し科学が発達して、認識論が進歩すれば、人間の心の中のさまざまのこともきちんと説明のできる完璧な人間認識の科学ができあがっていて、その科学の力を借りれば、不幸に生きるということのあり得ない、例えば、《幸福に生きて幸福に死ぬ》そういう人生のための完全な神学を作り上げているのではないかと思うのだ。人間の心のなかのさまざまの、いまの心理学や医学では説明できない動きや働きを、一括りにして超能力と呼ぶのは、粗雑すぎる。このことを分かりにくくしているのは、超能力という言葉は存在しており、同時に概念としても、かなり胡散臭いものとして存在しているのに、現実に超能力は実体として言葉通りには存在できていない、そういう半端な状況のもとにあるからなのだ。テレパシーとか、テレキネシスとか、テレポーテーションとかいう《普通の人々》が想像力をたくましくして作り出した超能力的な概念が、現実に存在しているのかどうかどのくらい一般的なものなのか、彼にはわからない。ただ、母の臨終を看取った斉藤美和にはテレパスとかテレキネシスという能力は紛れもなく存在していた。彼女は心で念じることで彼を呼び出して、彼を《心の力》の世界へと導いた。彼がその時、存在していると信じていた《心の力》は超能力をイメージさせる荒唐無稽な漫画のようなものではなかった。高杉に会うまでは、そんな、自分が考えただけで物体が破壊されるような、思惟が物理学の法則を蹂躙するような運動形態はあり得ないと思っていた。しかし、──この話はあとでもう一度するが、高杉はそういう強烈な力の持ち主だった。人間の心と心の結びつきについては、いまの科学では説明しがたい数多のことが、現実に起きているのだ。そこでは、便宜的に呼ぶのでもいいから、超能力という言葉を仮説でもなんでもいいから範疇として設定した方が、はるかに全体が説明しやすくなることは間違いがなかった。逆にいえば、だからこそ、その言葉がなくならないのだ。彼がそういうふうに考えるのは、もちろん、自分の心の動きに時々だが、一種の超能力に近い、理屈では説明できない、ある種の《力》の存在を自身でも感じていたからなのだ。彼はその作業を[イメージをスキャンする]と呼んでいた。たとえば、自分一人だけで喫茶店などに入って、チラリと何か、オブジェクトを視認して、その後、目を閉じて網膜に焼き付いたイメージのなかに意識の触手を伸ばして、となりに座った人の心のなかを覗いたり、目に見えている肌の部分から身体の表面の形を意識でなぞっていったりすると、これが面白いように具体的な情報が自分の認識のなかに流れ込んでくるような気がしたのだ。そして、同時にもしかしてそれは、妄想かも知れないと思うこともあった。つまり、読心術である。また、読身術みたいな部分もあった。たとえば、彼が妄想の意識でスキャンして、そこにいる若い女がどんな色のパンティをはいているかとか、どんな形のブラジャーをつけているかとか、イメージを浮かび上がらせようとすると、ぼんやりとだが自分の心のスクリーンにそれらしきものが映し出せるような気がするのだ。彼も男相手にそういうことに熱中する趣味はないから、そういうことの対象は勢い、女性が多くなるのだが、女たちのそばでそれをやって目つきが変な変質者みたいに思われるのがいやなので、あまり頻繁にはやらないようにしていた。脳裏のスクリーンの映像は明瞭だったり、ぼんやりしていたりして、自分がどういう状態の時、映像の質がどうなのか、その相関関係が分からなかった。しかし、そのことをもっと端的にいってしまえば、ある一人の人間の衣服に覆い隠された部分の肉体の形、腹部とか陰部とか乳房とか、傍らにいる人間のある部分や心に意識を集中させて、自分の心の中の意識のスキャナーのスクリーンに何かを映し出そうとすると、ぼんやりとだが、しかし確実になにか影のようなものが投影されているように思えるのだった。それは、要するに着ている衣服を通して身体の輪郭、形態が透けて見えてしまうということだった。彼にも実際にはそれがただの錯覚かカン違いか妄想か、あるいは真実なのか、それが分からなかった。そういうことは、くり返して書くが、同性の男やおばあさんなどには、これはもう感情移入の絶対量の不足なのだと思うのだが、全然そういう気も起きないし、心にどんなイメージも浮かばなかった。そういう気になれて、もしかして、いまチラッとパンティが見えた気がする、などと思うのは、女、それもピチピチの若い娘やじっくりと成熟して掴むとジュースが出て来ちゃいそうな年増の女で、とりわけいい女、セックスアピールの量の多い人などで、そういう人を裸にして調べてみれば自分の透視能力が正しいかどうか分かるかも知れない。しかし、女たちのなかには敏感な人もいて、電車のなかで、彼の隣の座席が空いているとしても、若い女がその座席にすわりそうなふりをして近づいてきても、彼の顔を見て、彼のまなざしに気が付くのかどうなのか、その席に座らず、プイと向こうにいってしまうこともあった。これは、たぶん、ヨチ本能みたいなものが働いて、この人、変態かも知れないと察知しているのではないかと思う。しかし、現実問題としてはこの透視能力は全然実戦的ではなかった。例えばいまから二人でコトに及ぼうかというときなどに、女が彼の目の前でいまからスカートを脱ぐなどという話になると、それまで、絶対に白だと思っていたパンティの色を、急に、いやもしかしてベージュかも知れない、それとも花柄かも知れない、あるいはぐぐっと色っぽく黒かも知れないと、だんだんにわからなくなっていってしまうのだった。これが彼の限界だった。要するに、始末の悪いことにそれを俺が正しいはずだとか、俺は間違っているかも知れないなどと考えて心を揺らめかせ自信を喪失していくと、こういう予知の的中確立はどんどんさがっていってしまうのだった。ましてや、予言してそれが的中しているかどうかをその場で調べる、というようなことになったりしたら、まずあたらなかった。そして、これが自分一人だけの妄想のレベルから位相を変えて、誰か他の人と一緒にいて、その人に自分のそういう隠された能力を見せて、驚かせてやろうとか、超能力の持ち主だと人に証明して見せようなどと考えると、その力はまるで使いものにならなくなってしまった。だから、この《力》自体が彼の場合、コントロール不能で人見知りで恥ずかしがり屋なのだともいえた。さらに彼の場合、この正体不明の《力》は欲に目がくらむと心のなかから雲散してしまうのだった。つまり、この能力は換金もできない。これも能力としては致命的だった。少なくとも斎藤美和は競馬場に行くと、その日のレースのあたり馬券を百発九十七中くらいで的中させるのだ。彼も一時、俺に超能力があるとして、それを金儲けに使ったら大金持ちだなと思った。彼女のように競馬の馬券を買ったり、宝くじを買ったりするのに使えたら最高なのだ。もしうまくいったら、働かずにくっていけるかも知れないゾと、能力をなんとかお金に換える方法はないものだろうかと、あれこれ研究、知恵を絞ったが、うまくいかなかった。そういう力にああだといいなというような予測や夢が絡むと完全にだめになる。高杉から自分の持っている《心の力》を操るための要領を教わった。それで、そのつもりでやってみるのだが、全然うまくいかない。馬券で一儲けするのも、レースの寸前に可愛く何万円かつぎ込んで当たり馬券を予測するくらいだったら、三割、四割という、かなりの確率で的中したが、大金を儲けようと考えて、何十万とか何百万円、つぎ込むと全然ダメだった。当たったことがなかった。予測が使いものにならない。週末に、競馬場でささやかに生活費程度の金は稼げるようになった。そこでこのことは、誰にもいってはならぬ自分だけの秘密と心に決めた。そして、透視能力を高める訓練もやってみた。ヘレンが何色のパンティをはいて自分の前に現れるかというような、一人だけのきわめてプライベートなレベルで[女のパンティ・色あてクイズ]というのをやってみた。そうすると、これが百発百中だったのである。彼がヘレンの立ち姿をパッと見て、《アッ、これは黒いパンティはいてるな》と思うとヘレンは黒いパンティをはいていた。《オッ、今日はどうやら花柄ピンクだぞ》と感じると花柄ピンクだった。黒ベースに銀色菱形模様だと予想するとそのとおりだった。しかし、それだって、いままで二十三回連続で当たったに過ぎないし、偶然の一致ということだってあり得た。しかし、明智はこのことがあってから、気のせいかも知れないのだが、女たちの心の筋道のなかに入り込んでいく扉を見つけた、と思ったのである。それは口では説明しにくいし、その筋道を別に透視した色モノのパンティのそばで見つけたということではないのだが、自分の相手をいたわったり、ねぎらったりする優しい意思の触手をゆっくりと相手に向けて延ばしていくと、その先端に触れた相手の人間の心が安らぎや優しさに触れて打ちふるえているのを感じるのだ。そういう状態を心理学的に表現すると「なんだかこの人って、とってもステキな感じ。アタシをあげちゃいたい感じ」というようなことなのだが、そういう状態になると自分のエネルギーのチャンネルが女たちの心の繊細な部分にきっちりとつながった、そういうふうに感じるのだ。彼の場合、三度くり返すことになるが男や子供なんかには興味はなかったから、いきおい、そういうコトを感じるのは若い娘とか年増のいい女とかが多いのだったが、彼女たちはみんな、誰かが自分の世界へと尋ねてくるのを待ち続けており、自分の心の部屋の扉をたたいてくれるのを、待ち望んでいた。たまに、その部屋の戸をたたくと他の人が「入ってます」という返事をすることもあった。しかし、ほとんどの場合、それは当て馬というか、とりあえずの押さえみたいなもので、彼女たちの心のなかの一番奥の部屋は、新しく訪れる違う男のために用意されていたのだ。女たちを見つめる作業はちょっと微妙なところがあった。というのは、彼女たちの心のなかに入っていこうとするわけでもなく、ただあんまりじろじろと見つめてばかりいると、女たちはそういうことだけは妙にカンが良くて、アッ、この人ヘンなこと考えてると、すぐ感づかれてしまう。そういう時、彼はごまかして急いでそっぽを向いてそれから目をつむることにしていた。だから、つまりなのだが、彼のそういう力は、初めからただの妄想だったのかも知れないし、もしその力が彼の心のなかに存在しているとしても、それ単独で取り出せるような形では存在していないし、独自の範疇を与えて、概念として独立させることすら可能なのかどうか、わからない、そういうある種の傾向としてしかあり得ないのだった。彼の場合、そういう《心の力》が存在しているというよりは、その《力》を生み出すシステムが不安定な形で存在している。それだけのことなのではないか、と彼自身はそういうふうに自己分析していた。それは、みんな気付いていないが、ほとんどの人がそういう状態でいるのだ。気付くか気付かないかである。気付いて、しかも、それをうまく作動させることができなければ《力》は生じない。しかし、その装置の動かし方がはっきり分からない。相手にもよるし、時と場所にもよるのだが、うまくいったりいかなかったりする。彼にもコントロールできない。とても不安定なのだ。だから、ふだん、彼は自分のなかにメリハリとして心のなんらかのエネルギーの動きを感じても、それが現実の生活のなかで意味を持ちうるような具体的な《力》として存在しているなどというふうには考えないようにしていた。そしてもし、その《力》が他者に対して多少の効能を発揮できるのだとしたら、それらの力は結局は《優しさ》であったり、《いたわり》であったり《励まし》であったりすることしかできない。そう考えるようにしていた。彼にそういう力があるのだとすれば、つまりそれは、全体を癒し、安定させ、ほころびを繕い、完全なものを完全なままで維持させようとするような保守的な《力》だった。これから何かをしよう、【力】を作用させて、何かを変化させようなどという考えのためには、ほとんど意味を持たないような脆弱な、電動自転車のバッテリーのような補助的な《力》だった。そして、だからこそ特定のケースのなかでは極端に快い。要するに、彼は女に優しい男、それだけのことなのかも知れなかった。チャイニーズのヘレンは彼の持つそういう説明不能な《力》を《GOOD BIVRATION》といったのだろう。「快い波」とでも訳せばいいのだろうか。しかし、その《GOOD BIVRATION》は別に彼に経済的な余裕をもたらしてくれるわけではなかった。その力は具体的な内容もハッキリしない、利用法も効能も分からない。要するに、解読法の分からない古代の滅亡した民族が残した文字のようなものだった。せいぜい、自分自身の、過去の悲しい出来事から始まっている、人から見れば惨めな一人暮らしをそこそこに楽しいと感じさせ、たまたまその時、一緒にいる人間が不機嫌であれば、その自分の心に内在する《力》をもって相手の心をときほぐし、幸せな感情を作り出し、そしてそれを増幅させて、幸福を実感させようとする。使えるのは、せいぜいそんな用途だった。これらの動きもあるいは、自分で頭のなかでそう考えているだけで、すべてはまたしても妄想なのかも知れなかった。しかし、彼は自分では秘かに自分の心のなかには、いまの段階では科学的に説明することができない、客観的な形態として把握できないから、どう取り扱えばいいのかも分からない、説明できないので存在しないことにせざるをえない、なんらかの《力》がある、そしてその《力》が自分を生かすことがあるのだ、と考えていた。そして、その《力》の存在は人生の履歴の経験を積み上げるなかで、これはこう考えなければ説明が付かないというふうに、ぼんやりと分かってきた、それだけのことなのだった。ミキから「女には二種類あって、あたしは少数派。セックスのなかで冒険したがるタイプ」と少数派の話を女に限定した話として聞いた時、彼は斉藤美和にいわれたことを思い出したのだ。美和は「人間には二種類会って、《心の力》を持っている人とそうでない人がいる」といった。そのふたつの話の構造が同じだったのだ。だからたぶん、ミキはそのことをそういう[超能力話]としてではなく、現実に存在するリアルな状態として知っていて、自分の異常は突発的な個人的なものではなく、集団的、歴史的なものだという形で理解していたのだろう。ミキと暮らしはじめて、暫く日曜日は部屋に閉じこもって一日中裸のママでいて、ベッドの内外みさかいなくどこでもいつでも身体を交わすというようなただれた愛欲の日々がつづいた。そのころには、彼もじつはセックスというのは身体を通してエネルギーをやりとりするということなのだということに明確に気が付くようになっていた。しかし、さすがに一年たち、二年たつとそういう生活に少し飽きてきて、ミキの「いますぐここでしようよ」という提案にもブレーキが働くようになって、毎朝毎晩ということもなくなってきた。彼が忙しい、疲れているといって彼女の求めに応じないと、ミキは不満そうにかわいい口をとがらせて「つまんねえの」といった。彼には分からなかったが、ミキは遊びでもなんでもよく、相手を探したのだった。そんな矢先にこの事故が起きて死んだのだ。ミキに死なれたあと、横浜から出てどこか別の街で暮らした方がいいかも知れない、その方が新しい生活ができるかもしれないと思ったこともある。ミキのことを遠い過去の記憶として葬り去るには新しい町に引っ越す方がいいにきまっていた。格別に横浜を深く愛しているというわけでもない、故郷というわけでもない。ただ、面白がって人に節税になるからといわれて買った山手の投資用のマンションに結局、自分が住むことになった、それだけの話だったのだから。どこかに引っ越そうかと考えたがそのときは考えがまとまらなかった。横浜の町から出ていく自分をイメージできなかったのだ。そして、そのまま、身動きが取れなくなってしまった。彼はあの頃、自分が生きていた世界は、要するに自分が意識を張り巡らせて作り上げた円蓋状の屋根構造に支えられた、仕切られた空間のようなものだったのだと考えていた。彼はそこからなんとかして抜け出したいと考え、毎朝、目が醒める度ごとにそこからの遁走を試みる。しかし、どうやってあがいてもその《想像力》の外縁の意識に仕切られた障壁を突き破って、暗黒に周辺を縁取られた無意識の場所へと逃亡することはできなかった。そして、彼は、秘かに自分の生活をなにか巨大なドーム状の牢獄のような所に閉じこめられてしまった懲役囚のようだと思っていた。自分がいる場所は、いろいろなことがあって罰としてそこに閉じこめられることになった、そういう場所である。彼はそこからは、永久に出ることが出来ず、心が解き放たれることもまた、永遠にあり得ない。そして、こうしていつかその巨大なドームのなかのどこかで死んでいくのを待ち続けているのだった。そうであるのならば、ここが自分の生きて行くべき世界であるのならば、この場所の有り様をできうる限り詳細に知っておこうと彼は考えていた。そして、死の訪れるその日まで、きっちりと生きていよう、それが自分なりの覚悟だった。それから…、そうだ、その元気に死ぬ日のために体を鍛えておこう、というシャレのような気分で夜明けの町を走り続けるようになったのだ。しかし、彼はその思いつきをけっこう気に入っていた。この街に引っ越してきた最初の頃は、坂を登り切った公園のなかの森のあいだをぬって続く散歩道をコースに見立てて、何回もぐるぐると回り続けた。それがこの頃は全行程十キロほどの距離をとって、一日おきに時間にして一時間、街中のあちこちを走り回るようになった。そんなことをしているうちに、このあたりの細かな地理がだいたいどうなっているか、ほとんど頭のなかに入ってしまった。夜明けの朝もやの消えかかった街は、見慣れた街並みのはずなのだが、なんだか別の時間に見るのとは違う場所に見えた。例えば、夕方から夜更けにかけて、ネオン煌めき、華やかな彩りの明かりのなかを人々が行き来する石川町、関内、元町のあたりも、夜明けの五時六時の朝もや立ちこめるなかではよっぴて盛り場の汚れに晒されて化粧のはげそうになった女のようなたたずまいで、まあぞっとしない。また、港のあたりは人影がないと、妙に建物や港湾施設ばかりが目立って、なんだか核戦争が終わった後の、人類が全員滅亡してしまった無人の都市をひとり、誰か自分の他に生き残った人間に会いたくて、走り回っているような荒寥とした気分になった。たぶん、毎日、身体は少しずつ衰え続けていたのに違いなかった。そして、いずれどこかで、死が待ち受けている。自分なりのイメージではそれは、きっと有り金を使い果たして、住む家も手放した末の無残な野垂れ死にのような死のはずだった。それでも彼はできるだけこれまでの自分の身体の調子をこれからも維持したくって、健康のために毎日、夜明けの街を走りつづけた。横浜港、山下公園、海岸通り、横浜球場、中華街、伊勢佐木町、黄金町、桜木町駅、港未来21、そういうところを好き勝手にかけずり回ったあと、家に戻ってシャワーを浴びて、それから一日が始まるのだ。彼にはもう、自分が何かおいしいものを食べたいとか、最新流行の服を着たいとか、いい車に乗りたいとかいう、モノにからまる願望や欲求はとうの昔になくなってしまっていた。その意味では世捨て人の肩書きはふさわしかったのかも知れない。実際にそんな生活の細々したことに拘りだしたら、アッという間に彼は自分の金を使い果たしてしまうだろう。自分が住んでいる町のあらゆる場所に出没しないと気が済まない男というのもいるが、彼はそういうことはしないようにしている。すべての関係する取引先に関して、できるだけそことの関係を大切にするようにしている。まあわかりやすくいうと、いきつけの店を決めている、ということだ。 ラブホテル 本牧 ハミルトンホテル 403号室ご愛用 カラオケハウス 中華街 パイロン ヘレン嬢ご指名 すでにこの二つは文中に登場したが、このほかに御用達の行きつけの店リストは、 中華料理 麦田 奇珍 タケノコラーメンが絶品 中華街 興菜楼老正館 上海ネギそばがおすすめ 深夜営業 中華街 聘珍楼 ゴマ団子を買う店 喫茶 山手 銀猫亭 港が見える丘公園そば 加藤美穂の店 喫茶 元町 パザパ ランチがグー コーヒーも美味 日本そば 石川町 長寿庵 出前持ちのタッチャンと友達 食料品 本牧 ○○スーパー 自転車で買いに行く 中華食材店 中華街 喜満商店 茉梨花茶500グラム千円 バイト探し 石川町 野本不動産 口入れ屋、時々大口仕事あり 古本や 山手駅前 山田屋書店 時々エロ本など、購入 床屋 麦田 小林理髪店 千円、安い。おヤジが話し好き クリーニング 千代崎クリーニング ほとんど出さない。 コンビニ 千代崎 7・11 知加子とセックスフレンド 医者 元町 細川内科 ほとんど行かない 文房具や 山手 中村文具店 北方小学校脇、コピー機利用 フランス料理 元町 霧笛楼 大体、安い方のAコースを頼む 一番最後にさりげなく付け加えておいたが、彼はフランス料理なんか、滅多に食べない。霧笛楼は昔、ミキがまだ生きていたころ、何度かいったことがあるだけで、最近は出入りしていない。しかし、何かあって来客を豪華にもてなすとか、いざ勝負しなきゃなんない、なんていう時は、Aコースワイングラス一杯付きで予算二人で1万7千円、ちょっと贅沢するとすぐ2万円越えるという、またBコース同じく2万5千円、うっかりすると3万円という出費は非常に痛いが、いざという時のお客様は霧笛楼に案内しようと思っている。 それで、ざっとこんなところが彼の横浜ライフの馴染みの店だった。いつも同じ店しかいかないなんてライフ・スタイルが保守的だといわれれば、それまでだが、それも彼としてはいまさらやっと作り替えて組み直した自分の世界を壊したくないのもあるのだ。それで、できるだけおなじ店で買い物して、可愛い若い娘とかと知り合いになって、つき合いを深めることも地域にすむ独身の住民の、自分の生活を楽しくする知恵なのである。それにまたこれも年をとったせいだろうが、現実の生活のなかで、何かを猛烈に欲しいと思ったり、夢見たりすることは、もうなくなってしまっている。ひとりだけで家に閉じこもって、昔の流行歌など聞きながら、穏やかに静まり返る自分の意識の湖のほとりで、ひっそりと暮らしたいといつも思っているのだ。ところがつらいことに、そんな彼の心に石を投げ込んで波風を立て、汚水を流し込むように心の平安をかき乱す女がいる。それが、別れた妻の麗子だった。麗子のことは一口では説明できなかった。それはいまでもそうだ。彼女のことを考えると、彼の心のなかにはとめどなく愛しさと憎たらしさのエネルギーが満ちてきて、よしあしにかかわりなく、甘ったるく感傷的な気分になり、心のなかの彼女の面影を抱きしめたくなるのだった。現実の彼女はたぶん、わたしがそんなことをすれば「もう、わずらわしいわね。やめてよ」というばかりだろう。しかし、彼にとって麗子はミキなきこの世のなか、何十年という恩讐を積み上げた[愛憎]というよりほかにいいようがない、彼女の隠し持つ苦い蜂蜜に、心がとろけそうになる女ナンバーワンの存在だった。しかし、彼はこうも考えていた。ああいう女とはできるだけ顔を合わせるのを避けて、目先の生活のささやかなで瑣末な幸福に一喜一憂しながらひっそりと暮らしていこう。たとえば、昔、メディアの世界のエリートだったころに生きていた世界からすれば侮蔑の対象でしかなかったような中国からやって来た、場合によっては売春だってOKの風俗嬢とだって気持ちが通い合えばうれしいじゃないか。最後は日ノ出町あたりの公園の片隅で、段ボールの家かなんかに住んでごみ捨て場をあさりながら、野垂れ死にすることになるのかも知れないが、それも自分の責任、そうなったらそれはそれでしょうがない。ならないように努力する。人生は努力、きっとなんとかなるだろう。結局、昔、夢見たような幸せな一生は送れなかったが、それはしょうがない。午前中、前日の続きの今日中に届ける予定でいるその英文資料の翻訳の仕上げをやっているうちに頭蓋骨の内側が熱を持ち始め、眠くなってきて、ベッドに戻って1時間ほど仮眠を取った。そして、ひと休みした後、目が覚めるともう正午、12時過ぎだった。昨日からワープロに打ち込んでいじくり回していた原稿を急いで仕上げてプリントアウトして、それを持って外出した。出かけようとすると、またしても雨が降り始めた。雨は気分を陰鬱にした。雨のなかをビニール傘をさしてバス停で、桜木町に行くバスを待ちながら思い出したのは、昨夜の別れた妻からの留守番電話だった。来月は七十万円のお金を麗子の所に送金しなければならない。雑文を書いた原稿料、英文資料の翻訳料、誰かの手紙の代筆、こういうものをかき集めると、それでも毎月二十〜三十万くらいの稼ぎにはなった。昔、自分がいた会社のかっての同僚や後輩たちに頼まれて新商品キャンペーンの企画書を書き上げる。これが採用になると、二十万、三十万のギャラが企画料の名目で口座に振り込まれた。これもなにを思いついても自分では少しも面白いと思えない、やっつけ仕事になってしまったのだが、けっこう金になった。自分一人だけ、犬といっしょに生きていくだけだったらそれでなんとかなった。しかし、何度も書いてきたように、それだけでは娘たちの養育費には足りない。それで、ばたばたと思いつく才覚でなにがしかのアブク銭稼ぎを繰り広げている。そして、いま、手元にある貯金を増やしたり減らしたりしながら、死ぬまでこの金額がゼロにならないように才覚を働かせながら、生きていかなければならないのだ。その死もいつ訪れるのかわからなかった。いや、明日明後日に死が訪れるのであれば、むしろ始末がよかった。彼の身体はきわめて健康だった。この先、何年も確実に生き延びるに違いなかった。このころ、彼は自分に死が訪れるのは、十年後かも知れないし、二十年後かも知れないと思っていた。単純に計算すると父親とおなじだけ生きるとしても、あの時点で二十五年、いま、この文章を書いている時点で十五年ある。彼のように途中で会社を辞めてしまって、社会保険も途中までしか払っていない人間にも年金というのはちゃんともらえるのだろうか。その年金というのは金額はどのくらいなのだろうと思っていた。(第三章 青い果実 につづく) 2018.01.15 08:14
第一章 八月二十六日午後十時三十二分 愛人 ♪あなたが好きだからそれでいいのよ たとえ一緒に街を歩けなくても この部屋にいつも帰ってくれたら わたしは待つ身の 女でいいの ♪尽くして 泣きぬれて そして愛されて 時がふたりを離さぬように 見つめて 寄り添って そして抱きしめて このままあなたの胸で暮らしたい♪ 梅雨が終わって、夏がやってきた。一九九九年の夏は天候も不順、人心も落ち着かない、悪いことが連続して起こりそうな不吉な兆しに満ち満ちた夏だった。実際、何回か長い雨が続き、川が氾濫し、いろいろなところで川沿いの家が何軒も流された。横浜も息苦しく蒸し暑い日がつづいた。そして、晩夏である。八月二十六日も朝から雨だった。木曜日、夕方だった。明智小太郎は自分の部屋に閉じこもって昼過ぎからずっと辞書と首っ引きで英文資料の翻訳の下原稿を作っていた。序章では、自分を中華街の駐車場の深夜料金係と名乗ったが、実際のところはそういうわけでもなかった。多角経営といってもいいかもしれない。いちおう、崩れてしまっているが、大学卒のインテリである。日常的に金がなく、というよりお金が足りなくて困っていた。要するに、金になる仕事であればなんでもやるというのが彼のポリシーだった。で、そのうちのひとつが売れない雑文書きだった。金になればなんでもやる、能力と時間の許す限りで対応する。そして、その時の彼の一番の問題は[secretion→分泌物]と[lymphatic vessel→リンパ管]と[metabolic→新陳代謝の]だった…。頭を抱えて、言葉の意味をつなげて文章にしてキーボードに打ち込む、その作業を何時間もつづけている最中に、テーブルの上のファックス電話がジリジリと鳴った。そして、しばらくするとカタカタと白い紙を吐き出し始めた。これはもう二十世紀のどんづまり近くの、いまから十五、六年前の物語なのだが、このころまでは、出版社の編集仕事の中にはかなりの割合でアナログな部分が残っていた。原稿はまだ、半分くらいのライターたちが原稿を手書きで書いていて、あるいはワープロで書いたものをプリントアウトして、それをFAXで送って、編集がそれをチェックするというやり方でものごとが進行していた。もうずいぶん前にこういうことのためにファックスが使われることもなくなり、全部の人が、文書をメールで送るようになった。いまやパソコンで原稿書きしないと、誰も相手にしてくれない時代になってしまった。かし、このころはまだ出来あがった原稿をファックスで送って、それを編集者が受け取って読み、いけてるかどうかを判断する、という形で仕事が進んでいた。そして、電話でオッケーをもらって、編集部にフロッピーを持って訪ねていき、入稿作業に付きあって、あとから編集者の愚痴や不満を聞いてあげながら一杯おごってもらうという形で仕事が進んでいた。データの保存はCDがやっと一般化してきたころだった。思えば、フロッピーとかMOなんていうのも、いまや完全な死語になってしまった。いまの時代はパソコンでさえも、三、四年経つと、壊れたときにメーカーに電話すると修理するより、買い換える方が安いですよ、といわれるのである。彼はこういうものの消費と進化のスピードにどうしても馴染めなかった。変化が早すぎると思っていた。意思の疎通をファックスでやっていた時代には、まだものごとに手作りの感覚が残っていて、汗を流しながら仕事をしているという感じがあった。昨今、雑誌がどんどんダメになっているという。いまのそういう雑誌の衰退的な状況はどうでもいいことだが、そもそも基本的にアナログなものをデジタルな器具・機能をフル活用して作ろうとするところにものごとの成立の仕方として無理があるのではないか。あのころはまだ編集者と執筆者が互いに息遣いが聞こえるような距離で仕事ができた最後の時代だったのかもしれない。そんなわけで、この話もそういう時代の物語である。この日も彼あてに週刊ポンプからファックスが送られてきたのだ。この時間にファックスを送ってくるのは週刊ポンプの橘川真理子に決まっていた。週刊ポンプはそのころ、彼が毎週やっつけ仕事で雑文を書きちらしていたサラリーマン向けの週刊誌で、彼女はその、彼が原稿書きを請け負っている頁の担当編集者だった。やりかけていた英語の医学論文の下訳の原稿書きを中断してファックスを読んだ。テーマの所にハートのマークをまぶした、いつも橘川真理子が送りつけてくる文面である。週刊誌の連載頁というとだいぶ聞こえがよく大作家みたいだが、彼の書いている頁はまあ、自慢するようなものでもない、これ、ぼくが書いているんですと、人には言えないような内容のものだった。ファックスには美しい女文字でこう書かれていた。 お疲れさまです。アケチさんの[地獄の人生絶望相談]、大好評です。 今週は質問の数を一問増やしたいと思います。 問題を考えたので原稿を月末までに書いてやって下さい。どの質問もいつもの絶望的な調子で解答してやって下さい。一度、編集長がどこかで会いたいといっています。それも調整してやって下さい。この件につきましてはあらためてご連絡いたします。 さて、相談の質問は以下の二つです。 [1]オヤジが酒に酔うと理由もなくボクやオフクロを殴ります。ボクはどうしたらいいですか。[2]失業しそうです。割り増しの退職金をもらって会社を辞めるか、それともいまのところにしがみついているか、迷っています。ボクはどうしたらいいですか。 それから、もう一つの企画の[サセコちゃん]の方も3人分お願いします。こちらも締め切りは月末ですから、できるだけ早く、原稿書いて送って下さい。行方不明になったり、連絡が取れなくなっちゃったりしないでくださいね。 くれぐもよろしく。 以上、ご連絡差し上げました。よろしくどうぞ。 週刊ポンプ 橘川真理子 週刊ポンプは大手出版社である某、※学館が発行している、編集方針に[金もない、地位もない、名誉もない。週刊ポンプは貧民の皆さんの見方です]の人生三無主義を提唱・標榜し、あるのは若さと格差だけというプアな男たちを読者対象にするウィークリィ・ヤングマガジンだった。彼はその雑誌の定例企画のなかの人生相談の頁で冗談で、世捨て人・婆捨山棄太郎を名乗っていた。婆捨山棄太郎はつまり、世捨て評論家である。そして世のなかの不景気をいいことに《あの世は天国、この世は地獄、世捨て人・婆捨山棄太郎の絶望人生相談》をキャッチフレーズに[こちら地獄の3丁目、絶望人生相談所へようこそ]というタイトルを掲げ、好き勝手なことを書きちらしていたのだ。じつは、この[世捨て人・婆捨山棄太郎の地獄の絶望人生相談]のコンセプトは彼が自分からやりたいといい出して始まったことではなかった。この仕事を彼に回してくれたのは学生時代の同窓生で、※学館に勤める柚木圭一が、自分がこの雑誌の編集長に昇格したのを記念して思いついた企画で、そもそもは彼が一人で勝手に面白がってやっていたことだった。柚木は最初、思いつきでこの頁を作り、そういう架空のペンネームをつくって半分遊びで自分で好き勝手なことを書きちらしていたのだが、途中から忙しくなってきてしまい、だんだんそのページが重荷になってきてやる気をなくしていたところだったのである。そこへ、彼がそれまで勤めていた会社を辞めて、フラフラと遊びにいったのだ。その時、柚木が「お前、これ、オレのかわりにこのあとをつづけてやってくんない?」といって押しつけてきた仕事がこの頁だった。彼は別に仕事が欲しくて柚木を訪ねたわけではなかったが、それが同情してでもなんでも仕事をくれて、原稿料もくれるというのであれば有り難くないわけがなかった。ちゃんとやればお金をもらえるのである。どんなに気に入らない仕事でもどんなにくだらない仕事でも、金になればまた別である。彼も最初、こんなばかげた仕事、どうでもいいやと思っていたが、やり始めると、一問、二問、質問に答える形で三百字くらいの原稿を作り上げて、それをファックスすると自分の銀行口座に毎週、三万円、四万円の原稿料が振り込まれるのである。その金が入ってくるようになったとたんに、ありがたさが身に沁みて、その仕事はたちまち彼の大事な作業のひとつになっていった。週刊誌だから、月に四回、原稿料が振り込まれる。ここでちょっと、彼のこのころの収入と支出の構造を書いておかなければならない。そうしないと、このときに彼がやっていた一つ一つの仕事の重要さがわかってもらえないだろう。まず、このころの彼の収入は、「週刊ポンプ」から請け負う雑文の原稿書きが週六万円から八万くらいで、ひと月は四週間だから掛ける四で、二十四万円から三十二万円、ここから一割くらい税金を取られる。それから、医学雑誌の外国の論文の翻訳というか、下訳作りがこれが大体四百字原稿二十枚くらいなのだが、これが毎月の仕事で、七万円くらい。これは源泉は引かれていなくて、編集部は原稿料ではなく、雑費というかアルバイト代で処理していた。これがいちおう、昔の因縁系の仕事である。これは虎ノ門にある共同医学出版というところからもらっている仕事だった。そして、このほかに、横浜系とでも書けばいいだろうか。元町の、前出の不動産屋兼地元住民の私設相談係りである樫山清三から回ってくる雑用処理係の仕事があった。それはあらゆる便利屋仕事、白タク運転手から引っ越しの手伝い、遺品整理、私立探偵まがいの尾行や聞き込み調査など、どの仕事も不定期で、安定収入というわけではなかったが、それでも大体、毎月十万円から十五万円くらいの稼ぎになった。それと、中華街の駐車場の徹夜の料金係というか、ようするに真夜中の見張りみたいなものなのだが、週に一度ずつ、夜十時からあくる朝の七時まで、九時間の徹夜仕事で、いちおう、本当はずっと起きていなければいけないことになっていたが、じつは事務所の料金箱の脇にあるソファで横になっていてもかまわないというゆるい仕事で一晩で一万円がもらえた。こっちの仕事は、中華街の西門の脇にある、前出したが喫茶店『月町』のママの竹美ちゃん、ちゃん付けで呼んでいるが、もう七十すぎのおばあさんだった─に口を利いてもらって、ありついた仕事だった。こんなふうに細かい仕事をあれこれ集めて、コマネズミのようにうごきまわって働いていたのは、そうしなければ、必要なだけの金を稼げないからだった。一時にまとまった金を稼ぎだす方法を思いつかなかった。それでも、それやこれやを合計すると毎月最低でも四十万円、調子のいいときには五十万円くらい稼いでいたのだから、自分でもよくやっているのではないかと思っていた。ところがである。生活はひとり暮らしであるにかかわらず、四十万以上の稼ぎがあるというのに全然楽にならなかった。というのは、彼の毎月の支出に別れた女房のところにいるふたりの娘たちのための養育費に毎月二十五万円という、非情な支出があるのだった。それで、この分を収入から引くと、いっきょに彼は毎月、生活費を二十万円くらいしか使えない低所得者、貧乏暮らしになってしまうのだった。しかも、娘たちはふたりとも大学に通っていて、その学費が毎年、合わせて二百万近く掛かるのである。離婚したときの約束で、この費用は半分は彼が受け持たなければならないという話になっていた。これはもし、手元にそれだけのお金がなかったら、貯金を崩して対応するしかなかった。この金を払わずにいると、夢のなかにふたりの娘が登場して、ふたりで涙を流して、お金がない、お金がないといって泣きじゃくるのである。これは彼には耐えられなかった。どうしてこんなことになってしまったのかの説明はおいおいしていくことにしよう。とにかく、彼としては、情けない話だが、いくら稼いでも稼ぎすぎということはなかった。娘たちが大学を卒業して社会人として自立するその日まで、彼には彼女たちの〝幻の父親〟としての義務が、それは主に金銭的なものだったのだが、ついて回っていたのである。かくて、明智家の家計(家計といっても、実質は彼ひとりと犬が一匹だけだったが)は、雑文書きの仕事がなくなっても、横浜の住民たちのための便利屋仕事がなくなっても困るという、二重構造の収入の桎梏に支えられて生活していたのだった。彼は、なんとかしてもう少し稼ぎを増やしたかったのだが、このときの現実としては、かなり働きづめで働いても、そもそも、いずれは野垂れ死にするだろうという覚悟もあったのであらためて貯金を始めるなどということも考えず、わりあい、宵越しの金は持たねえみたいな感じで、お金がないくせに高い和牛の霜降り肉などを買ってきてひとりで焼いて食べたりして、それなりに気ままに暮らしていた。そんな彼がどうして[野垂れ死に]なんていうことを考えたか、それには深いわけがあった。横浜も町の繁栄の象徴的な場所である中華街をはずれて、五分も歩くと日ノ出町にたどり着く。その町はあのころは、何十軒という、一泊二千円で泊まれる簡易宿泊所があり、それは、港湾で働く労働者たちの宿舎、いわゆるドヤなのだが、その役目を果たしていた。彼は、千代崎に自分の住処があるから、日ノ出町の広さ二畳のホテル暮らしということもなかったのだが、家を失い、それでも横浜以外に行くべき場所がなければ、そのとき、いくら稼いでいるかにもよるが、ここで生活せざるを得なくなるかも知れない。日課のジョギングの最中、できるだけ日ノ出町に足を踏み入れないようにしていた。横浜にも、山手や元町のようにエキゾチックな町ばかりではなく、都市の恥部のような、街中に饐えた空気が立ちこめているような場所もあったのである。話をもどすが、そんなわけで、当時、お金が出ていくばかりで、貯金がどんどん減っていっていて不安を募らせていた彼のフトコロ事情には、婆捨山棄太郎の原稿料は干天の慈雨、涙が出るほどありがたい金だった。明智は若くして名をあげ将来を嘱望されながら、女の色香に惑わされて迷路のようなところに迷い込んで、ついには会社勤めもやめてしまった人間だった。この仕事を彼にやらせてくれた柚木は学生時代、いっしょに女遊びにうつつを抜かした仲間だった。そして、柚木は明智のことを、女にもてすぎて色恋でしくじって人生の安定飛行から大きく軌道をはずしすねて世を捨ててしまったしょうがないヤツと考えていた。柚木はいまから七年ほど前、彼が日銭仕事から足を洗って住まいも横浜から池袋のはずれに移したあと、何年かして会社を定年退職した直後に六十一歳でガンで死んでしまった。柚木は柚木なりに彼の人生の行方を心配して、生きていくための仕事を回してくれたのだろう。明智が会社をやめてしまっとき、柚木は彼に「なにがあったか知らないが、自分から世の中に背中を向けてどうする」といって、自分の雑誌のなかに彼の仕事を作ってくれた。あのころ、彼には自分から世の中を拒んだという意識はなく、むしろ、反対に世の中から見捨てられたと考えていたのだが、それでもオレがこんな逆境に負けるものかとは思っていた。というのは、もうダメだとか思い始めると、覿面に貯金通帳の金額の減少に加速がかかるのだ。それでイヤでも、絶対に負けねえぞとでも考えないと、生きていけなかったのである。勝つ、負けるといって誰と勝負しているというわけでもなかったのだが、絶対にへこたれないぞと思っていたし、これからの俺は俺の好きなように自分の人生を生きてやるんだと思っていた。そして、この婆捨山棄太郎の名前で原稿を書いているときは思いつくかぎりの絶望的な口調で人生の宿命や人間の運命を語ればそれでいい、と思っていた。最終的には、自分のやっていることが多少つじつまが合わなくても、原稿料さえきちんともらえれば、そういうことはどうでもよかった。世の中全部のことがお金だなどとは思わなかったが、サラリーマンを辞めて身にしみて感じたのは、金儲けってホントになんでこんなに難しいんだろうということだった。だから、そういう意味ではけっこう元気にがんばって働いて生きていた。それで、質問の答えは例えば、[1]の父親の家庭内暴力については、こんなふうに書いた。 悪いけど、それはキミがそのオヤジを殺すしかないかもしんないね、父親の殺し方については、岩波文庫の『オイデプス』でも読んで研究してよ。ジョージ・シュタイナーは1984年の著書『アンティゴネーの変貌』のなかで《父親殺しはすべての文化の始まりである》っていってるんだ。これは1989年にみすず書房から日本語訳が出てて、俺はその翻訳で読んだんだけれどね。日本語版の354ページの初めのあたりにそう書いてある。俺はいままでやっちゃいけないと思われてたことを馬鹿正直にそのまま掟として守り続けて、なにも起こらずに日常の牢獄に閉じこめられたまま死んでいくくらいなら、俺がもし若くて、20歳くらいだったら自分ができること、自分がやっちゃいけないんだと思いこんでいたことをなにかやろうとするね。手近なところで、オヤジでもオフクロでも殺して見ろよ。人間は人でも殺さなきゃ、世の中を捨てるなんて偉大な発想は採れないもんだ。常識を否定しろよ、そして、暴力と権力を肯定するんだ。そうでもしなきゃ自分がそもそも救いようがない存在だってことが了解できない。人間てのはホントに馬鹿だからな。 こんな調子だった。彼がこんなふうに勢いをつけてメチャクチャ書くと、橘川真理子は心得たもので、文章の終わりにちょっと級数を落とした大きさの字体で [編集部註・これは冗談です。この原稿を本気にしてお父さんやお母さんを殺さないでくださいね] などという言い訳のようなオチャラケを書き添えるのである。それにしても、十年前にオチャラケで書いていた尊属殺人がいまや、日常的な出来事になってしまい、新聞やテレビをにぎわす親殺しや子殺しがゴロゴロ連発、蔓延しているのだから恐れ入る。若い女性がドンドン全裸で殺されるのも気にかかる。いずれにしてもこの原稿は勢い最優先である。で、返す刀で彼女は武智に向かって「大変けっこうです。こういういい原稿をどんどん書いてください」というファックスを送ってよこすのだ。いいだろう、こんな原稿だったらいくらでも書いてやるよ。こういう過激な、調子だけの原稿を一本書くのに時間は十五分くらいしかかからなかった。彼が勢いにまかせて書きちらした原稿を、編集部は適当に手直しして掲載するのだ。週刊誌だからこういうのが月四回、これも大切な毎月の定期的な収入源だった。それが有り難いことにこの週は一問多かった。それから、同じような仕事なのだが、もう一つ、雑ネタばかりを集めた頁のメインディッシュみたいなショートコラムがあった。これが彼らというか、彼ひとりの話なのだが、[サセコちゃん原稿]と呼んでいる四百字原稿用紙一枚ほどの単文である。正式には[街角で出会ったサセコちゃんのこっそり告白]というタイトルの定例ページのハコ原稿だ。こっちの方は[街角レポーター・赤血凶太郎]のペンネームで原稿を作っていた。これは街角で出逢った若い娘に性体験の人数とか、好きな体位とか、まあ、思いつくようなあらゆるエッチでくだらないことを直接インタビューして聞いた、という設定で原稿を書くのだ。それはたとえばこんな調子だった。 いままで大体、35人くらいの男とセックスしたと思うんだけど、結局、あたしの場合、あれが大きくないとダメなんだよ、ウン。大きければ大きいほどいいっていうカンジかな、あたしの場合。ウーン、今までで一番大きいのっていうと、長さ20センチで直径 5センチっていうのがあったネ。ちょうど太さは缶コーヒーくらいでサ。さわってるうちにどんどん大きくなって来ちゃって、小型のペットボトルくらいのサイズになっちゃって。ちょっと待ってよ、アンタっていうカンジ。それでもどういうものかと思って、大きな口あけて尺八してるうちにあたしも気分乗って来ちゃってサ、もう大変。馬乗りになっちゃった。腰を振るとあたしの中で、ごつごつ軟骨にぶつかるみたいなカンジで、腰が抜けそうになったわヨ、終わったときはもうぐったり、声も出なかった。出血したわョ。でも、それがあたしが経験した最高のセックスだった。■原宿の交差点で遭遇、調査したハウスマヌカンの晴美ちゃん(仮名・24歳)の告白でした。 大体、この原稿はいつもこんなカンジ。もちろん、原稿の元ネタは原宿で知り合いになった女から取材した話なんかじゃなかった。これは誰にも内緒だったが、この文章はじつは彼が住んでいたマンションのごみ捨て場でひろった古いエロ雑誌、『リアルタイムズ増刊・ぷれい白書VOL・1』版元は雄出版、1992年 6月号の 138ページ、[アクメ・女子大生/OL/女子高校生・調査]という企画からのパクリだった。盗作と言えばその通りなのだが、数字や場所やなんかに多少の脚色を施し、言葉の表現をブラッシュ・アップして、構文をひっくり返したり、言葉を言い換えたりして原形をとどめないところまで破壊して、それを作りかえてあった。できあがったのは別の文章である。むしろ、彼は自分が作り直した文章の方がいけると思っていた。彼はこの『リアルタイムズ増刊・ぷれい白書』という雑誌のことを、どこのどういう人が作っているのかとか、そういうことをなにか知っていたわけではなかった。この雑誌は表紙に堂々と、【飽くなき性愛を追求する実践者の情報誌】というスローガンを謳っている雑誌で編集方針は[女の下半身徹底研究]、この号の巻頭特集は[若妻をヒイヒイいわせる方法]、第二特集が[テニスギャルの喜ばせ方]。ちなみにその第二特集を原文のまま引用すると、タイトルは《運動してムレムレになったオ○ンコは、今が食べ時!》で、 テニスギャルは非常に性に対して貪欲である。だから、たとえ行為が終わってお風呂に入っているときでも油断は禁物。常に責め続けることが肝心なのだ。そんなわけだから、水中用バイブ、こいつを使ってお風呂のなかでもヒイヒイいわせる。 などという説明が、若い女の子がどこかの旅館のお風呂場で、カメラに向かって大きなお尻を突き出した写真といっしょに載っていた。以下、ズラリとその本のなかのどの場所でもそういうようなことばかりがある種の情熱とともにぎっちり並べられて詰め込まれていた。彼はこの雑誌が徹底的に下品で下劣なところが非常に気に入っていた。まったくなんていう白書だろうとは思ったが、こういう雑誌を一生懸命に作って金を儲けようとする無上の根性と情熱は尊敬に値すると思っていた。そして、この「白書」は性的想像力の貧困な彼の原稿書きのための大切な秘密兵器、スケベ系の原稿書きのネタ本としてもう100万円以上の稼ぎを彼にもたらしてくれていた。これがこの雑誌の定例ページの人気企画[街角で出会ったサセコちゃんのこっそり告白]の正体だった。原稿料はこっちの方が高くて、一問3万5千円だった。こういう原稿もだいたい一本十五分で書きあげた。彼のところにこの原稿書きが回ってきたのは、ひとつは誰もやりたがる人がいなかったということがあるのかもしれなかった。みんな、いやがるのである。彼にしたってこんな原稿ばかり書きちらしているのは、たしかにバカバカしかった。しかし、人気はあった。読者からのハガキの《今週の面白かった読み物ベスト10》の常連だった。この原稿を書いていることは自分から自慢できることでもなかったし、自慢するつもりもなかったが、とにかく、理屈をいってないで、こうやって拾える仕事は毎月、できるだけ拾っていくつもりでやっていないと、取り引き銀行の口座の残高が歯止めを失ったようにどんどん減っていって、彼を焦らせ、気分的に追いつめられて、たまらない気持ちにさせたのである。立ち入った事情だが、彼は事情があって妻と離婚したのだが、離婚の条件の慰謝料代わりに世田谷の家族で暮らしていた3LDKのマンションを彼女に渡した。そして、前段でもちょっと説明したが、そのほかにこれはもうほとんど強制されてのんだ条件だったのだが、子供たちの養育費を毎月出すようにいわれた。それでなければ、山手のマンションを娘たちによこせといわれた。彼には子供たちの養育費を毎月、その金額送金することで、父親としての義務を果たしているような、充実感のようなものが何となくあったのだが、それが毎月のことだったから大変だった。歯止めなく、なだれるように自分の貯金が減りつづけていくのはいたたまれなかった。だから、柚木がくれた仕事は本当に彼には死ぬほど有り難かったのである。それで、この雑誌の担当編集者の橘川真理子はこの年の春、国際基督教大学を卒業したばかりだというシックなフレアスカートの似合う、かわいい若い娘だったが、彼はこのとき、じつはまだ彼女には一度しか会ったことがなかった。それまで、この頁は柚木が片手間に直接担当していたのだったが、春先に人気企画につき連載に新しく担当者を付けるということで、柚木に呼ばれて、新入社員の彼女に編集部で紹介され、会社の喫茶室で一度だけいっしょにお茶を飲んだ。その時の会話である。橘川真理子が「あたし、夏のボーナスをもらったらハワイ旅行に行きたいんです」というので、彼が調子に乗って「ハワイは実はすごいところなんだヨ。150年前までハワイを支配していたカメハメハ王朝は別名、ハメハメアッハン王朝っていうくらいで、女王様を中心に、男も女もハメハメばかりしていたんだヨ。食べ物はジャングルに行けば、果物はバナナやパパイヤの取り放題だし食べられる野草もそのへんにいくらでも生えているし、海は魚だらけで、食うに困るということがないでしょ、食欲の次は性欲だって相場が決まっていてサ、もう毎日、やることといったらセックスばっかりで、オレも150年前のハワイだったらいきたかったネ」というようなことをいったら、橘川真理子は〈この人って、変な人〉というような不機嫌な顔をしてそのまま黙りこくってしまった。あとから考えて、この話はちょっと二十歳を過ぎたばかりの女の子には刺激が強すぎたのかも知れないと思った。それでも、明智は別に大ウソをついたわけではないのだ。彼は自分が口から出任せのウソ八百を大学出たての若い娘に対してエッチなノリで並べ立てたひどいヤツみたいに思われたくなくて、しばらくしてから、法政大学出版会から一九九三年十月に刊行されていたアメリカの構造主義歴史人類学者マーシャル・サーリンズの著書である「歴史の島々」の28ページ、 伝統的ハワイ社会の文脈では、性への関心に階級や性別の境はなかった。男も女も、首長も平民も、それに夢中だった。略奪婚には妻の略奪もあれば夫の略奪もあり、ハイポガミー婚もあればハイパーガミー婚もあり、同性愛もあれば異性愛もあった。有名な支配首長たちは両刀使いであったが、性に心を奪われている結果として、一部の若い男女には処女・童貞が要求される一方、その他には自由奔放が許されていた。社会学的には、性愛は家族とその分業の形態(ないし形態の無さ)を決定する原理であった。権力や財産を得るための大切な手段であった。位階やタブーもそれにより得たり失ったりした。実際、性愛を賭ける異性間の運任せの勝負事が流行っていた。子どもたち、少なくともエリートの子どもたちは、性愛の技巧に馴染んでいた。女の子たちは陰門をアモアモする、つまりまばたきしたり、他の《股を喜ばせる技術》を教えられた。 文中のハイパーガミー婚は身分の高い女と身分の低い男の結婚を、ハイポガミー婚というのは身分の高い女と身分の高い男の結婚を意味するのだが、そこに引用した事実を確認し、上記に抜粋したような文章が書かれている箇所に赤線を引いて、ポストイットを貼って郵便で送ってあげた。彼としてはオジチャンがその場の勢いで口から出任せのデタラメをいったわけではない、ちゃんと文献的な根拠はあるということを知ってもらいたくて、つれづれに書きしたためた手紙もいっしょに同封したのだが、その手紙には、 先日は初対面の方に話の流れとはいえ、失礼なことを申し上げすみませんでした。お送りいたしましたとおり、サーリンズらの調査によればヨーロッパ文明との遭遇以前のポリネシア文化は、性行為を宗教儀式の中心に置く土俗的な信仰が中心の「発情→恋愛国家」だったようです。私見では、これは古代の日本社会の歌垣、中世の夜這い、中国の少数民族に残る一妻多夫制の習慣などおおらかな性意識と関連があるアジアの有史以前から続く風習、つまりモンゴロイドたちの生活習慣と脈絡があるのではないかと、思うのです。たぶんハワイ諸島に定住した原住民はポリネシアン・モンゴロイドとも呼ぶべき南太平洋を北上して島にたどり着いた人々だったに違いありません。しかし、いずれにしても、そのことのいい方はセクハラ的だったと反省しています。無神経でした。許してくださいね。ハワイはとてもステキなところです。もしいらっしゃるのでしたら、レストランなどを経営する知人もおりますので、ご紹介します。とにかく、頑張って勉強して、いい編集者になっていい仕事をしてください。 というようなことを書いた。そもそも週刊ポンプという雑誌自体が若い娘にとっては日常的にセクハラ的な存在なのであり、そこの編集部がセクハラでないわけがないのだが、それでも娘心はまた別の手当が必要なのである。しかし、この手紙のおかげでそれからというもの、橘川真理子はひたすら彼を尊敬してくれるようになっていて〈この人はいまはこんな与太な原稿を書いているけど、ホントは人類学の素養とかもあるちゃんとしたインテリなんだ〉と思ってくれるようになった。柚木から、彼の若いころ、〝D2の虎〟と呼ばれていた、本当に元気だった昔のことを聞いたのかもしれない。このことがあってから、あとはファックスで連絡を取り合って、書いた原稿をメールで送ればことが足りるようになったのである。一見したところの橘川真理子はけっこう趣味のいい、上品そうな良家の子女という雰囲気の娘で、親御さんに丁寧に育てられたのに違いなかった。妙齢の娘が、武蔵野の面影を色濃く残す深大寺のそばの森のなかにある偏差値67の大学でキリスト教の教えに帰依しながら敬虔な四年間を過ごした。偏差値67というのは明智や柚木が卒業した早稲田大学の文学部と同じくらいのけっこうな難関である。彼女はここで中世ヨーロッパ史のスコラ哲学について学んだあと、出版の世界に志を立て、何百倍という新卒就職試験の難関を突破して一流の出版社に編集者として採用された。聞けば、彼女の卒業論文は「ヨーロッパ十一世紀ルネサンスにおけるギリシャ哲学の復活」という表題の、アリストテレスの哲学とスコラ哲学の思想構造の類似性を研究したものだったという。彼女はその論文に担当の教授から[特優]をもらい、論文のできを絶賛されて「大学院に残らないか」と強く勧誘されたのを丁重に断って、出版界へ身を投じたのである。そして、晴れて*学館に入社した暁に、新米編集者として一番最初に担当させられた記念すべきページが、[地獄人生の絶望相談]や[サセコのこっそり告白]だったのである。もしかしたら「ヨーロッパ十一世紀ルネサンスにおけるギリシャ哲学の復活」と[地獄人生の絶望相談]&[サセコのこっそり告白]とはいわゆる常識の世界からの隔たり方が極端に過激で異端的であるところに共通項があったのかもしれない。彼はあの時、彼女が置かれた立場を思い出して、これは悪い冗談か、そうでなかったら会社が入社試験で彼女を採用したことを後悔していて、彼女がこういう扱いに腹を立てて、嫌気がさして一刻も早く会社を辞めてくれないものかと、わざとつらく当たっているのかもしれないと思ったりした。もちろん、彼女はこのほかにたとえば、流行作家の連載小説の原稿取りとか、新しくオープンしたレストランの食べ歩きのレポートとかも担当していて、明智が書いているハコ原稿の編集なんかは片手間で、ついでの編集作業に過ぎなかった。しかし、ついでの仕事として割り切ってはいたにしても、彼の書く原稿も彼女の担当仕事の一部であることにちがいはなかった。それにしても、あのころの橘川真理子は[地獄の人生絶望相談]や「わたしが馬乗りになると、彼のアレはたちまち…」などと書き散らしてばかりいた[サセコのこっそり告白]のような頁を編集企画として本当はどう考えていたのだろうか。そもそも『週刊ポンプ』はカラーのグラビアページの新車の紹介コーナーにまで、こっちを向いてにっこり笑っているムチムチの肉付きをした水着の女をそばに立たせて写真をとらないと気が済まないようなやたらにセクシーな雑誌作りをしていた。それでも当時、あの不景気のなかで部数を延ばしていたのだからたいしたものだった。しかし、橘川真理子は誰にもいわず、こっそり、心ひそかに〈なんてバカバカしいんだろう〉と思っていたのだ。それで、これも後日談になるが彼女はそういう雑誌の編集方針についに我慢できなくなって、このあと二年ほどでテレビの世界に転職していってしまった。いまや某テレビ*日の夕方のニュースの放送記者をやっていて、ときどき裁判所の前とか、事故現場からの実況中継でマイク片手に喋っているのを見かける。もう四十歳近いはずで、若い頃よりちょっと化粧が濃くなったが、あいかわらずいい女である。あのころ、橘川真理子は二十三歳だったはずだ。そのことを彼は瞬時に想起することができた。明智がどうしてそんなに若い女の年齢までキチンと憶えているのかというと、それは彼女が彼のふたりいる娘のうちの上の娘の真木と同い年だったからだ。真木は長女の方だが、彼女は大学受験で一浪していたからあのとき、まだ大学四年生で、翌年の春に卒論だけ残して、ロンドンに留学することになっていた。娘たちとはいろいろと理由があり、消息は知らされていたが、ずっと八年間あまり彼女たちに会っていなかった。明智が麗子と離婚したのは一九九〇年のことで、離婚後、何度か娘たちに会わせてもらったがその後、D2を辞めたあとは、一度も会いにいっていなかった。冒頭でふれたが、この日、彼が朝から必死で訳していた英語論文は、大学時代の同窓生の柳生久之が発行人をやっている虎ノ門の共同医学出版という医学雑誌の出版社の編集部から頼まれたアメリカの最新の医学雑誌の産婦人科の特集記事の下訳なのだった。これは明日の夕方までに仕上げて持っていくという約束になっていた。医学論文だから、当然のことだが身体=肉体についてのあれこれが書かれている。どういうわけか、彼には身体=肉体について書かれた英文資料を一日中、朝から晩までいっぱいに時間をかけていじくり回していると、精神が高揚=興奮してくる性向があった。性向が性交へと彼を導くのである。机上の文筆活動が体内の分泌活動を旺盛にするとでもいえばいいのだろうか、やたらと気持ちが激昂して、高揚してきて脳のなかが発情したような状態になり、そのうち神経が下半身に集まり始める。そういう時、こんな単語に出会うのだ。[desparate→異様な][genital organs→性器]である。それが[Erect→勃起する]、さらに[intercourse→性交する]。[insert→挿入する]し[ejuculate→射精する]…。イライラしてくるような細かい言葉、どうでもいいような、よくないような意味ばかりいじくり回しているうちにだんだん刹那的、加虐的な気分になってきて、こんなことじゃダメだ、俺はもっともっと人間的に生きている実感が必要だ、理屈にこだわっていないで自分を感覚的に追求しなくちゃダメだというふうに考え始めるのだ。これは彼の、自分で自分をコントロールできなくなる悪いクセのひとつだった。性欲の問題である。心の内奥の根源的なところにいる自分が、去勢されるなと叫ぶのである。まず獣のように本能に従って生きよ、という話なのだ。で、勃起する。彼の身体はこのころすでに五十歳を過ぎていたが、精神的に追いつめられるとまず、ペニスが勃起した。そのへんは若いころと同じだった。そのころはまだ十分にストレートでいけた。机上で英単語の意味と挌闘するように仕事をしつづけていると、そういうふうにデスクの上で、概念や事項を弄んで英文資料と戦うのではなく、もっと人間的でリアルな、もう本当に条件反射のような、センシティブ(sensitive→感じやすい)な戦いがしたいと思い始めたのである。たとえば、場末のホテルの密室という花柄模様のカーテンのかかったジャングルのなかで、あるいはベッドという白いシーツの荒野で、孤独な戦士となって強敵の牝獣を相手にがっぷり四つに組んで、本能の限りを尽くして、くんずほぐれつ上になり下になりして、思う存分戦ってみたい。よし牝獣相手に死闘を繰りひろげよう、いまから断固戦うぞ、…いったんこういうふうに考え始めるともう制御不能に陥ってしまった機動戦士ガンダムみたいなものだった。理屈でもなく、倫理でもなく、ただ男女対抗シングル格闘技デスマッチをやりたいという情熱と性的欲動だけがモービルスーツならぬ己が肉体を操るのだった。そうこうしているうちに(理性のタガがはずれてしまって、すっかり情熱的な人間になってしまった)彼は人間としてのグレードを一番下まで下げて、直截的でさらに具体的な行動を選択する。つまり、ヘレンに電話したくなってくるのだ。彼がこのとき書いていたこの原稿は、このあと、どこかの大学の医学部の教授か誰かが多少の手直しをして字句の誤りなどをチェックした後、その大学教授の名前でくだんの雑誌の次号の特集のひとつとして掲載されるはずだった。資料の内容はどことかの誰とかが発見した新薬の効き目がどうのこうので、ばっちり妊娠が判明だというような話だったが、専門外の彼にはなにが書かれているかは分かっても、それが正確にいうとどういう意味なのかはサッパリ分からなかった。しかしそこに書かれいてることの本当の意味はその原稿の翻訳を手がけたことになるくだんの大学教授が考えればいいのである。それにしてもこの仕事が彼にとって非常にありがたかったのは、約束の期日に仕事を仕上げて持っていくと、その場で手渡しでその分の翻訳文の原稿料をくれて、なおかつ、次の仕事も用意してくれることだった。日銭仕事なのである。いまどき珍しい即日払いだった。明日も、彼がこの原稿を仕上げて共同医学出版まで持っていけば、いつも通りあたらしい同じような形で仕上げる翻訳資料と、今回の原稿の翻訳料、多分封筒に入った手取り7万円ほどの現金をもらえるはずだった。彼としてはその現金で入ってくる予定の7万円があるから、気分が少し大きくなっていた。あとから後悔する、それは分かっているのだが歯止めが効かない。彼はいつでもそうだった。若いころから女にかかわることに対してのブレーキがまったく利かなかった。女のことが世の中で一番大切なことのような気がして生きてきたのだ。しかし、その考え方はちょっとは後ろめたかった。ときどきのことだが、若かったころの女たちとの情事の思い出をまるで、懺悔を楽しむ背教者みたいに思い出していた。序でもちょっとふれたが、あのころの彼には、連絡を取っておつきあいしていただいていた女のコがふたりいた。ひとりは麦田のセブンイレブンでバイトしている女子大生の谷口千里子、もうひとりは中華街のなかにある白龍というカラオケスタジオのガイド嬢をやっているヘレン、こちらは欧米風にヘレンとは名乗っているが、じつは中国女だった。ふたりとも彼が長い時間をかけて、いまの、頭を下げてやらせてもらうという、大人の関係を作り上げたのだった。そのことの詳しい話は追々するつもりだが、谷口千里子の方は、学校の授業もあるし、彼氏もいるし、バイトも時間の縛りがきつく、こちらから連絡してもままならないことが多かった。彼女の場合は、向こうから電話してきて、お小遣いをせびられるついでにやらせてくれる、という段取りになっていた。千里子も見た目いい女で、色っぽいのだが、彼女はやせていてペチャパイだった。「ちょっといま、忙しくてダメなのよ」といって、こっちのリクエストにはほとんど応じてくれない。そして、突然電話してきて、「ホテルで待ってるからいまから三十分以内に来てよ」というようなわがままな娘だった。連絡が取りやすいのはヘレンで、携帯がつながらなくても、店に電話すると、いつも連絡がついた。そして、いろんなわけがあって彼女はわたしがいうことに絶対に逆らわなかった。ヘレンの携帯に電話するとだいたいいつも「ただいま遠方にいてつながりません」ということだった。そして、すぐ折り返しの電話がかかってくるのだった。電話がかかってこないときは、白龍(パイロン)に電話するとだいたいすぐ捕まった。この日も彼女は出勤したところだった。わたしがいつものドナルド・ダックの作り声で「ハローヘレン、ウォーシャンチー・ハミルトンホテル」これはマア日本語に訳すと要するに〈ねえヘレン、いまからしようよ〉というようなことなのだが、それをいうと、ヘレンは声の主をすぐに見破って、〈アハハハハ、コタロー〉とうれしそうな声をあげて笑い、話はすぐまとまった。九時過ぎに店を抜け出すから、そのハミルトン・ホテルのいつもの部屋で待ち合わせようという。ヘレンは「ハミルトン203、ハミルトン203」と繰り返していった。ハミルトン・ホテルは本牧のはずれにある、恋人たちがこっそりしのび会うために待ち合わせに使う、そういうことのための古いホテルだった。いまはもう潰れてしまい、取り壊されて跡地に新造のマンションが建ち並んでいる。ここが往時はアメリカ兵と日本娘の本土決戦、肉弾戦の激戦場であったことをもうほとんど誰も覚えていない。そのあと、何十年かして、わたしとヘレンもそこで何度も日中戦争を繰りひろげたのである。その話はともかくとして、現金なもので、こうして急なデートの約束が決まると急に仕事がはかどり始めて、そのあとまたたく間に翌日締め切りの仕事をほぼメドのつくところまで終わってらせてしまった。原稿は明日、もう一度、文章全体に目を通して細かい修正をやって、CDに移して、それをプリントアウトしたものをつければそれでできあがりだった。ひと仕事を終わらせホッとして、無事出産への立ち会いを終わらせた産婦人科医のような気分でドッグ・フードの缶詰を切って部屋で飼っている犬にエサをやり、みそ味一・五倍のゆでもやしのついた丸ちゃんのカップ・ヌードルをすすって腹ごしらえして、部屋を出た。時計を見ると午後七時十五分だった。日中降り続いた雨はすでに上がっていた。すでに風もなく夏の終わりの暑気が街の底に立ちこめていた。空模様は相変わらずの曇天、月も星も輝かない闇夜だった。空はすぐにまた泣き出しそうだった。 彼はマンションのエントランスで[405号 アケチ探偵事務所/明智小太郎]と自分の名前の書かれた郵便ポストのなかをのぞき込んで、今日も一日、一通の手紙も来なかったことを確認した。ポストの表札にこんなふうに書いてあると、いかにも彼が明智小五郎かなんかの親戚筋で、本物の私立探偵のように見えたが、別にそういうわけではない。明智小太郎という名前だけは本当だったが、私立探偵というのはウソで面白がってそういう表札を出しているだけの話だった。人から一度、「アンタみたいななんでも屋さんはなにがあるかわかんないから私立探偵とか興信所の調査員の肩書きの名刺とか作っておいた方がいいですよ」といわれたことがあり、一応、そういう名刺も持っていたのだが、なにか資格を持っているとか、公認の試験に合格したとかいうことではなかった。その場の都合で、勝手に私立探偵を名乗ることができるだけである。彼はまあ、家出娘探しを頼まれたり、浮気調査を頼まれたり、探偵まがいのことをやることもあったが、別にプロの探偵というわけではなかった。前にボストに貼っておいた松田優作の顔写真のシールはいつの間にか誰かに(たぶん、管理人に)はがされてしまった。マンションの管理人は彼が本物の私立探偵でないことを知っていて、いつもコイツはなにをやるつもりなんだという、小バカにした目で彼を見ていた。エントランスの郵便ボストに探偵事務所の表札を出しているのも快く思っていなかったが、なにしろ、彼は三年ごとにこのマンションの理事会の会長を務めていたのである。というのは、マンションは全部で二十ほどのワンルームや1LDKがある小さなマンションだったが、ほとんどが賃貸の利用者で閉められていて、持ち主で実際にここに住んでいる人間は三人しかいなかった。そして、三人とも独身の中年男だった。それでその三人で、一年交替で理事会長を務めさせられていた。だから、管理人も理事会長には強いこともいえない、といういう力関係の話だったのである。彼はこのマンションの理事会の会長ではあったが、彼あてに届く郵便物はというと、全然偉くなくて、たいてい、ガス、電話、水道、電気、NHKの放送料金などの引き落としの通知の葉書、それに税金の督促状、たまに原稿料の支払い明細書、デパートのバーゲンのお知らせなどだった。表書きが手書きの郵便物など田舎の親戚からの季節の挨拶状、年賀状をのぞいたらほとんど来なかった。公共料金の徴収係だけが、彼がそこでそうして暮らしていることを忘れずにいるかのようだった。彼は自分のところの郵便受けのポストに入っている夕刊新聞を無造作に抜き取り、それをポケットにつっこんで、本牧通りまで出てタクシーを拾った。新聞のその夜のトップ記事は、この国の失業率がついに四・五パーセントを越えたことを特報していた。戦後最悪であるとの文字が新聞の版面の上で踊っていた。戦後最悪もなにも一九九九年の時点で、失業者の実数はおよそ600万人あまり、彼が所属する世代、団塊の世代の男たちの不運はあのころから始まったのだ。二十一世紀の初頭の調査ではいわゆる中高年層の成人男子の実に十三パーセントが定職を失ったり、日銭仕事を探して、その日暮らしをつづけていた。このことを政府は非常に問題視して、なんとかならないものだろうかと苦慮していると報じていた。まったく、本当になんとかならないものだろうか。雑誌ライターまがいのことはやっているが、自慢できるような仕事をしているわけでもなく、肩書きは明智探偵事務所の所長と立派だったが、安定した収入をもたらす定職と呼べる仕事もなく、世の中のどこの会社にも自分が座るべき椅子もなく、所属する班も課もないヤツ、それでいていつも金に困っているヤツ、それが彼だった。そういう人間を失業者というのなら、紛れもなく、彼はその失業者の代表的な一人だった。生活も地味にして、和牛をアメリカ牛やオーストラリア牛に代えることはできなかったが、マグロの刺身を食べるときも本トロはやめて赤身と決めていたし、フカヒレやアワビなどはなるべく食べず、質素な食生活だったが、彼の懐具合は赤字続きというか出血の止まらないけが人みたいなもので、本当に大変だった。しかも、わがままなことにつとめ働きはやりたくない、会社勤めをしようとすると全身が痙攣して働けないまともに身体が動かなくなるという、初期の乖離性神経症患者でもある(というふうに自分では思っていた)のだから始末に負えなかった。彼は自分のことを、単なる失業者であるばかりではなく、そもそもが人生の敗残者だと考えていた。そして、そう考えている人間は彼一人ではなく、大勢いた。おそらく、その人たちもみんな、彼と同じようにひとりぽっちにちがいなかった。そして、人生がやり直しのきかないものだということを痛恨の思いとともに噛みしめているにちがいなかった。そう思うと彼の心は妙な具合に慰められた。そして、この日の新聞は失業問題の他にも、天候の異変ばかりが続いて世の中がどこか調子がおかしくなってしまっていることや、官僚たちが犯した犯罪の捜査がいよいよ大詰めを迎えて、今日明日にも何人かの役人と企業の役員が贈収賄罪で逮捕されるだろうなどということをかなり、断定的に報道していた。7時半頃にハミルトン・ホテルのいつもヘレンと会うのに使っている203号室にたどりついて、部屋に入って、歯を磨いてシャワーを浴びて缶ビールを飲んで、ベッドに横になっているうちに眠くなって寝てしまった。目をさますと目の前に彼女が立っていた。彼女に頬をたたかれて目が覚めた。時計を見ると9時過ぎだった。アハハハと女が笑う。元気でいたかと尋ねると、彼女はウンと答える。ふたりのあいだでそれ以上の会話は必要なかった。彼とヘレンが話さねばならないことは、じつはそんなになかった。彼女が明智のことを気に入っていて、いろいろな経緯があって、この男だったら自分の身体をどうにでもしていいと思っていることは確かだったのだ。しかし、それではかれらが恋や愛の感情で結ばれているかといえば、それはちょっと違っていた。彼女は目の前で、手際よく着ている衣服を脱いで、たじろぎなく全裸になり脱いで丸めた自分のパンティを彼の顔に押しつけたあと、また、ハハハと笑って身体を洗いにいく。全裸になったヘレンの身体の肉付きは日本の女たちとはまったく違っていてたくましかった。彼女の身長は172センチ、体重が66キロあった。背丈は明智と同じくらいあり、頑丈そうな、手足の発達したよく伸びきった肢体は荒れ果てた生活をしているにしてはよけいな贅肉はほとんどつけていなくて、美しかった。そして肉感的な、豊満な乳房とよくくびれた胸と腰を持ち合わせていた。肌理は日本の女より荒かったが、手のひらを当ててたわわな球体をした乳房をつかむと弾力がありそれはアジアの奥地で採れる淫らで謎めいた果物のようだった。じつは彼女の本当の名前は、というか日本名を明智ヘレンといった。彼女は自分のことを回りの人たちにヘレンと呼ばせていた。ヘレンはもともとの中国名を楊暁真というのだが、子供の頃に福建省から親戚を頼って台湾へ移住し、何年か前、親戚を頼って日本上陸を果たし横浜にやってきて、さっそくこの街に住み着いて新基軸の男と女の商売に参入してきたというチャイニーズ・ガールだった。二人が出会ったのは三年前で、そのときから彼女はずっと「あたしは二十七歳だ」といいつづけていたが、実はそんなに若くはなくたぶん絶対、三十歳をいくつか越えていただろう。いつもニコニコ笑っていて陽気で性格も明るかったが、そのときの身体の動かし方はラジカルで、どーにでもしてちょうだい的な、何度か男との修羅場をくぐってきた女が持つ独特のふてぶてしさがあった。いくときも彼が知っていたどの日本人の女よりも派手で開けっぴろげだった。ヘレンは確かにちょっと見はきれいで色気もあったが、どこか泥臭く、黙ったまま何も喋らずにいても、こいつは日本人の女ではないな、となんとなく分かった。エスニック、よくいえばエキゾチックだっだ。彼女はじつは明智の再婚相手で、一度は彼の妻だった女である。それで明智の苗字を名乗ることになったのだが、これには深い事情があった。彼女はもともとかわいい顔はしていたが彼らが出会ったころ、化粧はあまり上手ではなかった。それで、女房にしてあげたときに、元町にあった知り合いの美容室がやっていたビューティセミナーに通わせてちゃんとしたお化粧の仕方を先生から教わったのである。そして、もともと化粧映えする顔をしていたこともあって化粧をすると、エキゾチックないい女になるのである。顔の化粧はそれでよかったが、着ている服の趣味も悪くてファッションセンスだけはどうにもならなかった。なにを着せてもちょうど三十年くらい前の新宿の大衆キャバレーから抜け出してきたホステスのようなような感じがした。しかし、彼はむしろ、そのレトロな感じを好ましく思っていた。そうはいってもやはり、そのときの彼女はまぎれもなく一九九九年の夏、二十世紀も終わりの最後の時代の日本の横浜のチャイナタウンで生活している女だった。ヘレンは、この頃、中華街の北側のはずれにあったパイロン(白龍)というカラオケハウスの従業員だった。日本語はカタコトしかしゃべれない。本業は一時間あたり千円(途中から4千円になる場合もある)で酔客を相手に歌唱指導をするおさわりなしのノーパン・カラオケ・コンパニオン(場合によっては触らせることもあるらしかった)だった。これは彼女たちが思いついた日本の男たち相手の新商売なのである。彼らはある夜、というか真夜中に武智が一人淋しく中華街をうろついていたときに知り合った。ラーメンを食いに寄った行きつけの中華料理屋(もうなくなってしまったが、興菜楼老正館という、いかめしい名前のネギそばがうまい上海料理の店だった)でテーブルが相席になったダサくてけばいカッコウをした二人組の女に、店を出たところでしつこくカラオケに誘われたのである。彼の方もこのときはなんとなく人淋しく、この女たちならまあいいやというようないい加減な気分で誘われるままにパイロンに連れていかれて、いっしょにカラオケをやって遊んだのだ。とんでもない料金を吹っかけられるのではないかと心配したが、そうでもなく、三千円取られただけで、女二人を相手にして、真夜中にカラオケで女ふたりを相手に一時間遊んだ値段としては格安だった。それがヘレンとアイリーンだったのだが、店の風俗の仕掛けとしては客が歌をうたっている途中で同席した女から「別料金になるけど、パンティ脱いでもいいか」と聞かれ「いい」というとそこからテーブルチャージが一挙にバーンと上がる。これがノーパンカラオケ、猥褻物陳列罪違反でピンクビジネスの領域の話で、もちろん非合法なのだが別仕立てのチップが発生して相場が一時間五千円になるのだ。もちろん店もそのことはわかっていていて、本人たちが勝手にやっていることという話になっていたが、じつは店長のお墨付きをもらっていて、千円が店の取り分で、残りの四千円が彼女たちの稼ぎになった。この秘密の趣向をおもしろがる男たちがけっこういて、店は繁盛していたのである。客が別料金を承諾して話がまとまって、女がオーデコロンをたっぷり振りかけてあるパンティを脱ぐと、あたりにプーンとなまめかしい匂いが、漂う。そういう状態で、ちょこっとだけ股をひろげて座っている女の子に「ここからは一時間五千円よ」といわれると、たいていの男たちは「ウン」と答えるのだ。それで、そのかわりに客は女のアソコを見ながらカラオケを楽しめるという仕掛けだった。カラオケの最中に女のアソコを見る必要があるか、という問題が残るのだが、これがけっこう好きな男たちにこっそり面白がられていたのである。一応ルールがあって、客は店内で上品に振る舞わなくてはならず、コンパニオンには直接タッチしてはいけないことになっていた。女が自発的にパンティを脱いで、そのあと暫く時間が経過して、客観的な恋愛関係が生じて両性が合意すれば、なにがあってもやむを得ない。女の方もどの客とどこまでつきあうか、相手を選べるし、両性の合意のもと、恋人同士になったら、後は互いの自由意志の問題で、その結果、男が女にお小遣いをあげることもあり得る、いっしょに外出して、そのヘンのホテルでセックスすることもあり得る。これは立派な恋愛であり買春ではない、つまり、そういう理屈だった。そのとき、彼もその趣向を聞かされて、驚いたのだが、それでもその時、アイリーンにあけすけな調子で「パンティを脱いでもいいか」と聞かれて「だめだ」といったのだ。それは考えてみると、相手がアイリーンだったからそう答えたのかもしれない。あの時、ヘレンに独特のしゃがれたれた小声で囁くように同じことをいわれていたら、その場で頷いていたかもしれない。というのはアイリーンの方は松竹梅のランクわけでいくと並の部類だったが、いったようにヘレンは特上のいい女だったのだ。それで、そのときはたまたまフトコロの景気がよかったので、店を出るとき、奮発して勘定に上乗せして、彼女たちがパンティを脱いだ分のチップをつけて一万三千円払ってあげた。ふたりとも嬉しそうだった。横浜中華街で日本の男相手に働いている彼女たちの夢は、できるだけ早いうちにできるだけ沢山のオカネを貯めて、福建の故郷の谷間の一等地に少なくとも日本円で一千万円はかかっている、四階建てでエレベータ付き、上海あたりによくあるビルディングのような豪壮な家を建てて、そこに両親や兄弟家族を住まわせて周囲の人たちをいっぺんに見返してやることだった。彼女たちは日本へオムコさん捜しに来たわけではなかった。彼女は日本人の男相手の性に絡ませて日本の女が見る甘ったるい夢なんか一切見なかった。ドライだったのだ。それでもたぶん、明智は彼女たちに気に入られたのだろう。彼がヘレンと結婚するにいたる経緯には、それなりの流れというものがあった。パイロンで仲良くなり、携帯の電話番号を交換したら、翌日、朝、もう電話がかかってきて、また店に遊びに来ないかと誘われた。そのときは忙しくてことわったのだが、それから頻繁に電話してくるようになった。出稼ぎに来た中国娘のお眼鏡にかなったというのも変な話なのだがヘレンは明智のことを「ニホンジンのなかではベストでスキ」だといった。そして、たどたどしい日本語と中国語のチャンポンで「ウォーシャンアケチ」〈明智さん、ネエ、会おうヨ〉と携帯に電話をしてきて「遊びにきてよ」と誘うのだ。英語で「You have a good bivration once I never knew」〈わたしが今まで知らなかったいい感覚の持ち主〉というふうに言われたこともある。彼女がきれいで可愛い女だったこともあり、彼はこの女は面白いと気に入って、ときどきカラオケをしたり、飲茶をしたりして遊んでいたのである。そんなある時、彼女が電話してきて「困ってる、相談に乗ってくれないか」という。それで中華街の北門近くにある『月町』というスナックに来てくれといわれて会いにいったら、ヘレンは彼の顔を見るなり、真剣な顔で中国語でなにかをまくしたてるように喋った。ここで明智は、このあと、彼自身も真夜中の駐車場の管理人のアルバイトとか紹介してもらって、イロイロと世話になる月町のオバさん、ママの竹美ちゃんに会ったのだ。竹美ちゃんは彼より四、五歳年上で、このころ、五十代の後半だった。しばらく会っていないから、いまのことは分からないが、いまはもう七十を超えるおばあさんになっているはずである。彼女も若いころはきれいだっただろうなと思わせる、やせた、気っ風のいい女だった。竹美ちゃんはヘレンの中国語のセリフの通訳をしてくれてこんなことを言った。「誰か知り合いの日本の男はいないのかってこの子に聞いたのよ。そしたらアンタのことをいいだして。この子のビザが切れそうで、このままだと捕まって、台湾に強制帰国させられちゃうのよ。アンタ独身だったら、書類だけでもいいからこの子と結婚してやってくれないかしら。それがだめなら住民票だけでいいからアンタのところにおいてやってくれないかしら。そんなことするのはホントは犯罪なんだけど、人助けだと思って内緒で助けてあげてくれないかしら。チキンライス、ご馳走するから」婆さんの日本名は竹田美子で、もうひとつ李美子という朝鮮名を持つ在日の韓国人だった。彼女はこの町で働くチャイニーズ・ガールやコリアン・ガール(在日の女の子たちもけっこういた)たちの後見人で困ったときの相談に乗る無料無資格のカウンセリング・アドバイザーだった。竹美ちゃんは「助けてやってよ」と彼に頭を下げて、店の美味しいオムライスをごちそうしてくれた。彼はいくらなんでも偽装結婚なんてカンベンして欲しい、バレたら警察に逮捕されちゃうと考えて話を断ろうとしたら、いつも笑顔しか見せないヘレンが泣きそうな顔をして彼を見つめた。その顔がかわいく、この女ならカミさんにしてやってもいいやと瞬間的に思った。明智はとにかく、いい女が好きなのである。警察に逮捕されちゃうかも知れなくてもこの子を助けてあげようと思ったのはそのときに「オムライスにビールもサービスしちゃう」といわれておごってもらって一杯だけ飲んだビールのせいだけではなかったが、ヘレンについでもらったビールはよく冷えていて、美味しかった。彼は酒に弱く[若い頃はそうでもなかったのだが]、アルコールが入るとすぐに、冷静、客観的な判断力をなくしてして、どんな女でも美人に見えてしまい、なんでもいい、現実なんてどうでもいいと思いはじめる悪い性向があったのだ。このときも、ほだされたわけではないのだ(たぶん、ほだされたのである)が、絶対にだめだという理由もなにもなく、ヘレンはとにかく美人だったし、半分スケベな思惑もあり、それならそれでもいいやという気もした。それでその話を承諾してあげてヘレンと結婚することにして区役所に結婚届を出しにいってあげた。そして一応、妻ということにして住民票を作ってあげた。お礼を、というから、彼は「別にいらないよ。助けてあげる」と答えた。そのあと、彼女は一度だけ明智のマンションに遊びに来たが、そのときにカタコトの日本語と英語と中国語をまぜこぜにしてしゃべったいろいろな世間話のなかで、彼が離婚の経験者で、しかも前妻との離婚後、いっしょに暮らしていた愛人に死なれた前歴を持ち、それ以来独身をつづけていることを知ると「ソーリー、ゴメンね、シェシェね」といってそれからは絶対に家には遊びに来なくなった。そういうことがあり、ヘレンが正式に日本国籍を取って四ヶ月ほどして、彼らは離婚した。彼女が離婚届を持って訪ねてきたので、ハンコを押して署名してあげると、その書類をヘレンは自分で市役所に出しにいった。そのとき、彼女は自分の名前はもう中国名にはもどさない、横浜で「明智ヘレン」という名前で暮らしていくの、といった。日本人になる、というのである。届けを出し終わったあと、ヘレンから電話があり、石川町の駅の改札のところで待ち合わせた。彼女は「ご飯食べようよ、わたしがおごるから」といって、彼を自分が気に入っているカレー屋さんに連れていってくれた。そして、ビールを頼んでふたりで乾杯して食事した。それから彼女は彼の腕をとってそのままホテルに誘った。ホテルのベッドでヘレンは裸になって彼にしがみついてしばらく声を押し殺して泣いていた。こういうふうにしてしか出会えなかった男と女の宿命に涙を流したのだろう。ヘレンと明智はその日、初めてセックスした。離婚が成立した日に結ばれた男女というのも珍しいだろう。いずれにしても、彼女はそのころ、明智ヘレンという日本名を自分の一番の宝物のように考えていて、彼が彼女に明智という苗字をあげたことを非常に感謝していた。その名前は彼女のプライドの一部になっていた。結婚も半ば無理やり頼み込んだもので、愛されて妻になれたわけではなかったから、思いは複雑だっただろう。離婚したあと、何となく愛人関係が出来上がっていったのは、ふたりにとっては自然なことだった。本当のところ彼女は、出来れば彼の妻になりたかったのかもしれない。ヘレンは黙っていると、まずまず気品のある顔立ちをしていて、かれはそれが気に入っていた。エキゾチックだが、いわゆるそのへんをウロウロしている中国人には見えなかった。しかし、どんなに気品のある、きれいな顔立ちをした女でも、セックスするときは気品はなくなる。セックスが人間の、獣の部分の濃密な愛の交換(交歓)であるという愛の世界からの定義からすれば、まさしく、彼と言葉のよく通じないヘレンとくり広げたセックスは国際的な密貿易のようなものだった。そこでは殺伐とした牡と牝との生の苦渋がやりとりされていた。けれども、その時の互いの相手が異国人で相手の気持ちをよくわかりきれない状況は彼にとっても(たぶんヘレンにとっても)その方が都合がよかったのだ。彼はそれまでの経験から、女はどんな女でも三回、同じ男とセックスすると、最後は必ず結婚したいと思い始めるものだと考えていた。刹那的に、出来心で男と女が一回だけすれ違うようにセックスする、そういうこともあるだろうが最初の火花の散るような出会いと甘い性の記憶に味をしめて、二度、三度と身体を交えると、口でどんなにその場限りの愛みたいなことをいっていても、未練がある限り男の側にも女の側にもささやかな展望がひらかれる。つまり、お互いに深入りし始めると男の方は相手の女の心まで欲しくなるし、女の方は、男の生活を自分のものにしたくなる。それでだんだん身動きがとれなくなる。そのうち、まわりにばれる。それはもう、男と女というのはそういうものなのだ。それがいやだったら、セックスするのを一度だけでやめておくか、その都度、金を渡して売春行為にしてしまうか、どっちかしかない。彼女はヘレンなどと名乗って気取っているが、いくら日本で生活していくことに決めたといっても、要するに中身は中国女の楊暁真なのである。彼女は日本の独身の女たちのように一回二回本気でセックスしたからといって、やっぱりあんたの女房のままでいたかったなどとは絶対にいわない。いっしょに暮らそうなどともいわない。おそらく、彼が誰か別の女といっしょにいても、彼女はそういうものなのだと考えて、その女が中国人でなければ焼きもちを焼いたりということもしないはずだった。そういう過去の歴史があって、それから時々、ふたりは電話をかけあってそのへんのラブホテルで落ち合い、ほとんど会話を交わすこともなくセックスをするというヘンな仲になったのだ。彼はこの関係をけっこう気に入っていた。そして、これも愛だと思っていた。たぶん、彼らはこころの深いところで互いを理解し合い、愛し合っていたのだろうが、正直なところ、明智にも自分のヘレンへの思いが愛なのか遊びなのか、よくわからなかった。若い日本の娘たちの身体はそのヘンのグラビアアイドルを見てもわかるようにどの女も胸だけは大きいのだが、身体は棒のように細く、上質の釉薬を塗ってから焼き上げたような、乱暴に扱うと壊れてしまいそうな繊細な陶磁器のような肌理をしている。彼がよく知っていた身体の持ち主たち、何人かの日本の女たち、麗子やミキ、そのほかの女たちの裸体に比べると、とにかくヘレンの身体は基本の体格が大きく、頭蓋骨の額の部分の拡がりも広く、骨格自体が日本人の女と太さが違っていた。中国の女がみんなこんな体格をしているというわけではなかったのだろう。もちろん、日本の若い女と同じように線の細い女もいるだろう。彼はそんなに何人もの女の実物の裸を知っているわけではなかったが、ヘレンが裸になって両股をひろげた時のアソコのレイアウトはなんとなく日本人の女と違うという気がしていた。ヘレンだけの個性なのかも知れないが、完全な上付きというか、ひとことでいうと、〈あれ、こんなところにこんなモンがあるよ〉というような感じなのだ。そう何人もの実例の情報があるわけではないが、若い娘同士で比べても腰部の作りは中国や韓国、タイなど、大陸の女たちの方ががっしりしているのではないか。彼女は、皮膚の色も日本人の女の白い皮膚にアジアの奥地の酸性土を混ぜ合わせたような浅黒い肌をしていて、下腹部の陰毛も一本づつが太く、剛毛と呼んでもおかしくない、まるで豚毛のブラシのようにごわごわした感触をしていた。それは、もしかしたらアジアを細分化していったさまざまのモンゴロイドの起源と系統のどこに属する人間なのか、ということに関係があるのかも知れなかった。漢民族はアジアの大小さまざまの古代の民族が何千年という時間をかけて大同しさまざまの文化がブレンドされてできたといわれているが、あるいは、ヘレンには西方の異端の部族の血が濃厚に残っているのかも知れなかった。彼にはヘレンの出自についてもアジアの民族の起源についてもそこから先はなにも分からなかった。きっとその他にもヘレンについて彼が知らずにいたことはそのほかにもいくつもあったのにちがいない。彼はヘレンが本当のところ、あそこのカラオケハウスで幾らくらい金を稼いでいたのか知らなかった。随時、気に入った客の相手をして小遣いをせびっていたとか、あるいは誰か日本人の金持ちのパトロンがいるらしいとか(明智小太郎は金持ちではなかったが、これは彼のことかも知れなかった)、同じ職場に年下の中国人の彼氏がいたとかいなかったとか、そういう言葉がちゃんと通じないと理解し合えないようなことについてはなにも知らなかった。彼女が彼を愛していたのかどうか、愛しているとしたらどんなふうに愛していたのか、二人とも英語が下手、ヘレンは日本語も下手、中国語は彼の方がしゃべれないという関係のなかで、そういうことについてはわかりようがなかった。彼は彼なりの愛の方法で彼女を愛しているつもりだったが、彼女の心がわかったような気がするのは二人でカラオケでデュエットでふるい歌謡曲をうたっている時だけだった。ヘレンといつも、二人で組んで遊び回っているアイリーン、まあ、アイリーンというタマじゃないのだが、本人たちはそう呼んでいた。彼女はヘレンについて「She always want to select the partner for make love」〈誰とでもやるって子じゃないのよ〉といっていたので、セックスする相手を選択する権利だけは手放さずに体を売ろうというのだろう。銀座のホステスみたいなカンジで、きっと気に入った男の相手だけしていたのだろうとは思っていた。彼自身のそういうことについて書くと、彼は自分の過去のいきさつからいっても自分から積極的に日本人の女を相手にして、自分の激しい思いを女の心のなかに流し込むような、相手の心の襞のなかに自分の性器を強引に差し込むような、それでいながら身体がつながったとき、自分自身のこころが優しさと安らぎに満たされるような身体の交わりは、もう不可能だろうと思っていた。これには込み入った事情があった。だからこそ、いつも彼の性交の相手はヘレンなのだ。この流れの話とは全然別で、たまに相手をする谷口千里子は小遣いはせびられるが、とにかくオーラというか、エネルギーの強い娘で、いっしょにいて、セックスすると自分のバッテリーが充電されているような感覚があった。彼女については、別段で話を構えよう。そんなわけで、いろいろと込みいった事情はあったが、正直なところ、彼にとってヘレンはかわいい存在だった。満月の夜とか、嵐の夜更けとか、そういう気分の時に連絡すると、だいたい彼女の方も「あたしもちょうどあなたのことを考えていたの」といった。電話しようかなと思っている時に、彼女の方から電話がかかってくることもあった。彼の気持ちのなかには、男と女でいるのだったら別れた妻の麗子のような甘ったるい雰囲気の女はもうちょっとカンベンという思いがあり、いまの自分には荒削りで、獣っぽいバイオレンス・ヘレンの方がぴったりだと思っていた。セックスの時、ヘレンはまずシーツの上に全裸で仰向けに寝ころんで、前を隠すこともせず、愛撫を受ける。そして、小声の中国語で「ジョファニー、ウォシーシーファン」などとわたしの耳元でささやく。そして、急に無口になる。ヘレンにいわせれば、それは女が中国風に恥ずかしがっているのだ、チャイニーズ・ガールがそれを始める時のマナーなのだという。裸の身体を絡ませてゆっくりと、すぐでたらめにアクセルを踏み込むなどということをせずに、エンジンを暖め、身体の芯の熱さを身体中にいきわたらせるように、身体の末端の部分までその熱が届くようにゆっくりとキスしてあげる。すると、ある地点からとりすましていた表情が真剣になり、性欲動の沸点のような場所を越える。それから彼女のアソコにゆっくり指を入れる。すると、わたしの指先から彼女に[心の力]、つまりエネルギーが流れ込みはじめる。それで、わたしとヘレンのあいだではいま、イイコト進行中なのだが、ここで耳慣れない言葉だが、[心の力]という言葉について彼なりの説明しておいた方がいいかもしれない。じつは彼にも、そういう力が絶対的にこの世の中に存在していると断言する自信もなかった。自分がそういう力の持ち主だという自覚もなかった。しかし、彼が出会った何人かの人間たちは、彼がそういう力の持ち主だとハッキリと告げたのだった。実際にその力は存在し、その力は特殊であり、彼にも訓練次第でその力を自在に使いこなせるようになる、ということもいったのである。「あなたは自覚が足りない。自分のその力をはっきり自覚して、もっと自在に[力]を操れるようにならなければいけない」といったのだ。高杉貞顕は彼に向かって「あなたの力は特別だ」といったが、そういったのは本当のことをいうと、高杉だけではなかったのである。その力を彼が実感するのは、一番卑近なケースでいえば、ヘレンとセックスするときなのだが、これはもしかしたら、特別な力などなんの関係もなく、男と女のそういう時のやりとりの、どこにでもある型のひとつなのかもしれなかった。こういう話は、その場で別のケースと臨床的な比較をするわけにもいかず、それがそうなのだという証拠もなければ、因果の証明も不可能なのである。そうかもしれないとそう、思いつづける、それだけの話である。彼は彼女を抱きしめて、そして、しばらくそのままにしたあと、ゆっくりと耳たぶにキスしてあげる。それから、ゆっくりと彼女の中に入れた指を前後左右に動かす。しばらく我慢しているが、彼女は突然、背筋をふるわせ、一瞬のうちにタガがはずれたようになって、しがみついてきて、かすれた声で「ライ」〈来て〉と彼の耳元でささやくようにいうのだ。その時には彼女はもう、明智ヘレンなどという気取った名前の女ではなく、紛れもない楊暁真という中国名の方がはるかに似合う福建省の田舎で育った野性の女に戻っている。そして、身体中から大量の生のエネルギーを放射しながら、野生の本能をむき出しにしてしがみついてくるのだ。それからあとは、ほかの男女とやることが一緒なので、描写は省略しよう。あれこれやって最後に、ヘレンは、自分がエクスタシーの波に飲み込まれると、なにがなんだか分からなくなって大声を上げるタイプだった。そして、誰か人がとなりの部屋とか廊下とかで聞き耳を立てていたら、絶対にその人に聞こえてしまうだろうというような叫び声をあげて、行為を終わらせると急に夢から醒めたようになって、彼の身体の上で馬乗りになった姿勢のままでわずかな瞬間だけ恥ずかしそうにする。それがとても可愛かった。そして、まだつながったままの身体を重ね合わせて、彼の耳元にかすれた声で「チェンバオ」とささやく。〈抱いて〉と言っているのだ。彼が下から腕を広げて抱きしめてやると、しばらくそのままじっとしている。そして、頭の上のベッドランプとラジオのスイッチをいじり、ラジオのスイッチをぱちんと押す。この時、ラジオから聞こえてきたのは、テレサ・テンが昭和六十年に歌ってヒットさせた『愛人』だった。 ♪あなたが好きだからそれでいいのよ たとえ一緒に街を歩けなくても この部屋にいつも帰ってくれたら わたしは待つ身の 女でいいの ♪尽くして 泣きぬれて そして愛されて 時がふたりを離さぬように 見つめて 寄り添って そして抱きしめて このままあなたの胸で暮らしたい♪ ♪めぐり逢い少しだけ 遅いだけなの 何も言わずいてね わかっているわ 心だけせめて 残してくれたら わたしは見送る 女でいいの ♪尽くして 泣きぬれて そして愛されて 明日がふたりをこわさぬように 離れて 恋しくて そし会いたくて このままあなたの胸で眠りたい♪ 時計を見ると、この時、午後十時半三十二分だった。ヘレンが部屋に現れたのは九時半だから一時間ぐらい、いちゃいちゃとセックスしていたことになる。テレサ・テンも懐かしい名前だった。アジアの歌姫になることを夢見て日本の音楽市場にテレサ・テンがデビューしたのは、たしか昭和五十年のことだった。四十年前だ。彼はこのとき、まだ、二十七歳だった。そのころ、明智とテレサ・テンは仲がよかった。レンタカーを借りて別府温泉から広島まで、晩秋の阿蘇山を回って、二人だけでドライブしたことがあった。テレサ・テンは中国名を登麗君というのだが、この頃のテレサはむっちりと太って大きなお尻をしていた。彼女もヘレンと同じで、エキゾチックといえばまあそうだが、そのころは悪いけど実はあか抜けないちょっと泥臭い感じの女の子だった。テレサはこのとき、年齢はたしか二十歳くらいのようなことをいっていたと思う。それは、こういう話から始まった。当時テレサが所属していたWプロダクションの担当マネジャーだった渡部要三がただ(ギャラなし)でいいから彼女に仕事させてあげてくれないか、といってきたのだ。彼女を連れて、彼に会いに来た。それで、連絡を取りあうようになり、日本酒のコマーシャルを作るという話が来たときに、彼女を起用したのだった。この仕事のスポンサーは兵庫の日ノ出酒造という日本酒メーカーで、神戸から別府への瀬戸内海を通り抜ける定期航路の客船のなかで海の夜明けの海の日の出の場面をつかって「日出盛」という日本酒のコマーシャルを撮影した。そのコマーシャルの主題歌をギャラなしでテレサに歌わせる、そのかわり彼女の歌をCMソングとして流すという、考えた仕掛けだった。このころのテレサはまだ日本に来たばかりで日本のこともよく知らず「日本の海の船旅がしてみたい」といって、ロケについてきたのだ。彼はこのとき、東京で別件の打ち合わせがあるため、初日だけ瀬戸内海ロケに付きあって、その別件の打ち合わせに間に合うようにスタッフと別れて別府から広島までレンタカーで移動して東京に戻ならければならなかったのだ。スタッフは船に留まって、別府から神戸に戻る船のなかで、日没の場面を日の出に摸して、カメラを回すことになっていた。わたしは別府から広島まで、レンタカーで移動することにしていた。このころは新幹線は広島までしかいっていなかったのである。テレサはわたしがひとりだけで車で東京に帰ることを知って「アタシもタケチさんのクルマにノセてってクダさい」といいだしたのだった。この時代のテレサは要するにまだ小娘で、『今夜かしら明日かしら』という奇妙なタイトルのポップスとも歌謡曲ともつかない、余り出来のよくないデビュー曲を一生懸命にあちこち売り込んであるいている最中だった。新曲を準備していて、それが日本酒のコマーシャルのBMに採用されたのだ。これがいい曲で、彼女の日本での最初のヒットになった『空港』だった。こういう歌である。 ♪何も知らずにあなたは言ったわ たまにはひとりの旅もいいよと 雨の空港 デッキにたたずみ 手を振るあなた 見えなくなるわ どうぞ帰って あの人のもとへ わたしはひとり 去ってゆく♪ そのころのテレサは地味な努力家で、日本語の教科書を一時も手放さないような勉強家だった。彼はこの二年前の昭和四十八年、二十五歳のときに十五歳の高校一年生のときから十年間付き合った、同い年の桜木詢子と別れて、まだ二十一歳でこの年短大を卒業したばかりだった萩原麗子と知り合って麗子と昭和四十九年に結婚し、長女の真木が生まれたところだった。あのころは何人も台湾や香港の歌手が日本にやってきた。NTV紅白歌のベストテンで『雨の御堂筋』を歌って衝撃的にデビューした欧陽非非は色気の塊のような女で、彼もWプロの宣伝部にいた藤田修とかに連れられてわざわざ渋谷公会堂まで本物を見に行ったりして、多少の妄想も働かされた。その他にそのころ、中国からやってきた女性歌手にはアグネス・チャンとか、優雅とか他にもプリシラ・なんとかとかいう歌手がいて、そういう娘たちもちょっとはエキゾチックだった。しかし、そのときは、彼は彼女たちをそんなにステキだとは思わなかった。ただ、それから十年くらいしてから、赤坂プリンスホテルかなにかで開かれたパーティーに呼ばれてテレサと再会し、すっかり大人のいい女になった彼女に「コタローさん、テレサ、あのコロ、コタローさんのコト、スキだったのに」などと告白され、どぎまぎした記憶がある。年月が経過し、成熟した、いい女になった彼女はいい歌をいっぱい歌い、日本の女の愛と哀しみをいっぱい歌いながら、ある日突然死んでしまった。そして、テレサが昔いた場所から姿を消したように、彼もかつての住みなれた世界を捨てたのだ。歌に聞き耳を立てていたヘレンが「アイレン」とぽつりと呟いた。日本語の愛人はアイレンと読む。『愛人』は中国人にも人気があるカラオケの名曲である。ヘレンもこの歌がどういう意味の歌か知っているはずだった。そして、死んだミキもこの歌が好きだった。ヘレンが裸のままで彼にしがみつきながら、歌を聴いていたのはほんの短い時間だった。やがて身体を起こし、バスタオルを身体に巻きなおして、バスルームに消えた。そして身体を洗い、化粧をし直して、バス・ルームから出てくるとわたしの頬におざなりなキスをして、たちまちしたたかな街の女の顔を取り戻して、極端に冷淡そうな表情を彼に向けていう。「Now Kyoshiro, it's finished my lovetimes, and then see you again」〈それじゃ、ね〉そして、次の戦場を目指して素早く移動する戦士のように、疾風のように姿を消した。店に戻ってもうひと稼ぎするのだろう。ヘレンが部屋からいなくなった後、彼はなんとなくそのことだけのために人にであって、用意されていれた料理を配慮もなにもなしに食べちらかしてお腹がいっぱいになったような、独特の、孤独な、後味の悪い思いに浸りながら一人で惨めに部屋代を払い、ホテルを後にした。もともと自分をバカだと思っていたが、自分のバカを念押しして、舌打ちしたくなるような自己嫌悪にかられながら、夜道をトボトボ歩く。男は誰でも射精し終わると別人格に変わるというが、それは明智も同じだった。彼の場合、女の前で急に不機嫌に振る舞い始めるのは相手に悪いと思って、そういうふうに態度を豹変させたりするところは見せないようにしていたが、射精が終わると猛烈な自己嫌悪に駆られる。それはほかの男と同じだった。身体のエネルギーの話でいうと、ヘレンに燃料を吸い取られて、心のボンベが空になっている、ということなのかもしれなかった。夜十一時を過ぎると、本牧のあたりの車の通りはめっきりと少なくなる。彼にとっての十一時とか十二時という時間はふだんならば、もうベッドのなかでいいコで眠っている時間なのだ。明智はどこかで空車のタクシーに出会わないかと思いながら、闇の立ちこめる殺風景な何かの工場の建物や英語の看板をかけたままのしもたやの続く大通りを山手の自分の家の方に向かって歩いた。そして結局、その夜、ホテルから自分の家まで星ひとつない暗黒の空を見上げながら、歩き通した。山手の駅から真っ直ぐに来た道を、元町から根岸の方に抜ける本牧通りをわたってそのまましばらくいくと、三丁目の信号、小学校の看板があって、それを左に曲がると坂道になる。だらだらとしたその坂道を登ると右手にキリン公園と呼ばれる小さな公園がある。その公園の後ろにある白い建物が彼の住んでいるマンションだった。そこは横浜の山手、海に向かって広がる港が見える丘公園と外人墓地のある山の斜面のちょうど反対側に当たる場所だった。夜中に坂道を歩きながら見上げる港が見える丘公園はなにか魔性のものでも棲んでいそうな黒い森のように静まり返っていた。この坂道を登り詰めれば公園を通り抜けて「外人墓地」、降りれば元町、そして海である。彼がこの千代崎の谷間の斜面に建てられたマンションに住みはじめてから、もう八年が経過していた。マンションに帰り着いた時は真夜中の十二時を過ぎていた。エレベーターで四階に上がって部屋のカギをあけ、電気のスイッチを入れると、よぼよぼに年老いた小型犬がよたよたと、犬小屋替わりになっているクローゼットの奥から這い出してきて、背伸びをしながら明智を見上げて出迎えた。犬は名前を「ラッキー」という。この犬もまだ若かった頃は、彼が部屋に戻ってきて、「ラッキー、来い」と呼ぶと部屋の奥からぴょんぴょん飛び跳ねながら、足下に駆けつけて、時間が何時だろうと散歩に出かけようとせがんだものだった。それがすっかり年老いてしまったのだ。犬はシーズーで、祖父は日本一のチャンピオン犬という由緒正しい血統書つきだったが、なにしろもうこのころ、十四歳だった。去年の夏、背中の毛がひどく抜けたので暑気のせいでの抜け毛かと思って犬猫病院の医者に見せると、心臓が弱っているとのことだった。それ以来、医者からいわれたカロリー制限したドッグ・フードを食べさせている。獣医の話では小型犬の十四歳は人間の年齢に換算するとなんと八十三歳なのだという。いつ死んでもおかしくない年齢なのだ。明智がこの犬に初めて出会ったのは十四年前、ミキが一人で暮らしていた千駄ヶ谷のワンルームマンションだった。犬はもらわれてきたばかりでまだ生後3ヶ月しかたたない子犬だった。頭をなでてやると、キャンキャンと元気にほえた。死んだミキが飼っていた犬だった。ラッキーという名前も明智の命名だった。ミキの実家は浅草の不動産屋で何軒もの貸しビルを持つ資産家だった。彼は八年前に麗子と離婚して(というかミキが離婚の原因だったのだが)、ミキといっしょにこのマンションで暮らし始めたのだ。そこからラッキーもいっしょの暮らしが始まったのだった。ミキが交通事故で死んだのは麗子と離婚して二年くらいあとのことだった。離婚後、武智はすぐにミキと一緒に暮らし始めたのだが、世田谷のマンションの売却のことや慰謝料のことなどでごたごたしていて、ミキが死んだ時、彼はミキをまだ入籍してなくて、身分は同居人で内縁の妻だった。ミキが死んだ時、彼女の両親は、彼が彼女といっしょに暮らすようになってから正式に挨拶にいっていなかったこともあって、敵意をむき出しにした。過去に明智が原因で自殺未遂を引き起こした経緯があったから、ミキの親が彼を恨みに思うのは当然のことだった。そのこともあったし、そもそも彼女がずっと二十歳以上も年上の男といっしょに暮らしていたことを相当苦々しく思っていたのだ。彼女が死んだあと、突然父親がやってきて、二人がいっしょに暮らしていた部屋からミキの遺品からなにから、彼が買ってやった服やアクセサリー、二人で旅行した写真をまとめたアルバム、そういうものまで一切合切を持っていってしまった。この時、美紀の父親は明智を殴った。父親は明智と同世代だった。そして、後に残されたのは、始末に困るこの小型の室内犬だけだったのだ。それから、彼はミキの形見になってしまったその犬といっしょに、自分という人間がこの世の中に生きていたことを一人でも多くの人間に忘れてもらいたい、過去と因縁のつながらない新しい生活を作り上げなければと思いながら、ひっそりと暮らしてきたのだった。明智が一人で住んでいるマンションは間取りでいえば1LDK。広さは四十二平方メートルあまりあった。ひとりで暮らすにはまずまずの広さだった。男一人の所帯なので家のかたずけが悪く、ベッドルームに使われるはずの八畳ほどの部屋は図書室というか資料室のようになっていて、手放せなかった昔読んだ本が本箱に入って並んでいた。真ん中に一応ベッドは置いてあったが部屋のなかはたたんでない洗濯物や衣類、積み上げた本や紙袋で散らり放題にちらかっていた。明智が書斎にして仕事をしているスペースは、十二畳のリビング&ダイニング・ルームの南の窓に面した大きなテーブルだったが、そのテーブルの端に置いてあるファックス電話の留守番電話信号が赤いシグナルを点滅させて、誰かからのメッセージが届いていることをアピールしていた。電話は別れた妻の麗子からだった。 「今月分、たしかに受け取りました。有り難うございました。それで、毎年のことで言いにくいのですが、来月は摩耶の学費を払わなければなりません。九月の支払いは九十万円なのですが、全額というのが、大変なのも分かります。半分は何とかしますから、毎月のお金とは別途で五十万円だけ用意していただけないでしょうか」 麗子の声を聞いたとたんに、彼はいっぺんにうんざりするような現実に引き戻された。離婚したとき、明智の年収は二千万円には届かなかったが、一千七、八百万円はあった。月二十万の仕送りなんて、あのまま、会社を辞めたりせずに、自分の属する組織にいつづけて、広告制作の仕事をやりつづけていれば、なんでもないことだっただろう。子供の二人ある十年以上連れ添った妻を捨てたかわりに若い女を手に入れた。そして、妻への慰謝料を払うためにそれまで住んでいたマンションを売り払った。残ったのは節税用にといわれて、半分遊びで買って人に貸していた横浜のマンションだけだった。結局その、横浜の山手にある小さなマンションで彼はミキと二年間を過ごしたのだ。麗子のいうとおり、来月はもちろん、本当に大学の学費の支払期限なのだろう。去年もそうだったからそれはわかっている。彼女はそういうことでは嘘は突かない女だった。しかし、多分、全部が彼女のいうとおりというわけでもあるまい。必要な金額はおそらく、九十万ではなく四十万ぐらいだろう。彼女はそういう嘘はいう女だった。そして、残りを自分で工面するようなことをいっているが、実際に金を払うのは実家の父親、萩原高行のはずだった。この人は有名な詩人のムスコで、この人自身も有名な建築家だった。鎌倉山の急な山の斜面に、どうしてこんな崖の上に家を建てたんだというような家を建てて、そこで暮らしていた。それが麗子の実家だった。高行は資産家で、麗子が本当に困ったらしい声を出して「ちょっと困っちゃったんです。今月、摩耶の学費が都合つかなくて…」などと自分が立ち至ったその困った事情をあることないこと取り混ぜて相談すれば、高行だったら、かわいい孫の学費ならばと相好を崩して「そうかお前も大変だな」とかいいながら、麗子には彼女のいいなりに五十万円でも百万円でも融通するはずだった。そして、たぶん彼が仕送りするお金も高行が与える金も、麗子と真木と摩耶の女三人の優雅な母子家庭の生計を支える足しになるはずだ。まったく女たちはたくましい。麗子だってなんにもせずにぶらぶら遊んでいるわけではなく、中年のオバサンたちが見る雑誌の和服なんかのページのモデルでいまでもときどき見かけるのだから、売れっ子かどうかは別として、どこかの事務所に所属して昔のモデル仕事を再開しており、どのくらいの実入りかは別の話として、まるきり不収入というのではないはずだった。毎月の養育費も麗子が彼との離婚を承諾したときの約束がそうだったのだから、本人としてはいわれるままにするより仕方なかったのだ。毎月の子供のための養育費といわれると、それをシカトして済ませられるほどの図太い神経は持ち合わせていなかった。よく離婚後の慰謝料や養育費を払わないでうやむやにする男がいる。彼も金策に困りながら、貯金を崩すのが嫌で支払いを滞らせたことがあった。その時、娘たちが夢枕に立って、金に困って泣いている夢を見た。娘たちはその夢のなかではまだ幼い少女のままで「パパア、パパア、ウェーン、ウェーン」といいながら、地獄絵のように汚れた暗黒のなかに身体を半分浸けたまま、両腕を彼の方に差しのべながら声を出して泣いていたのだ。その夢を見てから彼はなにがあっても、たとえ自分の貯金を削っても、娘たちの養育費だけは仕送りを遅らせることのないようにしていた。ミキが死んだあと、彼は長年勤めた広告代理店を辞めた。もらった退職金で会社からの借入金を返済し、高い金利で払い続けていた山手のマンションのローンの精算をすると、もう後にわずかな金しか残らなかったが、その毎月の娘たちのためのお金だけは自分なりの才覚を働かせて、なんとか工面しつづけてきた。ミキに死なれ、そのミキの死んだことを知った麗子に彼は「もちろんご愁傷様で同情はしてるけどコタローさん、それは罰が当たったのよ。いい気味だとまではいわないけれど、これであなたとあたしはやっと対等になったのよ」といわれた。多分、麗子のいうとおりなのだろう。彼の、ミキがあとに残したおいぼれた小型犬との二人暮らしは惨憺たるものだった。しかし、彼を信じて生きてきて彼に裏切られた麗子が娘二人とはじめた生活もその暮らしに優るとも劣らないほどの苦しみに満ちたものだったのに違いない。彼にも昔は心の温まる、平和な家庭があった。その昔見た家族団らんの夢の名残が毎月の二十万円の仕送りなのだ。その支払いさえ滞らせねば、どこでどうやって生きていようとかまわない。なにを食べようとなにを着ようと誰もなんともいわない。近所の二十四時間営業のコンビニエンスストアが彼の行きつけの店、いまはそういう生活だった。それは完全に自由な生活でもあったが、アリ地獄の中にずり落ちていくような失墜感を伴っていた。そして、そのなかで毎月用意する二十万円の娘のための養育費は、心のなかの小さな痛みとして存在し、同時に彼の心がまだ完全に死んでいない徴として存在していた。そして、そのためにもオレはちゃんとして生きていなくっちゃ娘たちにまずいぜ、という義務の意識をかすかに駆り立ててくれた。それは本当にかすかな義務の意識だったが、このころの彼の心のなかには多少ともなにかをするために長期的に自分を支えることの出来るヴィジョンなど、そのこと以外に見あたらなかった。いつか、こっそりとでもいいから、成人して美しい女になった娘たちを見にいきたい。娘たちには、彼女たちの父親のようなバカな男ではない、まともな結婚相手を見つけて幸せに結婚して平和な家庭を作って欲しい。それが将来の唯一の夢、そして同時にかつての幻の楽しいわが家と唯一つながる残された願いというわけだった。離婚後、絶縁状態が続くなかで、いち度、お金の工面がつかず、振り込みがおくれたことに麗子が催促の電話をしてきたことがあった。それ以来、明智が麗子の口座にお金を入金するたびに、彼女は確認の電話をしてきて、それからあれこれと世間話をするようになった。「いつもありがとうって二人ともいっていたわよ。義理堅いって感謝しているみたいよ、父親に」その別れた妻の電話は電話口でのしゃべり口調は、冷淡で皮肉っぽく底意地悪かったが、麗子の、軽口のようにいった父親という言葉が心に沁みた。そしてその言葉は、この地上に彼と思いをつなげる一人の係累も残っていないと思い定めて、いつもは自分でも「婆捨山棄太郎」のようなつもりで生きている自分の気持ちをわずかだが暖めてくれた。婆捨山棄太郎は冗談だったが、本当は半分は本気だった。これといって、他に責任ということに関係のない生活をしているのであれば、そして、これがこの世の中で唯一のどうしても果たさなければならない義務なのであるとすれば、彼は自分の娘に送る養育費のために必死になれる。「麗子がいっているように娘たちが彼に感謝しているなどというのはきっと嘘だ、娘たちはわたしを父親失格のひどい男と思っているのに違いない」と、彼は思っていた。いずれにしても、律儀に振り込まれる銀行の口座が彼女たちの成長に、例え養育費の仕送りだけとはいえ一枚噛んでいられることにはかわりがなく、そのことを考えると、心の中にうっすらと射幸心が漂った。そして、その時だけはもう八年近くあっていない、おそらく美しい女たちに成人したに違いない、二人の娘の父親なのだと実感できた。実家の父親の膝元に戻って、その庇護の元で暮らしている麗子にしてみれば、いざとなっても親を頼れば、なんの不自由もない暮らしであることは分かり切っていた。だから、もしかしたら彼の仕送りもそれがないと生きていけない、せっぱ詰まったものではないのかもしれなかった。それでも、彼にしてみれば娘のために毎月二十万円の仕送りをどう稼ぎ出すか、そのために少しでも実入りのいい仕事を求めて街をかけずり回るのだ。他にあてがなく目の前に仕事があれば、深夜営業の駐車場の受付け係でもビルの警備員でも誰かの尾行調査のような探偵の真似事でもなんでもやった。そういう仕事だったらきちんとした信頼関係を作り上げて、ルートさえ付けておけば、横浜の街にはいくらでもころがっていたのだ。本気で働かなければと思いはじめたのにはそれなりの理由があった。会社を辞めたあと、最初のうちはけっこう気楽に不足分のお金を銀行口座から取り崩していたのだ。そして、何も考えずに預金を食いつぶす生活をつづけていたら、口座の金額が一年間に四百万あまり減ってしまった。もっとも、それはミキに死なれて会社を辞めてヤケクソになっていたから、一種捨て鉢のどうにでもなれという破滅願望のようなものに支えられて、やけっぱちで生活していた時期でもあった。それから懸命に仕事を探し始めた。原稿書きのような手の汚れない仕事だけ選んでやっていても、生活していくことはできない。それはでっち上げの原稿を書きなぐったり、あやふやな英語の知識でとりあえずの日本語の生硬な翻訳原稿を作り上げることは確実な稼ぎにはなったが、その稼ぎだけでは自分一人食べていくことくらいできたかも知れないが、生活し、そして娘たちの養育費を稼ぎ出すことはまではできなかった。その月二十万の養育費のほかに年間で二百万近くになる二人分の大学の授業料をどう工面するか、じりじりと減り続ける退職金と昔、自分が住んでいた家を売り払って、ローンを返済したあとに残ったお金の入った銀行口座の通帳の数字をにらみつけながら、あれこれと金策の算段を考えるのだ。彼はあのころ、自分の銀行口座に八百万円あまりの貯金を持っていた。失業してしまって国民年金も満足に払えずにいたのだが、これまで会社勤めしている間は、厚生年金も社会保険もきちんと払い続けてきたから、年を取ったらなにがしかのお金は国からもらえるに違いないと思っていたのだが、あらためて大金が転がり込んでくる予定などはなにもなかった。そういうことを考えるとたまらなく心細くなってきて本牧のラブホテルなんかにしけこんで中国女なんかとセックスしてる場合じゃないとあせり始める。麗子からの留守番電話をきいたとたんに彼は酔いから覚めたような気分になり、どうしようかと途方に暮れて心を苦々しい気分に支配される。娘の学費をどう稼ぎ出そうか。何かいい仕事はないだろうか。死ぬほど原稿を書いてもいいし、のどから心臓が飛び出しそうになるくらいドキドキするようなスリリングな手の汚れる、やばい仕事でもかまわない、なんでもやるよ。とにかく来月は娘の学費五十万円に毎月の養育費、二十万円、都合七十万円のお金を何とかして稼ぎ出さなければならない。そんなことを考え続けながら彼はその夜の不機嫌な眠りのなかに沈み込んでいった。 (第一章 終わり) 第二章・オフェリアを聴きながらにつづく 2017.12.23 10:26
★『廃市』序 夜明けの停車場 わたしはこの小説の舞台となる横浜の山手という、他の町と比較すればそれなりにユニークで歴史的由緒にあふれる町で、二十世紀もまもなく終わりという時期の数日のあいだに、わずか数人の人間にしか知られず終わった物語に主役として登場する一人の男の、何十年かの人生模様を書き始めるにあたって、凡手の悲しさで少し遠回しに話を始めなければならない。つまり、物語の全体をまず大まかに把握していただくために、いま読者諸氏にお読みいただいているこの部分を、この小説の主人公である明智小太郎という、本人の談によれば、遠いご先祖様はかの三日天下で有名な明智光秀であり、曽祖父が名探偵の明智小五郎であるという、自称は私立探偵を名乗る一人の中年男と、彼を優秀な超能力者と誤認した、末期がんに罹患して死を旦夕に控えて療養中のある老人との奇妙な出会いから書き始めようと思う。それはいまからわたしが書き綴ろうと考えている、これを事件と呼べるかどうかわからないが、序章の先のページに立ち込める濃霧のように視界不明瞭な、様々の人間たちによってこのあと描き出される運命的な、あるいは悲劇的な物語の序章である。わたしが伝えようと思っている本当の事件は、第一章、第二章と積み重ねた、ずっと先の方にあるのだ。そのことを頭の片隅において、この物語を読み始めてほしい。 まず、横浜の山手だが、ここは坂の街である。地図を見ると、もともとは、海に飛びだした岬の突端のような地形の場所だったことがわかるのだが、飛びだしているのは本牧の部分で、山手の街は岬の付け根のような位置にあたり、その付け根の部分からもう尾根の一番高いところで、海に臨む眺望が素晴らしい場所がつづく。江戸時代の末期には寒素な漁村であったというこの場所なのだが、開国が決まって横浜が外国船受け入れの寄港地と定められたあと、ちょうど、長崎の出島と同じように、この山の尾根道にあたる場所に外国人たちの建物が次々と建てられていったのだという。ちょっと高くなっているから、外敵に攻められたとき、自然の城砦としての体をなしやすいという考えがあってここの土地に家が建ち並びはじめたのかもしれない。この街、横浜山手の百五十年くらい前から外人居留地として、明治維新以降に訪れた欧米人たちが暮らした町並みは、いまも洋館がたちならび、日本の街とは思えないエキゾチックで美麗なたたずまいを見せて、古びてしゃれた建物が、森の、樹齢を重ねて見上げるように巨大な古木に取り囲まれてつづいて、散策、観光に訪れる人影がたえない。往古の尾根道はいまやアスファルトで舗装された幅八メートル余の道路になってしまったのだが、道の途中の港が見える丘公園から外人墓地の脇にある深い森を抜けて坂道を降りていくと、やがて元町のはずれに出る道がある。この坂の途中、いまはむかしの名残のような小さな空き地が残っているだけだが、道沿いの一角に、もう十五年ほども昔のことになってしまったが、一九九八年から九十九年にかけて、わずか二年ほどのことに過ぎなかったが、ここに瀟洒を極めた黒屋根の、二階建てのモダンな意匠をこらした和館が建てられていた時期があった。そこは二階の東側の窓からは港のひろがりを一望できる、素晴らしい立地の場所だった。その黒屋根の和館は建って僅か二年で突然取り壊され、土地はふたたび、なにもなかったようにむかしと同じ空き地に戻され、何本もの大ぶりの植木が運び込まれて植えなおされ、あたりの様子もたちまちもとの緑の森に戻ってしまった。そして、冬になると、屋敷の名残に残された何本かのセイヨウシャクナゲの巨木が真紅の、場違いな感じの巨大な華花を咲き乱れさせるのだが、そのほかに建物の痕跡はなにもなく、それはそのときのその黒い建物の有様を知っているものたちにとっては、まるで、ここが一時そういう場所であったことをだれにも思い出させるなと、誰かが強い口調で命じたかのようである。その港を眼下に臨む場所から、遠くにみなと未来21のエリアの一角に銀色の背の高いビルが聳えているが、あの建物は六十一階ある。そこの最上階はペントハウスになっていて、この物語の主人公はとても若いとはいえない、明智小太郎という名前の「オレは私立探偵だ。明智小五郎の親戚だ」と自称する高齢の、実は求職中の男なのだが、もうひとり、女主人公である南條麗子、若かったころは光り輝くように美しかった、かつて二〇〇八年にあの建物の最上階の階数と同じ年齢だった、多分、いまでもきっと美しい女が、多分ひとりで暮らしているはずだ。あれから七年経っているから彼女はいまは六十八歳になっている。彼が彼女の年齢を間違えることはない。どうしてかというと、二人は同い年なのだ。誕生日も十月六日と九日、三日しかちがわない。だから彼が彼女の年齢を間違えることはないのだ。彼がこの街に住んだのは一九九三年から二〇〇二年まで、ちょうどバブルの崩壊期だった、約一〇年間なのだが、その間にセントジョセフカレッジも大規模マンションに作りかえられてしまったし、昔からの住人たちも値下がりしそうになっていた土地を売り払って、新しい安住の地を求めて他所に引っ越していってしまった。明智自身も、いろんな都合もあって、交通の便のいい東京に戻って生活するようになってしまった。その間の事情の説明は後回しにする。それでも、彼がいま棲んでいるところは池袋の西口から歩いて十分ほどのごちゃごちゃした住宅街にある古いマンションの五階なのだが、春先や夏の終わりや、夕暮れや真夜中などの雨の降る日に自分の部屋の窓から雨に濡れる町並みを眺めたりすると、横浜で暮らした四十五歳から五十四歳まで、現実にはもうけして若くはなかったのが、いまからすれば、ずっと若々しく、心も身体も自分が年老いたとは思わずにいることができた、慌ただしかったが、それなりに幸福で充実していたそのころのことをたまらなく懐かしく思い出すのだ。だから、横浜の山手のあのあたりが一番美しい季節(とき)はいつか、と聞かれたら、彼は多分、夏の終わりの雨の日の黄昏時、とこたえるはずだ。ひとつの街に十年暮らせば、冬の日の記憶も春の花咲乱れる季節の思い出もそれなりにあるはずなのだが、横浜山手といって、どういうワケか、鮮明に思い出すのは、あの年の夏の終わりの何日間か、本当に歳月のなかの一瞬のことなのだ。なぜかというと、この数日間だけ、彼はあるひとりの男といっしょにすごし、そして、別れたからだ。十年の歳月のなかで、その数日間だけが特別なのだ。彼はいまでも横浜というと、まず、その男のことを思い出す。それは本当にわずかな日数のなかの記憶なのだが、その男に関わる部分だけ、あのときのことをなんらかの形でキチンと記録として残しておかなければいけないとずっと考えていたのである。人間のよすが、えにし、きずなというのは、例えば男と女であれば、赤い糸やピンクの糸の形をしていて、人生の半ばでつながり、その糸の存在がわかって意識しはじめ、その出会いがそれぞれの人生を変えるというのが普通だ。彼の記憶のなかには、いまでも、若いころ、それから自分がまだ愛という言葉に反応することができた柔らかな心の持ち主だったころに、愛しあった幾人もの美しい女たちの面影とともに、彼女たちとの儚かった絆の思い出がいまも鮮烈に残っている。しかし、そのことに思いが及ぶと、彼はいつも最後にこんな疑問にたどり着くのである。いったい、ひとりの人間に幾つの人間の縁の絆が許されているものなのだろうか、と。そして、許された出会いの絆のうちのいくつをオレは終わらせてしまったのだろうか、と。そしてまた、わたしがどうしても書き残しておかなければならないと考えている、この物語のもうひとりの主人公である高杉貞顕という男はそれまでの明智の人生とはまったく関わりのない世界で生きてきた人だった。そして、高杉は明智と知り合ったあと、そのことがきっかけだったかのように、すぐ死んでしまった。だから、たぶん本当なら出会わずに終わる人間だったはずの人なのである。それを高杉は最後の力をふりしぼって自力で明智を見つけだし、彼を自分の生活のなかに引きずりこんで、高杉と彼とがいっしょに生きる時間を無理やり力づくで作りだしたのである。当時のさまざまの事実を積み重ねて推察すると、そう書いてもいいと思う。書いたように、高杉と明智がいっしょに過ごした時間は僅か数日、全部あわせても何十時間かにすぎないのだ。しかしその時間の濃密さといったら喩えようもなく、高杉は彼といっしょに過ごしたわずかな時間のなかで、明智の人生観を変えて、明智の人生そのものも作り変えて、そして、死んでいった。彼らの縁の絆が何色の糸でつながっていたのか、いまとなっては知りようもない。しかし、そんな人間の出会いと別れもあるのだ。いまにして思えば、高杉は彼を過大評価しすぎていた。高杉が彼を自分の後継者だと考えたことは、本質的には高杉の生涯の最後の失策だった。高杉は彼に出会ったとき、「やっと出会えた。あんたは僕の人生の最後の希望だ、あんたは最高の能力を持つ《選ばれたもの》だ」といったが、それは高杉の錯覚だった。彼は高杉が考えていたような超能力者ではなかったし、ぜんぜん《選ばれたもの》なんかじゃなかった。明智は高杉のように念力を自在に操って瞬間移動したり、指先でパチンコの玉を銃で撃ったような速さで飛ばすこともできなかったし、競馬場で次に行われるレースの優勝馬を予知するような霊力もなかった。それらのこみ入った事情はおいおい説明していくが、明智はときどき高杉貞顕という人間のことを思い出し、けっきょく彼と高杉の共通点というと、歌謡曲が大好き、横浜の街が好き、同じひとりの女を愛した、この三つのことだけだったなと思う。高杉が持っていた多彩な、驚くべきさまざまの霊力のうち、彼にあったのはほんの一部、女に対して情熱的になると潜在的な能力を発揮するということだけだった。そのことを思うと本当に、慚愧の念に絶えず、心苦しいのだが、それこそ、それも人生、これも人生と、深く考えるのをやめにする。彼はいま、六十八歳で、高杉貞顕が死んだ年齢まではまだあと、十五年ほどあるのだが、人生をもう一度、若かったころからやり直すこともできないし(ああ、それができたらどんなによかっただろう)、死に別れた人とも生き別れた人とも、なにもなかったことにしてやり直すことのできない、そんな年齢まで生きてきてしまった自分を厭うばかりだった。彼の母は昭和五十三年に六十四歳で死んだが、本当に彼はさらに、手を汚したまま洗いもせず、もうすでに数年母親よりも長い時間を生きてしまっていた。そして、明智は横浜のあの町のことを思い浮かべるたびに[廃市]という言葉を連想する。それは彼の「おれは廃人みたいなものだよ」という告白でもある。自分で過去を振り返ってみて、そこに縛り付けられたまま身動きできずにいる自分をあらためて自覚して、オレって廃墟で生活している人間のようだな、と思うのだ。それは過去の記憶ばかりに囲繞されて生きていたからだった。しかし、現実の、彼が知っていた横浜も廃墟のような街、「廃市」だった。『廃市』はだれか、昭和の作家にそんな題名の小説があったと記憶しているが、あいにく、その作品を読んでいないので、その作家がどういうつもりで、自分の小説のどういう状況にそのタイトルをつけようとしたのか、分からない。彼が横浜のここ、山手のあたりを廃市と呼び、それをわたしがいまから書こうとしている〝思い出小説〟の題名の第一候補として考えていて、自分の作品を[廃市]と命名しようと考えていることにはそれなりの理由がある。この町が「廃市」…、廃墟の町だという意味はつまり、町が過去の歴史のつくった名所旧跡の集合体のようなもので、昔の思い出と遠い歴史に生きている町という意味だ。とくに、山手のこのあたりはそうである。もちろん、いま現在、この町で生活している人たちもいる。実際、ここで古くから暮らしている人たちはみんな、訪れる観光客の目を避けるようにしてひっそりと生きているのだが、それにはわけがある。このあたりの家は多くが古く、高齢者や若くても定年を迎える世代の人が住んでいて、世間の流行・浮沈に付き合いきれずに煩わしい思いをしていて、金銭的なことをいえば、どの家も大きな家屋敷を構えながら、ほとんどの家の台所は火の車で、親父が出世して、ムスコも同じように勢いがよければ話は別で、家のたたずまいは衰えずにすむのだが、そういうことはまずない。だいたいがムスコは、親父の作った財産を食い潰すと相場は決まっているのだ。かくいう彼も、彼の場合は横浜で育ったわけではなかったのだが、同じようなものでいまは父親の残した財産をチビチビと切り売りしながら、わずかな年金で慎ましく暮らしている。そして、慎ましく侘しい生活はいまの彼だけのことではなく、この横浜山手に住んでいる人たちも同じである。住民税や不動産税、その他もろもろの国民健康保険とか年金の支払いとか、NHKの放送料金とかの支払いに苦しみながら、みんな地味に暮らしているのだ。最新流行の自家用車が駐車場に置いてある家なんて、そんなにない。そのことはちょっと散歩してみれば分かるのである。年金生活の老人たちが圧倒的に多いのだ。みんな、古い家の中に錆び付いたようになって暮らしていて、身動きがとれず、精神的には苦しいのだが、それでもこの町が好きというか、愛しているのである。町が好きというより、町と過ごしてきた過去の生活がなにものにも代えがたい価値を持っているのだろう。高杉貞顕が意気盛んな青春時代を過ごした横浜に戻りたいと考えたのも、むべなるカナである。横浜は至るところに過去の栄光が鏤められた場所なのだ。町の至るところに若々しくて男盛りだった時代の思い出が埋まっているのだ。それに、港が近いと、なにかあった時、すぐにでもどこかに逃げ出せるような気がするのかもしれない。この町には、むかし、勢いよくひとやま当てて、ここに土地を買って引っ越してきた時の財力と勢力をそのままに持ち続けて生活をしている人たちもいないわけではないのだが、そういう人の数は少ない。ほとんどの人が、とっくに経済的な余裕がなくなってしまい、普通の人の収入しかなく、その家計を巨大な家、屋敷の維持費が圧迫している、そういう家庭がすごく多いのだ。そして、家の大黒柱だった主人が死ぬと、相続税が払いきれず、だいたいの人が土地を手放して、現金に換え、この町を出ていく。町はそうして、さらに善良な、古くからの住民を失うのである。そういう住民たちが立ち去った後、正体のしれない、ベンツが大好きそうな富裕層が移り住んできて、お金があるんだったら、チャンとした建築家に設計を依頼して家を建てればいいと思うのだが、そういう人たちは、だいたいどこか、ダイワハウチュとかプレハブ・メーカーの既成住宅を味も素っ気もなく、建てようとするのである。それが、そういうプレハブ住宅もけっこう個性的に見えて、悪くないから始末に負えないのだ。現代は個性までもが大量生産される時代、というわけだ。こうして、町はどんどんダメになっていく。彼はこの町を廃墟の町という意味合いで廃市と考えていたのだが、本当のところ、彼は[滅びゆく町]という意味を込めて、このあたりを[廃市]と呼ぶのだ。彼が高杉貞顕に初めて出会ったのは高杉が死ぬ三ヶ月ほど前、六月の上旬のことだった。そのころの彼には毎朝早くに起きて、自分の家の回りを手始めに横浜の街のなかをかけずり回る習慣があった。要するにジョギングである。これはその日の気分で、西にむかって走っていって石川町の駅の脇から中華街のなかを通って横浜公園の方まで行って戻ってきてみたり、北にむかって真っ直ぐ元町への坂を下っていき、新山下から本牧埠頭の方まで走っていって帰ってきてみたりしていた。横浜は美しい顔のすぐそばに毛の生えた陰部があるような街で、中華街からちょっとのところには黒澤明が映画『天国と地獄』のなかで地獄の役目を受け持たせた日の出町があるのだが、彼はこの街には明け方のこととはいえ、あまり近寄らないようにしていた。ここではこの話はあまり深入りしないが、この街にたむろしている初老の男たちが自分と別の人種の人間とはとても思えなかったからだ。彼の住んでいた山手のあたりにはフェリス、双葉、横浜女子、横浜女子商業と女の子の学校がたくさんあり、そういう学校の回りばかりを駈け回ったり、気の向くまま、好きなように走ってみたり、止まってみたり、歩いてみたり、アスレチックジムにいくかわりに、この、朝のジョギングを自分の一日おきの朝の日課にして暮らしていたのだった。それで、そういう自分でつくったジョギングのコースのひとつにフェリス女学院の脇を走って、代官坂にたどり着き、トンネルをくぐって元町公園、そこから元町通りの裏筋、さらにそこから東に走って、右折し谷戸坂を駆け上がって、港が見える丘公園に出て、そこから千代崎に戻ってくるという道程があるのだが、そのころ、このコースを走っていたのは一週間に一度くらいだったろうか。明智が初めて高杉貞顕に会ったその日の朝は、前の日、眠りについたのが遅かったことがあって、寝坊してしまい、いつもより二時間くらい遅く起きただろうか。空を見あげ、どんよりと曇っていて、雨が降り出しそうだなとは思ったのだが、ジョギングをするはずの日にしないでいると、なんとなく足に浮腫んだ感じがまとわりついてはなれない。一日、身体のなかの水がキチンと抜けてないような感じに付きまとわれて嫌なので、無理して、普段より二時間くらい遅れてだが、七時前に家を出て、走りはじめたのだった。空模様は怪しく、いつ雨が降りだしてもおかしくない、グズグズした天候だったのが、この日は大回りして、元町から中華街、そこから大桟橋まで走っていって、折り返し山下公園を海沿いにぐるっと回って走ってきて、谷戸坂を上りはじめたところで、まことに沛然とという言葉がふさわしいような有様で雨が降り始めたのだった。半袖のTシャツ一枚でいた彼は、たちまち濡れ鼠になりそうになって、走るのをやめて、途中の、前述の黒屋根和風洋館の庇のついた門のところで雨宿りしたのだった。その屋敷は高い塀や背の高い木立に守られ、路傍からはなかの様子までは窺いきれなかったが、この道はいっときは彼と足腰が丈夫だった若いころのラッキーのお気に入りの散歩道だったから様子はよくわかっていた。ラッキーというのは彼が買っている十四歳のシーズーだった。余談だが、犬の十四歳というのは人間でいうと、八十歳過ぎの超後期高齢者である。そして、この場所はそのころはたしかに空き地だったところである。ちょうど1年ほど前になるが、この家が建てられたとき、施工者は北側を竹林で囲い、庭の一方を築山にして巨大な石を運び込んで、さまざまの花木、巨大な背丈のトウツバキやセイヨウシャクナゲを植え込んだのである。これらの花々は今年の真冬から春先にかけて見事な花を咲かせて、フランス山あたりを歩く人たちを驚かせた。彼も春先の散歩の途中、一斉に花を付けた血のように赤いシャクナゲの瞭乱にびっくりしたのだった。そして、大輪な深紅のシャクナゲの花が散ってしまったあと、この一角にはキリシマツツジが咲き始め白い可憐なクチナシが夏に向かって蕾を付けて、ハナミズキが花を咲かせる準備をすませるのである。しかし、それらの花々もたしかに可憐で美しかったが、シャクナゲの花塊の通る人の度肝を抜くような華やかさはなくなってしまっていた。やはり冬の終わりから春の初めにかけての、巨大なシャクナゲの花の盛りがその場所が一年で一番きれいな時節だった。一年前に家が建ったあと、そこにはしばらくは人の住む気配はなく、彼は多分これはどこかの企業が金にまかせて作った茶寮か保養施設かなにかなのだろうと思っていた。事実、この屋敷の門扉には小さく目立たぬ表札で山手寮とだけ書かれていたのである。雨はなかなか止まず、門のすき間から邸内を見るともなく見ると、玄関先に何台かの高級車がとまっていた。朝のにわか雨に閉じこめられて身動きがとれぬまま、どれほどはその門の庇の下にいただろうか。彼がいつまでも止まない雨にしびれを切らして濡れ鼠を覚悟で走り出そうか、と考えはじめたところで、門の脇の勝手口がギッという音を立てて開いた。そして、そこからその館の家人が出てきて「あのう、すみません」と声をかけてきたのだ。現れたのは、若い、朝早かったから、化粧っ気もなかったが、うりざね顔の日本美人といっていい、整ったオカメ顔をした美しい女だった。それが、要領を得ない感じで「突然声をおかけしてすみません。もしよろしければ、家の方にお寄りになりませんかとわたしどもの主人が申しているのですが…」そういって、話かけてきたのである。これまで長い間、朝方の横浜の街をかけずり回ってきたが、途中で、見ず知らずの人から呼び止められてウチに寄っていきませんかと誘われたのは、これが初めての経験だった。声をかけられた彼もびっくりしたのだが、娘の方も、突然変なこといってすみません、という場馴れしない感じを隠さなかった。彼は、最初、「いや、雨が小降りになったらジョギングをつづけようと思ってますから」と言い訳して断ろうかと思ったのだが、この誘いを断ると、雨宿りしているこの場所からいますぐ出ていかなければならなくなるような気もして、曖昧に、しどろもどろでいた。すると、その娘に繰りかえして「あるじがぜひ、あなた様に家にあがっていただくようにと申しております。お立ち寄り下さいませ」と、断れないような口調で懇願された。声を掛けてきた相手が、自分好みの美人だから話を断れなかったということもあるのだが、もともと彼の性格は優柔不断で、あれかこれかといわれると、すぐにあれもこれもと考えはじめる強欲なところもあって、人に強く出られると、嫌でもなんでもイヤといえない、日本の外務省のようなところのある弱気な人間だっだのだ。それで「はい」と返事をしたのである。「どうぞ」と招き入れられて、娘の後をついていった。なんべんもこの屋敷の前は通っていたが、高い塀にかこまれていたので、邸内がどうなっているかを見るのは初めてだった。建物のたたずまいはみごとなもので、門から玄関先までが白い砂利を敷きつめ、円い置き石を置いた、藁葺き屋根のついた渡り廊下のようになっていて、風情のあるものだった。その家は鉄筋コンクリート作りのくせに古風な佇まいの木造建築のような体裁をした、黒い和風瓦を葺いて平屋根にした、白壁の、派手な色使いを嫌って和洋折衷の美しい調和を徹底的に追及した広壮な建造物だった。二階の一角に大きな窓ガラスを何枚もはめ込んだサン・ルームが見え、そこはいつも見る人が見ればスイスのヤコブ・シュレーファーのカーテン地だと分かる重厚なデザインの分厚いカーテンが掛かっていた。雨が降っていて、湿度が高いせいかも知れなかったが、プーンと檜のいい匂いがする江戸時代の武家屋敷の上がり框のように広い応接間のような玄関口からあがって、通されたのは空間の真ん中に大きなテーブルが置かれたリビングルームなのだろうか、それとも食事室といえばいいのだろうか、大きな二十畳ほどもあろうかという板の間だった。その真ん中に置かれた大きなテーブルに二人の男が座って、なにかを話していた。ひとりは脇に携帯用の酸素ボンベをおいて、それにつながっている酸素吸入器の管を鼻の穴に突っ込んだ病気らしい老人、もうひとりは白衣を着た中年の男で、こちらは医者らしかった。二人はお茶を飲みながら、なにかを話していた。若い娘が「お連れしました」といって、彼を部屋に導き入れると、中年の男の方が立ちあがり、「じゃあ、そういうことでお大事になさってください。また、明後日の朝、顔を出しますので」そういいってから、娘にむかって「なにかあったら、すぐ連絡してください」といい、それからもう一度老人に向かって「無理をなさらないでくださいよ」といい残して、彼に向かって丁寧に会釈し、部屋を出ていった。彼は、ちょうどその男(後でこの家の主の主治医と知った)と入れかわりで招かれる形になった。ずうずうしいかとも思ったのだが、なにしろ、相手がどうでも家に入れというのだから、仕方がなかった。あとから思えば本当に、おとなしく彼女のいうことを聞いてよかったのである。あのとき、高杉貞顕と知り合いになったことが高杉にとってよかったかどうかは別にして、少なくとも彼にとっては最高のラッキーで、いろんな意味で幸運だったことは間違いなかった。「まあ、どうぞ、お座りになってください」主人がそういうと、そばについていた、彼を案内してきた若い娘がサッと椅子を引いてくれた。「おどろかれたでしょうね」老主人はそういって、ニコニコ笑っている。「肺炎だというんですよ。いつもはなんでもないんですが、時々、ものすごい咳が出るものですから、咳が出ると痰も出て、それに血が混じっていますから、どっかが悪いんでしょうね。医者からは酸素が足りないという話で、こんな不便なものをハナに付けて暮らしているんです。もう、金儲けや世の中のことからは手を引いた、引退した年寄りですから、他意はありません。雨が止むまでの間、話し相手になっていただいて、マア、お茶でも飲んでください」そういって、なごやかな口調で話し、「わたしは高杉というものです。もう、八十五歳ですよ。ずっと昔に使い物にならなくなって廃業したビジネスマンです。しばらくこの世でウロウロしていましたが、もうじき、あの世行きですな。わたしの知り合いも死人ばかりで、みんな、向こうでわたしを待っています、アハハハハ」アッケラカンとした口調でいった。彼も自分がなにものか名乗らなければと思って、こういった。「あ、すみません。ぼくは明智小太郎、アケチコタローというものです。明治の明に美智子様の智と書きます。家の家紋は**桔梗ですから、多分ご先祖様は明智光秀だと思うのですが、いまの僕自身はまさしく通りがかりのものです」「通りがかりはわかっています。わたしがお招きしたんだから」「ハハハ、そうでしたね。いま五十一歳でひとり暮らしです。いや、正確にいうと、犬とふたり暮らしです」「面白い方ですね。失礼ですがお仕事はなにをなさっているんですか」「いちおうボクは私立探偵なんですが、探偵の仕事があまりなくて、ふだんは中華街にある駐車場の深夜の管理人とかをやってくらしています。それだけじゃやっていけないので、あと、引っ越しの手伝いとか頼まれると白タクの運転手とか、その他いろんなことをやっているんです。この山の向こう側の坂道を降りていったところの北方小学校のそばのキリン公園の前にあるマンションに住んでいるんです」彼はなんとなく萎縮して、阿るような気分になり、軽薄な調子で聞かれていないことまで答えた。明智が私立探偵を自称しているのは、その肩書きが自由にそう名乗ってもなんのお咎めもないくせに職業としては変な説得力を持っていたからだった。実際に探偵のような仕事を頼まれることがあったから、別に嘘をついているわけではないのである。刑事とか弁護士とかいう仕事は、資格が必要だったり、大きな組織に所属していなければそう名乗ることはできなかった。しかし、探偵だったらそんな縛りもなく、それなりの仕事のイメージがあった。また、私立探偵という肩書きがなんとなく胡散臭いのも自分に合っている気がして気に入っていた。このほかに、全然たいしたことないのだが、知り合いの出版社に頼まれて、つまんない原稿とかも書いていたが、だからといって、作家とかライターなどと名乗るのはさすがにおこがましかった。このときの彼には勝手に他人の家の軒先で雨宿りした負い目もあった。自分を飾り立ててもしょうがないと思って、彼は正直に答えたのだ。「ああ、あそこの公園なら知っていますよ。私立探偵なんですか」「まあ、それだけじゃやっていけないんでいろんなことをやっているんです。駐車場の料金係りとか引越しの手伝いもやってます。なんでも屋なんです。失業者のフリーターみたいなものですよ」彼が調子に乗って、聞かれてもいない、説明しなくてもいいことを話すると、高杉はニコニコと笑い、頷いて「そうなんですか。なんにせよ、生きていくのは大変ですからね」と感に堪えたようにいった。実際、そのころの彼の生業をひとことで説明するのはとても難しかった。細かい話はここではしないが、そのころの彼には毎月、四、五十万円の収入があり、人から見ればけっこう稼いでいた。一人暮らしには十分な金額のはずだったのだが、しかし、台所というか実情というか、財布のなかは火の車で、大変だった。老人は、彼の顔をしばらく見つめて「いい人相をしてらっしゃるんですがねえ」といった。他人から、自分の人相について、そんなことをいわれたのは初めてだった。高杉は、彼の顔を見つめたあと、しばらく間をおいて「とても駐車場の料金係りには見えない。才気にあふれた顔をしている。私立探偵だったら名探偵でしょうね」と付け加えた。正確にいえば、彼の仕事は駐車場の深夜の料金係りや白タクの運転手が専門というわけでもなかった。ハードボイルドに探偵仕事で生活していければそれに越したことはなかったが、現実はとてもそういうわけにもいかなかった。「とても名探偵なんかじゃありません。仕事の依頼は滅多にありません」明智がそういうと、高杉と名乗った男はハハハハハと朗らかに笑い「心配することありません。才能に溢れている感じがしますよ。大器晩成ですな。若い頃、一度、一花咲かせてらっしゃるでしょ。しばらくすると、もうひとやま来ますよ。ソロソロですよ。根拠といわれてもこまるんですが、なんとなく感じでわかるんです」と、謎のようなことをいった。部屋にはいつの間にか、音楽が流れはじめていた。古いクラシックのようだった。老人は流れる調べにしばらく耳を傾けた後、「ペールギュント組曲第一番だね」といった。高杉と名乗った老人は、つづけていった。「ぼくはクラシック音楽も嫌いじゃないけれど、日本の歌謡曲が大好きでね。歌が好きでよかったですよ。好きな歌を歌っているときは幸せでいられる。歌が好きな分、歌を聴いているときは幸せだったからね」彼も音楽は嫌いでなく、特に、昔の流行歌、日本の古い歌謡曲が好きだった。「ぼくも歌謡曲は好きなんです」彼がそういうと、老人はこういった。「歌には人生を癒して、人間を勇気づける力があるからね」「ハイ」彼は頷きながら、黙って老人の話を聞いていた。いまはもう歌謡曲もあまり聞かなくなってしまった。横浜にいたころ、彼は家にまで有線放送を引いてもらって、昭和の時代に流行した歌謡曲やポップ・ミュージックばかり聞いて暮らしていた。「歌ももういまはダメだね。いまの時代の流行歌というのは、いくら聞いても好きになれないよ」高杉と名乗った老人は、ほぼ彼がいつも考えていることと同意見の、そんなことをいった。「いまの流行歌を聴いていると、場面設定が亡くなってしまっている。全部、歌手たちの生活にそのまま二重写しできるキャラクターソングになってしまっているよ。そんな歌ばかりが歌われる時代が来るとは思わなかった」これも彼と高杉は同意見だった。「ぼくもいま、流行っている歌はあまり好きじゃありません。昔の歌は思い出せますが、いま、流行っている歌は何度聞いても覚えられません。不思議なものです」彼がそういうと、高杉は有線放送のリモートコントローラを取り上げて、チャンネルを変えた。スピーカーから古い歌謡曲が流れてきた。石橋正次が歌う『夜明けの停車場』だった。 ♪夜明けの停車場に ふる雨は冷たい 涙をかみしめて さよなら告げる きらいでもないのに なぜか 別れたくないのに なぜか ひとりで旅に出る 俺は悪い奴 だから濡れていないで 早くお帰り 君には罪はない 罪はないんだよ ♪ひと駅過ぎるたび かなしみは深まる こんなに愛してて さびしいことさ きらいでもないのに なぜか 別れたくないのに なぜか♪ ♪しあわせ捨てていく 俺がわからない だから遠くなるほど 胸が痛むよ 君に罪はない 罪はないんだよ♪ 部屋に石橋のしみじみとした歌声が流れた。石橋正次は俳優のくせに妙に歌のうまい人だった。うーむと目をつぶってしばらく聞き惚れていた高杉は「雨の歌はいい歌が多いね。この歌もいいね。この歌は確か馬淵さんの作品だったね」といった。それから、高杉は笑いながら「でも、この歌の男は、どうして嫌いでもない女と別れて、一人で旅に出るんだろうね。自分の意志で旅に出るんだろ。兵隊にとられるわけじゃないし、まあ、もう一人好きな女ができて、その女のとこに行くんだろうね。ぼくも経験があるよ」といった。明智にも昔、同じような経験があった。高杉はそういえば馬淵さんも先日、亡くなられたね」馬淵玄三、またの名を演歌の龍。五木寛之の小説『艶歌』の主人公、高円寺竜三のモデルになった人物である。馬淵は、自分の部下が作った、いったん吹き込みを終わらせた石橋のこの歌の出来が気に入らず、自分からスタジオに入って、石橋に直接歌唱指導して、再吹き込みして原盤を作り直させたという。よほど、明確な作品イメージがなければ、こういうことはできない。それで歌がヒットしなければ、本人の命取りになりかねないのだ。美空ひばりや小林旭、北島三郎らの歌を手がけてきた、歌はこうなければならないという明確なポリシーを持った人だった。調べてみると、馬淵玄三の死亡年月日は一九九七年五月十五日のことである。彼と高杉が出会う、二年前のことだ。馬淵は一九二三年の生まれだから、享年七十五歳だった。「男はひとりで、何人の女でも好きになれる。これは生物学的な〝種の保存〟という本能の話だからね。変な話だけど、自分の子孫が残せれば、場合によっちゃ女なんて、生殖能力さえあれば誰でもいいんだよ。こんなこというと女たちに怒られちゃうけどね。アハハハハ」高杉は歯のすっかり抜けてしまった口を開けて、無邪気に笑いながらそういった。明智は馬淵玄三には面識はなかったが、この歌をうたっている石橋正次はよく知っていた。それは彼が捨てた過去に関連していた。ずっと昔、もう四十何年も昔のことである。石橋は新国劇出身の俳優だった。大阪の生まれで昭和四十五年に、日活映画の非行少年役でデビューした。彼が有名になったのは日本テレビの学園ドラマ『おれは男だ!』で森田健作と共演し、そのあと『飛び出せ! 青春』で主演してからだった。昭和二十三年生まれだから、明智より一歳年下で今年、六十七歳になっているはずだ。先日、テレビを見ていたら、その石橋が懐メロ番組に出てきて、頭がすっかり禿げあがっているのでおどろいた。石橋は石橋らしく、禿げ頭でも不逞の雰囲気があり、相変わらず風格を感じさせて、かっこ良かった。明智が石橋と知り合ったのは大昔のことだが、彼にもそれなりの秘められた過去があった。彼がまだ人生に希望とか、やる気を溢れさせていた若いころのことである。明智は大学を卒業して、新卒就職で広告代理店のD2に入社したところだった。かけ出しの広告ディレクターで、初めての仕事はグリコのチョコレートのCMを作るという話だった。それで、テレビドラマで活躍している若手の男の俳優を使おうと考えてオーディションを開いた。そのオーディションで一人を選んで使うことになっていた。有名無名の若い俳優たちが二十人近く参集したが、石橋もそれを受けに来たのである。あのころ、森田健作とか松田優作とか、沖雅也とか、志垣太郎とか、内田喜郎とか、テレビのドラマからどっと若い俳優たちがデビューした。石橋もそうやって出てきた若手の俳優のひとりだった。ほかの俳優たちに比べると持ち味は地味だったが、ちょっと不良少年みたいな雰囲気もあり、いいキャラクターだった。しかし、そのときのオーディションに合格したのは志垣太郎だった。決めたのはスポンサーである。石橋は顔の甘さで志垣太郎に負けたのだった。履歴書の特技の欄に《歌》と書かれていたので、アカペラで一曲歌わせた。そのとき、彼は石橋が歌の上手なのに驚いて、もったいないと思って、当時、仕事仲間だったコロンビアの宣伝部の人に紹介したのだった。それがいったんコロンビアからレコードを出しながら、しばらくしてライバル会社のクラウン・レコードから歌手デビューしたのだ。そのとき、コロンビアにつないだのにどうしてクラウンなんだよと思った記憶がある。しかし、歌は大ヒットして、いまでも歌われているのだからクラウンで正解だったということだ。だから、この歌がヒットしたときのこともよく覚えている。歌の内容は確かに、男が女を捨てるときの歌である。心変わりした、でも、未練もある、そういう歌だった。高杉は歌を聴きながら「ぼくは雨降りの横浜が大好きなんだ。雨に煙る港を見ると胸がしめつけられるよ」といった。彼がその理由を聞こうとすると、ああそうだ思いだしたといって、娘を呼んだ。「晴美さん、昨日、樫山不動産の社長がもってきてくれたチーズケーキがあっただろう。アレを僕たちに出してくれないか」そういったあと、「僕はチーズケーキは入れ歯なしで食べられるから大好きなんだ」といった。それから、「チーズケーキ、食べるよね」とに彼に訊いた。娘は晴美という名前らしかった。「チーズケーキとプリンは歯がなくて、歯茎で食べられる美味しい食べ物の代表だね」といったあと、言葉をつづけて「珈琲より日本茶の方がいいかも知れないね」といった。晴美さんと呼ばれた女が、皿に盛ったケーキを持ってきて 「宇治茶を入れましょうね」といって、日本茶を淹れはじめた。高杉の話に出てきた樫山不動産の社長といったら、彼が知っている限りでは、元町の不動産屋の社長の樫山清三だけだった。社長といっても社員は奥さんひとり、あとはアルバイトの若い娘をひとり雇っているだけの個人経営の小さな街の不動産屋だった。彼は「ハイ、チーズケーキと宇治茶、いただきます」と答えた。自分の知っている人間と同一人物かと思って「樫山不動産の社長って樫山清三さんですか」と聞いてみた。突然、自分の知り合いの名前が出てきたのでびっくりしたのだ。そのころの明智には友だちと呼べる人間はほとんどいなかった。彼は世捨て人みたいに暮らしていた。横浜の街で、彼が親しくしている人なんて、数人しかいなかった。千代崎のセブン・イレブンの知里子ちゃんとか、中華街のカラオケスナックの『パイロン』でホステスをやっているヘレン(またの名を楊暁真)とか、同じく中華街の違法滞在の中国女たちの相談役をしている『月町』のママの竹美ちゃん(またの名を李竹美)とか、本牧のフォブ・コープで働いていた元タレントの松本小雪とか、港が見える丘公園の脇にある紅茶のうまい喫茶店『銀猫亭』の柴田美穂とか、知り合いはどういうワケか女が多いのだった。知里子ちゃんとヘレンはときどき連絡を取りあってホテルとかで待ち合わせて、お小遣いをあげてセックスさせてもらっていたのだが、柴田美穂は別れた女房の親友、松本小雪は中華街の土産物屋の若旦那と結婚したばかり、『月町』の竹美ちゃんは名前は若そうだが、七十過ぎたおばあさんで、こういう人たちはセックスフレンドというわけにはいかなかった。そして、唯一の男性の知り合いである樫山清三だけはいわば、元町の顔役、明智の横浜ボスで、年上の特別の大切な知人だった。明智が探偵仕事を始めとしていろんな日働きの仕事をもらっている、大事な仕事先だった。樫山不動産というのは、石川町の元町に抜ける途中の商店街のなかにある街場の不動産屋で、そのほかにも街のなかでいろいろな商売に首を突っ込んでいる人だった。樫山はいわば、横浜の街のよろず揉めごと請負マスみたいな、便利屋の元締めみたいなもので、じつは彼もその[樫山のいろいろな商売]の関係者だった。彼が言葉を重ねて「樫山さんを御存知なんですか」と訊ねると、高杉老人はこう答えた。「ウン、昔の仲間というか、知り合いですよ。何十年も前の。彼がまだ若かったころのね。アレが小学校に上がったときに、アイウエオを教えてあげた。七十年以上昔の話だ。あの人は昔はセーチャンて呼ばれていたんだよ。ボクがこうやって横浜に戻ってきて誰にも連絡せずにないしょで暮らしていたら突然訊ねてきた。誰かに噂でボクが横浜に戻ってきたことを聞いたらしい。それで水くさいじゃないかっていってね、訪ねてきた。ケーキを持って、病気の見舞いに来てくれたんだ。会ったのは五十年ぶりくらいだよ」話のスケールが昨日、今日、一年前、二年前のことではないので、それにも驚いた。「随分、長い付き合いなんですね」と間の抜けたことをいうと「まあ、そうだね。それだけ年を取っちゃったんだけどね。昔のことですよ」高杉はしんみりとそういった。書いたように樫山清三は、明智の大切なクライアントのひとりだった。つまり、金づるである。あのころ、彼に仕事をくれる人たちは、『週刊ポンプ』の柚木とか、日本医学出版の柳生とか、東京の友人も何人かいたのだが、横浜で商売している樫山が彼に頼んでくるのは、東京の人たちのように週刊誌の原稿書きや英文資料の下訳ではなかった。樫山は不動産屋の看板を掲げてあのあたり、石川町から元町、中華街の一部までにかけてを縄張りにして商売していた。こう書くと暴力団みたいだが、別にみかじめ料をとるとかそういうものではなく、実際にどうなのかはわからないが、戦前からこの場所でずっと同じようなことをやってきていた。町内の問題処理係、なんでも相談屋、悩みごと解決係なのだった。それで、古い住人たちは、なんでも問題が起こると、樫山に相談した。樫山は街の百科事典みたいなもので、弁護士でも医者でも会計士でも、暴力団でも政治家でも…、要するに誰とでも知り合いだった。たいていのことは電話一本で処理する能力を持っていた。彼もあることがきっかけで樫山と知り合って時々、仕事を頼まれるようになった。引っ越し手伝いの人足をやらせてもらったり、私立探偵まがいの尾行調査を頼まれたり、白ナンバーのハイヤーみたいなものだが年寄りを樫山の自家用車で家まで迎えに行って、どこかに送っていったりしてなにがしかをいただいていたのである。白タクの運転手はその場の出来高払い、引っ越しの手伝いは一日1万円とか1万5千円くらいにしかならなかったが、これも即日払いだった。私立探偵仕事は尾行調査が多かったが、これはけっこういい金になった。朝から夕方まで張りついているだけで、日銭を5万円くらい、仕事が終わったところで現金でくれたのだから、貴重な大切なクライアントといったのである。明智が高杉に「セーチャンを知っているんですか」と聞かれて、「ぼくも樫山さんとは親しくさせてもらっているんです」というと、高杉は驚いて「そうですか。奇遇ですね。でも、あいつはいまやこのあたりの主みたいなものだからね。顔が広いからね、アレはあそこの建て直す前の家の二階で生まれたんだから。もう、七〇年以上前だからね」といった。それから、ニコニコ笑いながら明智に向かって「アケチさん、朝、時々、この坂道を走っているでしょう。いつもはもうちょっと早い時間ですよね。ぼくはまだ寝てる時間だけど、貴方が走っていくのだけはわかるんですよ。寝てても目が覚める」と驚くべきことをいった。ベッドに横になっていながら、彼が家のそばを走り抜けていくのがわかるというのだ。「監視カメラで見てるワケじゃありません。最も、ウチの門には監視カメラがついてるようだけれども」高杉はそういって、また、歯のない口でアハハハハと笑った。いっていることの意味がわからなかった。正直いって、彼はこのときの高杉貞顕との出会いが、そのあとの自分の人生にこんなにも大きな意味を持つことになるとは思わずにいた。というのは、それは彼にとっては偶然の出会いだったのだが、高杉にとってはそうではなく、必然なのだったからだろうと思う。それは別の言い方をすれば、高杉と明智の出会いは、その時の彼にとっては長くつづく日常のなかで起こった些末な出来事のひとつにしか思えなかったのだが、高杉にとってはずっと待ちつづけていた、非常に重大なこと、運命という言葉を使って説明してもいいかもしれないような意味深い出来事だったのだ。前段で「大きな意味を持っていた」と書いたのは、彼にとってというよりもむしろ、余命少なかった高杉にとってなのだった。彼が高杉とのあの出会いが持っていた重要性を理解したのは、ずっとあと、高杉が死んで何年もしてからのことである。高杉は多分、彼に会うために、いや、彼でなくてもよかったのかもしれないが、彼のような力を持つ(と高杉が信じることのできた)人間存在に出会うために、横浜に戻ってきたのだ。高杉は歯のない口を開けて、アハハハハと嬉しそうに笑い、彼にこういった。「明智さん、人間というのは一人一人がそれぞれ[気]というものを持っていてね。オーラという言葉でもいいんですが、精神のエネルギーですよ。[気]は人によって強弱が違うし、人同士の相性もあるから、強い気を持っている人同士でも反応しないこともあるんだが、ぼくは貴方が走ってくると、本当にすぐわかるんだよ。心が反応してね、溶けた鉄が自分のそばを流れていくような、猛烈な気分になるんだよ。それで、ある朝、貴方が走ってくるのにあわせて、ベッドから抜け出して、その熱の塊が貴方だと確認したんですよ。とにかく、武智さんはオーラが強い」彼はそういわれて、驚きながら「そうですか、自分では全然気が付きませんでした。ずっとご迷惑をおかけしていたんですね。すみませんでした。でも、エネルギーが強いっていうのはぼくじゃないんじゃないですか」と否定しながら、反論した。高杉は、クビを左右に振り「いやいや、やっぱり武智さんなんですよ。それはわかっているんです。でも、それをぼくはちょっともイヤじゃないんですよ」笑顔を絶やさずにそういうふうにいった。この、高杉のいる部屋の壁側に置かれた大きなガラス戸棚には銀の洋食器や骨董の茶碗、その隣には古本がズラリと背丈を揃えて並べられていた。古本は彼も好きだったから、どんな本が並んでいるのか、その書棚を一目見てビックリした。これが大変なコレクションだった。深尾須磨子の『詩情の笛』、竹内てるよの『花と薔薇』、森三千代の『珊瑚礁』、江間章子の『純粋な貝殻』、露木陽子の『地上の苑』、馬淵美意子の『東方の蕋』、日本に二冊しかないといわれていた庄原照子の『マルスの薔薇』があるのにも驚いた。書棚のその段には昭和の初期から敗戦までにかけて活躍した女流詩人たちの詩集がズラリと並んでいた。その下段には安西冬衛の『軍艦茉莉』、丸山薫の『帆・ランプ・鴎』、立原道造の『ゆふすげびとの歌』、伊藤静夫の『わがひとに与ふる哀歌』、野村英夫の手製詩集『司祭館』、小林秀雄が訳した1930年に白水社から出版された『地獄の季節』、高村光太郎の『道程』、萩原朔太郎の『月に吠える』と『氷島』、宮沢賢治…、日本の近代の詩人たちのさまざまの本が何百冊も並んでいた。それを見つけて、「これはすごいコレクションですね」と彼がいうと、高杉はちょっと表情を歪めて「子供のころ、金がなくて本が買えなかったからね。高い金を出して、いまごろ、古本を買い集めているんだ」といった。彼が「高そうな本ばかりですね。これみんな初版でしょ」という。彼は前に、横浜の伊勢佐木町で、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の初版を四〇万円で売っているのを見たことがあった。ガラス戸棚に入れて、鍵がかかっていた。本を見せて貰えないかと、店番の若者に頼むと、「鍵を主人が持っていて、主人がいないと開けられないんです」といわれた。こういう本には、相場なんてあってもないようなものなのだろう。彼が立ち上がって、本箱の前にいって動けずにいると、高杉が「読むなら、お貸ししますよ。よく知らないけど、古本屋がいうには、こういう本は国会図書館にもないらしいね。持ってる人から借りて、フィルムに撮影して、保管しているらしいね」といった。伊東静雄の『わがひとに与ふる哀歌』など、いままで見たこともなかった。どっちにしても、自分の家のなかの書庫を探せば、この時代の詩人たちの全集や文庫はどこかにあるはずだから、読書のためということでいうと、彼にはこれらの本を借りる意味もない。隣家の庭先にたわわに実った大きな甘柿みたいなものである。「小説や随筆は二階の部屋に置いているんですよ。本はたくさんあるんだけれど、横浜に引っ越してくるとき、好きな本だけ選んで持ってきた。別に初版にこだわってるわけじゃないんだけど、初版しか出てない本もけっこうあるしね。古本屋も初版に高い値段を付けて持ってくるんですよ。どの本も高くてね、でも、わたしのためにかけずり回っていてくれる古本屋さんが何人かいて、その人たちが必死で集めてくれて、ここまでになったんです。だいぶ、カネはかかったけど。他に道楽もないし、ささやかな贅沢ですよ」と高杉は笑顔でいった。「ベッドで寝ていて、ぼくが走ってくるのがわかるんですか」と彼があらためて訊ねると、高杉は「ぼくもそういうことに敏感なんですよ。性質ですね。でも、貴方のオーラの強さも相当なもんです。ここに引っ越してきてからずっとですが、貴方がそこの道を通るたびにわたしは心臓の動悸が激しくなった。眠っていても、目が覚めるんですから。それで、どうしても一度、あなたに会わなければ死んでも死にきれないと思っていたから、今朝、会えてとても嬉しかった。また、遊びに来てください」高杉は言葉を継いでそういった。「いずれもう一度、お時間をとっていただいて夕食にでもお招きしたいですね。そして、どうしてこんなことをいったか、詳しいお話をしなくちゃならないと思っているんですが、その時にはタケチさんのお仕事の話ももう少し詳しく聞かせてください」高杉はそういった。これがふたりの初めての出会いだった。窓から外を見ると、雨足が衰え、雨は止みそうだった。帰り際に、晴美さんと呼ばれた若い娘が門のところまで見送ってくれて、電話番号を聞かれた。彼はなんだか気持ちの悪いおじいさんだと思い、そのあと、この家の前を通るジョギングコースを走るのをやめた。二人が再会するのは八月の末で、それまのでの六月、七月、八月と三ヶ月間、何度かこの晴美という娘から、「高杉の使いの者ですが…」といって電話がかかってきたあと、半ば強制的な話の流れのなかでのことだった。「遊びに来ませんか」といわれても、彼は実際に仕事がつまっていて忙しかったこともあったし、のんびりと人のお相伴にあづかっている身分でもなかった。自分のことをあれこれ聞かれるのもイヤで、今日はダメなんですとか、いやちょっと忙しくてとか、いろいろいってズルズル延ばしに高杉との再会の約束から逃げつづけていた。彼は高杉の遺志を受け継いで生きる資格のあるような人間ではなかった。無念だが、それが本当のところなのだからやむを得ない。(第一章 愛人 につづく) 2017.02.19 09:34
★小説『廃市〜雨の朝、横浜に死す〜』について。 小説を読んでいただこうと思っている。こういうモノはいままで発表したことがなく、わたしはこういう創作小説の作家だと思われていないが、機会があって、書いたものである。この小説の由縁は追々書いていくつもりだが、多分、日本一読みにくくて、難解な、フィクションとノンフィクションの中間に位置する、現実を土台にした一種の現代史の歴史小説である。わたしは自分でこれをハンフィクション(虚実半々)小説だと考えている。 2017.02.17 21:41
★業務報告03 塩澤が去年やった仕事。去年はけっこうめまぐるしく忙しかった。去年を中心にした、一昨年から今年にかけての塩澤の仕事を整理してレポートしておきます。気に入った本があったら、読んでみてください。書店でもアマゾンでも売っています。去年は作家として二冊、編集者として二冊の本を手がけた。編集者として、最初から自分で本の形を想定して原稿製作をやったのは久しぶりで、椎根和の『完全版 平凡パンチと三島由紀夫』を編集して以来だから四年ぶりだと思う。これはきっかけがあり、これまで、マガジンハウスを辞めてから、自分の原稿が本になるのが嬉しくて、自分の本ばかり作って、それなりに商売にしてきた経緯があった。それがあるとき、昔いっしょに仕事していた石川次郎から「シオ、お前も昔は編集者やっていたんだから、自分の本ばかり作ってないで人の本も作ってやれよ」と言われて、しばらくぶりに編集仕事もしてみようと思ったのである。 編集者と作家と二冊ずつ、本を作ってみて、いま感じていることは、編集者も自分が好きなように本が作れれば、こんなに面白い仕事はないな、ということだった。編集者には作家としての自分がとても作れないような本が作れる。去年、編集者としてやった仕事は、二冊とも、新人作家を育てるような、コンを詰めなければならない作業だったせいもあり、作っている最中は色んな人と打ち合わせとかくり返して、あれこれしゃべるのは結構ヘビーで、作家の方が楽だなと思ったこともあった。わたしはあまり注文仕事はやらない。作家として原稿を書く場合、自分の書きたいテーマを取材し、河出書房の担当者以外は誰にも相談せず、原稿を書きあげたあと、自分で書いた本を自分で編集する。完全に一人だけの作業なのだが、最初から落とし所というか、最後の本の完成したときのイメージを決めているので、意外性はなく、原稿書きもしんどいが、仕事はわりあいスムーズに進むことが多い。 編集者として著者にこちらが考えているような原稿を書かせるのは大変だが、好きな人間としか仕事しないので、人間的なコミュニケーションも深まって、楽しい。作家と編集者を一人で兼任すると、本作りが本当に孤独な作業になる。 去年わたしが茉莉花社ブランドとして発表した四冊を紹介しますが、いずれにしても、四冊ともある程度評判になったので、良かったと思っている。 まず、作家として作った二冊の本というのは次の二冊です。 ■格闘者〜前田日明の時代②〜 四六判600ページ。上製本。3000円。2017.02.16 13:54
★業務報告02 塩澤の今後の書籍刊行予定。書籍出版の予定についてはいつもウソばかりついていてすみません。ご迷惑をおかけしています。約束破りばかりしている塩澤幸登の今後の執筆、書籍刊行予定です。現在、二つの作品を並行して執筆中です。いずれも河出書房新社からの発売です。まず最初の一冊は、『ナチュラルハイ』等の著者でもある翻訳家の上野圭一さんとの共著の形になるのですが、タイトルは 『全記録 諏訪之瀬・第四世界』 記録映画+塩澤ノンフィクションの組み合わせで作るDVDブックです。2017.02.16 05:48
★業務報告01 『忘却図書館』のこと以下の企画書は,2018年10月出版予定の作品です。 この本はおおむねの取材を終わらせていて、執筆作業を残すのみになっています。 既に取材させていただいた方々にはご迷惑をおかけしています。 執筆予定の原稿がいくつかあり、この企画が本になるのはまだだいぶ先。申し訳ないです。 『忘却図書館〜わたしの心のなかの本棚にある、愛する作品たち〜』 [企画意図]本が好きな人はみな、心のなかに自分だけの図書館を持っていて、その書架にはかつて読みふけった古い愛読書が並んでいる。それらの本は彼にとっては忘れようとしても、決して忘れられない本である。愛書家たちのその愛するべき書物の記憶は、その本と出会ったときの思い出やそのころの自分の生活、時代の記憶と結びついて、本は意味を失わない。その本を書いた作家たちはそれらの書籍のなかの表現に何を託そうとしたのか。わたし(著者)の記憶の図書館にある愛書の多くはすでに物故した作家たちの作品だったり、倒産した出版社の本だったりするが、それらの本は、個人的な時代の記憶を超え、戦前戦後のさまざまな出版の潮流、文化的な思想と結びついて忘れがたい。人間と本が織りなし、くり広げる文化創造の裏面を、その時代を必死で生きようとした作家と編集者たちの、精神の営為としての一冊の書物の物語を描き出したい。 [企画内容]作家と編集者、作家が著者として出版した一冊の図書と一番最初の読者になった編集者とのつながりを解きほぐし、その本が出版された時代状況とその人たちがどういう仕事をし、どういう人生を生きようとしたかを解読していく。 ①横光利一と『平凡社版新進傑作小説集4』 ②荘原照子と詩集『マルスの薔薇』 ③長沢延子と『海〜友よ、私が死んだからとて〜』と原口統三と加藤和彦 ④丸谷才一の『横しぐれ』と講談社の榎本昌治 ⑤川村喜一の『ファラオの階段』と大内要三と高橋秀明と吉村作治 ⑥加藤文太郎の『単独行』と格闘家・前田日明 ⑦百瀬博教の『昭和不良写真館』と花田紀凱 ⑧杉村太郎の『アツイコトバ』と『絶対内定』 ⑨六角幸生のCD『LOVE ME TENDER&初恋』と書籍『命ある限りボーカリスト』 ⑩斎藤茂の『歌謡曲だよ、人生は』と加藤安貞 ⑪五味彬『イエローズ』と平沢豊、『ワイルドライス』と塩坂三郎 ⑫山際淳司の『スローカーブをもう一球』と『最後の夏』 ⑬三浦恵『音符』とマガジンハウスのオリーブ少女たち ⑭上野圭一と映画『スワノセ・第四世界』と『ナチュラルハイ』 本と著者と読者を結びつけている記憶の物語、…本の数は全部で十四冊の予定でいます。ぼくがいつも書いている〝弁当箱〟みたいな本になる予定です。執筆・刊行が遅れて申し訳なく思っています。執筆予定作品を順番に書きあげていきますのでもうしばらくお待ち下さい。 塩澤 2017.02.15 20:35